いおう‐じま いわう‥【硫黄島】
[二]
鹿児島県大隅諸島の北西方にある火山島。面積一一・七八平方キロメートル。
硫黄岳(七〇四メートル)がある。
平安時代に
俊寛が流された場所といわれる。硫黄が島。
鬼界ケ島。喜界ケ島。薩南硫黄島。吐噶喇
(とから)硫黄島。
いおう‐が‐しま いわう‥【硫黄島】
※
平家(13C前)二「鬼界が嶋へぞ流されける。〈略〉硫黄と云ふ物みちみてり。かるがゆへに硫黄が嶋とも名付たり」
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デジタル大辞泉
「硫黄島」の意味・読み・例文・類語
いおう‐とう〔いわうタウ〕【硫黄島】
東京都、小笠原諸島の南西、硫黄列島の中央の火山島。第二次大戦の激戦地。現在は自衛隊の基地が置かれている。中硫黄島。いおうじま。
菊村到の短編小説。昭和32年(1957)発表。同年、第37回芥川賞受賞。昭和34年(1959)映画化。
[補説]明治時代以降「いおうとう」と呼称されていたが、第二次大戦で占領した米軍が「いおうじま」と呼んだ。昭和43年(1968)の返還後は旧呼称に復したが、昭和57年(1982)の地図改訂で「いおうじま」と誤記されて以降この呼称が定着。平成19年(2007)に元島民らの要求が受け入れられ、国土地理院と海上保安庁によって「いおうとう」の呼称が正式とされた。
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硫黄島
いおうじま
鹿児島港から一〇八キロの洋上にある。主峰硫黄岳(七〇三・七メートル)が噴煙を吐く周囲一四・五キロの火山島。古くは鬼界島とよばれたとされ、俊寛説話で知られる。海岸は鬼界カルデラの壁で、ほとんどが断崖。東は新硫黄島(昭和硫黄島)を挟んで竹島、西は黒島。北方約五〇キロに薩摩半島南端の枕崎市、南方約四〇キロに屋久島がある。面積一一・七八平方キロ。元禄国絵図には島回二里五町とあり、権現・へいけの城などの記載がある。また「三国名勝図会」では鹿児島から三一里、山川湊(現山川町)から一八里。また硫黄岳について「海上より聳へ立ち、形状奇高なり、土俗の説に、登り三里、下り一里といへども、大抵半里許もあるべし、山面都て焼石にて艸木生ぜず、山の半腹より上は処々硫黄燃上り、山頂最も多く燃出づ」などとみえる。
〔古代・中世〕
古代以来、記録・物語類にみえる貴海島・鬼界島などは硫黄島にあたるとする説がある。中世は薩摩国河辺郡十二島のうち口五島に属し、地頭職・郡司職が設定されていた。また中世には流刑地、硫黄産出地として知られていた。「平家物語」巻二は治承元年(一一七七)俊寛・平康頼・藤原成経の配流地を「薩摩潟鬼界が島」とし、延慶本「平家物語」は配流地の鬼界島を島のなかに火山島があり、硫黄を産するので油黄島と名付けられたとしている。「吾妻鏡」文治三年(一一八七)九月二二日条に「貴海島」とみえ、阿多忠景が勅勘を被って逐電したという。忠景は硫黄島で没したという説がある(「谷山氏系図」川辺郷土史)。正嘉二年(一二五八)に平内俊職が流されたといい(「吾妻鏡」同年九月二日条)、弘安元年(一二七八)には殺害人松夜叉丸が流されている(同二年四月一一日「六波羅御教書」旧記雑録)。嘉元四年(一三〇六)四月一四日の千竈時家譲状(千竈文書)にみえる河辺郡十二島に含まれた。文保三年(一三一九)東福寺(現鹿児島市)で禁を犯した家臣は当島に流される定となった(同年二月五日「島津忠宗禁制」旧記雑録)。元弘の乱では関東調伏を祈祷した科で文観が流された(「太平記」巻二)。興国四年(一三四三)河辺郡「黒島硫黄郡司職」が、かめまつ丸に与えられた(同年一〇月二二日「某書下」旧記雑録)。応永年間(一三九四―一四二八)当島は黒島・竹島とともに「三島」とよばれ、守護島津久豊から種子島氏に与えられた(種子島家譜)。
「海東諸国紀」の九州之図や、明代の一五五七年刊の「日本一鑑」の絶海新篇図などに島名が記載され、「万暦三代征考」の日本総図には硫黄山とみえる。
硫黄島
いおうじま
火山列島(硫黄列島)の中心島で、父島の南南西約二七五キロに位置する。「いおうとう」ともよぶ。火山島で、島内のいたるところに噴気孔がある。面積は二二・三六平方キロ。島の南西端に最高峰の摺鉢山(一六一メートル)がある。明治二〇年(一八八七)東京府知事高崎五六が島を巡視、同二二年田中栄二郎が硫黄採掘と漁業基地建設の目的で渡島している。同二四年正式に日本領土となり、東京府の所管となった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
硫黄島
いおうとう
東京都,小笠原諸島の南部,硫黄列島中最大の火山島。活火山で,常時観測火山。別称中硫黄島。小笠原村に属する。海上自衛隊航空基地がある。台地状をなし北東部に元山(115m),南西端には円錐火山の摺鉢山(169m)がある。硫気を噴出し地熱も高い。過去たびたび噴火を起こしており,近年では 2012,2013年に小規模な水蒸気爆発があった。島の隆起を示す海岸段丘や断層崖が発達し,今日でも活発な隆起活動が続いている。無人島であったが,安永8(1779)年ジェームズ・クックの探検隊が発見,1891年日本領有後移民が居住。漁業,硫黄採集や熱帯農業に従事した。太平洋戦争の激化に伴い,住民は全員本土に引き揚げ,その後戦史に残る激戦場になった(→硫黄島の戦い)。第2次世界大戦後アメリカ合衆国の軍政権下にあったが,1968年日本に返還された。面積 23.16km2。
硫黄島
いおうじま
鹿児島県南部,薩摩半島南方約 40kmの洋上にある火山島。活火山で,常時観測火山。口之三島の一つで三島村に属する。最高点は硫黄岳(704m)。硫黄岳は流紋岩からなる成層火山で,噴気活動が活発。1934~35年東方 2kmの海底で溶岩の流出を伴う大規模な噴火が起こり,新島(昭和硫黄島)が形成された。地名の由来となった硫黄採掘は 1964年まで行なわれた。諸説ある鬼界ヶ島の所在地の一つといわれ,鬼界ヶ島の別名をもつ。1994年全国で初の村営飛行場として薩摩硫黄島飛行場が開港した。定期船で鹿児島港と結ばれている。面積 11.65km2。人口 150(2000)。
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いおうじま【硫黄島】
小笠原諸島のうち硫黄列島の三つの火山島の真ん中にある島。別名,中硫黄島。第2次世界大戦後,アメリカ軍の施政下にあったが,1968年復帰し,現在は東京都小笠原支庁小笠原村に属する。面積20.2km2。第2次大戦末期に日本兵が全員玉砕した島である(硫黄島作戦)。火山島といっても付近の南・北硫黄島とは構造が異なり,南端の小円錐形で大きな火口のある活火山(摺鉢山,161m)と標高100m余の平たんな凝灰岩層の台地(元山火山)とが結合して一つの島を形づくっている。
いおうじま【硫黄島】
薩摩硫黄島,鬼界ヶ島ともいう。鹿児島県薩摩半島南岸の南方約50kmの東シナ海にある火山島。東方約10kmの竹島,西方約30kmの黒島とともに鹿児島郡三島村に属し,口之三島の一つ。東西約6km,南北約3km。竹島とともに鬼界カルデラ(カルデラの直径東西約22km,南北約13km,形成時期不明)の北外縁に位置する。北端部から南西部にかけては先カルデラの火山体で,標高約300m以下の山地または台地からなる。
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世界大百科事典内の硫黄島の言及
【境】より
…堺とも書く。あらゆる事物や空間を区切るさまざまな仕切り(境界)。歴史上,境は原始社会から現代に至るまで,小は家と家の境,耕地と耕地の境などから,大は国郡などの行政区分上の境や国境まで普遍的に存在する。 日本の古代では,山や川などの天然・自然の境界物が基本的な境とされていた。《出雲国風土記》に登場する国堺・郡堺の記載50例(重複を含む)をみると,山が15例,水源1例,川が10例であり,さらに埼3例,浜1例,江1例を加えれば,国郡の堺の7割が自然の境界だった。…
【三島[村]】より
…人口513(1995)。薩摩半島南方40~50kmの海上にある口之三島(くちのみしま)(竹島,硫黄島,黒島)からなる。いずれも火山島で,なかでも硫黄島は常時噴煙を上げている。…
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