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磯部浅一 いそべ-あさいち
1905-1937 昭和時代前期の軍人。
明治38年4月1日生まれ。昭和4年陸軍中尉。北一輝の影響をうけ,皇道派将校として国家改造をめざす。9年村中孝次(たかじ)らの十一月事件(士官学校事件)に連座し,10年停職となる。同年「粛軍に関する意見書」をかいて統制派を批判し,免官。11年栗原安秀らと二・二六事件を指導し,12年8月19日銃殺された。33歳。山口県出身。陸軍士官学校卒。
【格言など】棺の中に妻の髪の毛を(遺言)
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世界大百科事典内の磯部浅一の言及
【士官学校事件】より
…同年8月陸軍士官学校の生徒隊中隊長に就任した辻政信大尉は,腹心の士官候補生を使って,士官候補生に影響を及ぼしていた皇道派青年将校村中孝次大尉(陸軍大学校在学中)から,皇道派が11月27日召集の第66臨時議会の前後にクーデタを計画しているという情報を探りださせた。辻はこの情報を憲兵司令部および先輩の片倉衷少佐に注進し,11月20日村中や磯部浅一一等主計らが緊急逮捕された。35年3月第1師団軍法会議は証拠不十分として不起訴処分の決定を下したが,村中,磯部ら3名は停職となった。…
【粛軍】より
…軍内部の粛正を指すが,日本の近代史においては,二・二六事件前後の時期に陸軍内部の派閥争いをめぐって問題となった。最初に粛軍を唱えたのは,1935年7月,村中孝次,磯部浅一が発表した〈粛軍に関する意見書〉であり,それは士官学校事件をでっちあげて青年将校運動を弾圧した責任を追及するとともに,1931年の三月事件,十月事件が陰ぺいされていることに軍不統制の原因があるとして,関係者の粛正を求めたものであった。しかし,彼らが二・二六事件の指導者として決起すると,今度は逆に事件の責任の追及と内部統制再建のための措置が粛軍の具体的内容とされた。…
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