兵庫県南東部に位置し、大阪湾に臨む国際貿易都市、県庁所在地。政令指定都市。1889年(明治22)市制施行。当時の面積は21.28平方キロメートル、人口13万4704人にすぎなかった。1896年に湊(みなと)、林田、池田の3村、1920年(大正9)に須磨(すま)町を編入して市域を西方へ広げ、1929年(昭和4)西郷町と六甲(ろっこう)、西灘(にしなだ)の2村をあわせて東方へも拡大、1931年には行政区を設置、灘、葺合(ふきあい)、神戸、湊東(そうとう)、湊、湊西(そうさい)、林田、須磨の8区が成立。1941年には垂水(たるみ)町を編入して人口は約100万に達したが、第二次世界大戦の影響を受け、1945年(昭和20)には37万8592人に激減した。1945年行政区を灘、葺合、生田(いくた)、兵庫、長田(ながた)、須磨の6区に統廃合、1946年に須磨区から垂水区を分離設置、1947年有馬(ありま)町と有野、山田の2村を兵庫区に、伊川谷(いかわだに)、櫨谷(はぜたに)、押部谷(おしべだに)、玉津、平野、神出(かんで)、岩岡の7村を垂水区に編入、1950年魚崎(うおざき)、御影(みかげ)2町と住吉(すみよし)、本庄(ほんじょう)、本山(もとやま)3村を編入して東灘区成立。1951年道場(どうじょう)、八多(はった)、大沢の3村、1955年長尾村、1958年淡河(おうご)村を兵庫区に編入。1973年兵庫区から北区を分離設置、1980年生田、葺合2区が合併し中央区設置、1982年垂水区から西区を分離設置した。なお、地先海面を漸次埋め立てて市域に編入した。面積557.02平方キロメートル(境界一部未定)、人口152万5152(2020)、人口密度1平方キロメートル当り2738人。
神戸市は、シアトル(アメリカ)、マルセイユ(フランス)、リオ・デ・ジャネイロ(ブラジル)、リガ(ラトビア)、ブリズベン(オーストラリア)、バルセロナ(スペイン)、天津(てんしん)(中国)、仁川(韓国)と姉妹都市・友好都市、フィラデルフィア(アメリカ)、大邱(韓国)と親善協力都市、天津港と友好港の提携を結んでいる(2022)。
[富岡儀八]
市街地の北方に、標高400~900メートルの六甲山地が東西方向に連なる。南東側が断層崖(がい)をなす傾動地塊で、この山地から南流する住吉川、都賀(とが)川、生田川、新湊(しんみなと)川などが山麓(さんろく)に複合扇状地状三角州を形成した。市街地はこの山麓の狭い低地につくられたが、東西距離は約35キロメートルにも及ぶのに対し、南北幅は広い地区でも約5キロメートルで細長い形態をなす。
[富岡儀八]
市街地のある南部は、瀬戸内式気候で雨量が少なく温和であるが、北部の山間部はやや内陸的で、寒暖の差が大きい。神戸地方気象台での観測では、年平均(1991年から2020年までの平均値)気温17.0℃、最低は1月の6.2℃、最高は8月の28.6℃である。また、年間降水量は1277.8ミリメートルで、春や夏に多い。
[富岡儀八]
兵庫港は、すでに奈良時代に大輪田泊(おおわだのとまり)として知られ、天平(てんぴょう)年間(729~749)に僧行基(ぎょうき)が修築したという摂播(せっぱん)五泊のなかに入れられ、瀬戸内海交通の要津(ようしん)をなした。とくに、平安期末に福原遷都を画した平清盛(きよもり)により、防波堤や築島(つきしま)などの大規模な工事が行われ、国内交通のみならず、日宋(にっそう)貿易の基地として栄えた。源平の戦乱によって一時荒廃したが、その後修築され、鎌倉時代ごろから兵庫島、兵庫経ヶ島(きょうがしま)ともよばれて世に知られた。室町時代には日明(にちみん)貿易(勘合貿易)の基地となり、朝鮮使節も入港したが、応仁(おうにん)の乱(1467~1477)後はふたたび衰退し、和泉(いずみ)の堺(さかい)がそれにかわって繁栄した。江戸時代に入り、世情も安定して国内経済も活況を呈すると、大坂は天下の賄所(まかないどころ)として繁栄し、諸国から瀬戸内海を経由して大坂へ入港する廻船(かいせん)の多くは、兵庫津に寄港し、ここで積み荷を小舟に積み替えて廻送(かいそう)したため、ふたたび脚光を浴びることになった。兵庫は16世紀末(天正(てんしょう)年間)に城と城下町が築かれたこともあったが、城は短期間で廃され、以来、尼崎(あまがさき)藩領、幕府直轄領と変遷した。しかし、港市としての機能はつねに保持され、南仲町に「札場(ふだば)の辻(つじ)」を置き、南浜を中心とした海岸部には問屋が建ち並んで商業が発達し、幕末期の人口はほぼ2万人を数えた。
1858年(安政5)の日米修好通商条約に基づき、兵庫港の開港が決められたが、外国人との紛争回避、居留地の確保などから、古い港市の兵庫港を避け、生田川尻(じり)から湊川尻間の神戸浦に、停泊地、居留地、税関などが設けられた。1867年(慶応3)横浜より8年遅れて開港し、神戸港とよばれた。古い兵庫港と新しい神戸港とはそれぞれに港町として栄えたが、1878年(明治11)布告の郡区町村編制法で、ともに神戸区に包含され、さらに、1889年に葺合、荒田の2村を合併して神戸の市制施行をみ、1892年には両港を一括して神戸港とよぶようになった。神戸港の開港以来、湊川左岸に県庁が置かれ(現在の神戸地方裁判所の位置)、さらに湊川神社の建造、福原花街の成長、神戸駅の設置などが相次ぎ、中心地が、従来の兵庫港にかわって神戸駅周辺に移った。他方、明治期後半ごろから大型商店の進出をみた元町(もとまち)は、神戸港と三ノ宮駅(現、元町駅)、また、居留地と雑居地などの中間地に位置するところから、多くの商店が集積して商店街を形成した。しかも、従来分離して発展した神戸、兵庫両地区を連結することにもなった。昭和初期には、国鉄(現、JR)の高架化に伴い、新三ノ宮駅が設置され、京阪神急行電鉄(現、阪急電鉄)、阪神電気鉄道などが乗り入れられ、三宮地区は東神戸の新興住宅地と直結したターミナルとして、デパート、商店、飲食店、映画館などが進出して、新興繁華街を形成するに至った。さらに、第二次世界大戦後、新聞会館、市役所、国際会館、交通センター、貿易センターなどの高層ビルが建設され、官公庁街的な要素も加えられた。他方では、三宮センター街、さんちかタウンの地下街などの新興商店街の形成も相次ぎ、老舗(しにせ)の多い元町にとってかわって市内随一の繁華街に成長し、中心業務地区を形成した。
神戸市の経済的基盤は港湾機能に置かれたから、開港とともに港湾施設の整備が急がれた。まず、生田浜に運上所(後の神戸税関)、倉庫、波止場(第1)などが建設され、1873年(明治6)ごろまでには、第2、第3(現在の米利堅(メリケン)波止場)、第4波止場も造築された。さらに、1875年に兵庫新川、1899年に兵庫運河などの開削、1901年(明治34)に湊川の付け替えなど、港湾整備が進捗(しんちょく)した。また、1906年から始められた第1、第2期港湾修築工事により、小野浜新港(第1~第6突堤)、兵庫浜(第1・第2突堤)に新突堤を漸次増築し、第二次世界大戦後も小野浜新港に第7・第8突堤、兵庫第3突堤、摩耶埠頭(まやふとう)などを加えた。また、これらの諸工事と並行して、船舶修理場、倉庫敷地、荷役場などの用地確保のため、海岸埋立て、護岸・波止場の拡幅などの工事も相次いだ。1981年(昭和56)、国際貿易港として、コンテナ船が活躍する新時代の要請にこたえるため、新港の沖合いに大規模な埋立てを行い、コンテナ埠頭、ライナー埠頭を中心とした面積436ヘクタールの人工島ポートアイランドが建設され、1981年3月20日から9月15日までポートピア’81(神戸ポートアイランド博覧会)が開催された。1992年(平成4)には、住吉浜の沖合いに595ヘクタールの第二の人工島六甲アイランドが建設された。さらに、ポートアイランド第2期事業として神戸空港島の埋立て工事が1999年に着工され、2006年(平成18)ポートアイランド沖に神戸空港が開港した。
他方、工業立地は、港湾都市の特性を生かし、臨海部を中心に発展した。低地の狭い土地条件から、海面の埋立てによって用地が確保された。1902年(明治35)に川崎造船所が旧湊川河口の地先海面に、1906年に三菱(みつびし)造船所が新川―和田岬の地先海面に、また1917年(大正6)に川崎製鉄、翌年に神戸製鋼所が、脇(わき)浜地先の海面を埋め立てて建設された。昭和に入って、小泉製麻、神戸製鋼所、川西航空機(現、新明和工業)などの諸企業の立地により、灘区、東灘区などの地先海面が埋め立てられた。さらに、第二次世界大戦後も市の経済開発の一環として、大規模な埋立て工事が行われた。その範囲は全域の地先海面に及んだが、とくに中央区、灘区、東灘区などの東部地域に多い。
市街地は古くからの兵庫港のほかに、開港後新しく外国人居留地とした旧生田川尻をはじめ、神戸港周辺などの臨海部、外国人住宅が建てられた山本通や北野町などの山手へも漸次拡大された。その後、明治期末から大正期にかけての京阪神急行電鉄、山陽電鉄、市電などの開通は、山手の宅地化を促進した。さらに、昭和期に入っての神戸電気鉄道や国鉄三木(みき)線(三木鉄道。2008年3月廃止)の開通は、六甲山地北方の宅地化を進めた。第二次世界大戦後は内陸部の宅地化がさらに進み、鈴蘭台(すずらんだい)住宅地、西神戸ニュータウン、西神工業団地、西神流通業務団地、北神戸団地などが造成された。1995年1月17日、マグニチュード7.3の巨大地震阪神・淡路大震災(はんしんあわじだいしんさい)(兵庫県南部地震)が発生。神戸市は第二次世界大戦後最大の災害にみまわれた。死者5504人、傷者4万3177人、損壊家屋20万9000棟以上、被災避難者は30万人をこえた。神戸市では1995年に「神戸市復興計画」を策定、2000年からは「神戸市復興計画推進プログラム」、2005年には「神戸2010ビジョン」が策定され、さらに「神戸2015ビジョン」「神戸2020ビジョン」「神戸2025ビジョン」が示されている。
[富岡儀八]
JRの動脈をなす東海道本線と山陽本線が神戸駅で接続し、市街地を東西方向に横断する。また、1972年(昭和47)に開通した山陽新幹線も、その北側に並行して敷設され、三ノ宮駅北東方1.5キロメートルの布引(ぬのびき)に新神戸駅が設置された。私鉄では、東海道、山陽両本線を挟み、山手側に阪急電鉄神戸本線、浜手側には阪神電鉄本線がそれぞれ大阪へ通じ、山陽電気鉄道が西神戸の海岸を通って姫路市と結んでいる。ほかに、神戸電鉄が六甲山地を越えて有馬、三田(さんだ)、三木、小野方面と連絡する。これらの私鉄は、1968年に完成した神戸高速鉄道東西線の高速神戸駅で結ばれ、神戸電鉄も新開地駅で接合された。さらに、1977年にはJR新長田駅―名谷(みょうだに)駅間に市営地下鉄が開通し、神戸新交通が1981年にはJR三ノ宮駅とポートアイランド間(ポートライナー)、1990年(平成2)には住吉と六甲アイランド間(六甲ライナー)で開通した。1987年には市営地下鉄がJR新神戸駅―西神中央駅間に延長され、1988年に北神急行電鉄が新神戸から六甲山をトンネルで貫いて谷上へ延長し、地下鉄と直通運転を開始。2001年(平成13)には市営地下鉄海岸線が、新長田駅―三宮・花時計前駅間に開通した。なお、北神急行電鉄は2020年(令和2)に市営化し、市営地下鉄北神線となった。1971年には市電(路面電車)全線が撤去されて、市バスが市内交通の中心となっている。また、2006年の神戸空港開港に伴い、連絡橋の神戸スカイブリッジが開通、ポートライナーが空港まで延長された。
道路は、国道2号、43号、阪神高速道路、中国自動車道、第二神明道路、山陽自動車道、新名神高速道路などが幹線をなし、大阪、名古屋、明石(あかし)、姫路などと結ばれている。また、南北方向をとる国道175号、428号、主要地方道の神戸三木線、神戸三田線をはじめ、1967年開通の六甲山トンネル、さらに1976年開通の新神戸トンネルなどにより、北部地区との連絡が強化された。1998年に神戸淡路鳴門自動車道(こうべあわじなるとじどうしゃどう)と明石海峡大橋が開通し、淡路島経由で四国と結ばれている。
海上交通では、国際的貿易港として百数十か国との間に定期航路網を開設し、2021年の神戸港の入港船舶総数は2万5311隻、うち外航船舶が6051隻で、コンテナ船、各種タンカーなどの専用船が80%以上を占める。内航船舶は1万9260隻、その30%以上をフェリーボート、客船が占め、地元兵庫県をはじめ西日本諸県との結び付きが強い。なお、内航船舶は明石海峡大橋の開通により、大幅に減少している。
[富岡儀八]
市の経済は、神戸港と密接な関係をもって発達した。早くから建設された川崎重工と三菱重工両造船所、それに付随する各種工業など多くの企業は、港湾に関連をもって立地した。商業も同様に貿易商社をはじめ海運業、港湾運送業など港湾に関係するものが多い。2010年(平成22)の産業別就業人口の構成比は、第一次産業0.7%、第二次産業18.7%、第三次産業73.4%となっている。
[富岡儀八]
阪神工業地帯の一翼を担う神戸市の工業は、恵まれた地理的位置と良港をもつ有利な立地条件により、早くから造船、鉄鋼などの臨海型工業が発達した。2000年(平成12)の製造品出荷額は2兆6722億円余、事業所数4498、従業者数7万6560人に達する。業種別出荷額をみると、一般機械器具(19.3%)、電気機械器具(18.7%)、食料品(16.8%)の順で、以下飲料・タバコ・飼料、輸送用機械器具、鉄鋼業、出版・印刷と続く。鉄鋼、造船などの大企業とその関連下請中小企業および食料品、ゴム製品などの独立中小企業などが主体となり、これら諸工業が港湾に関連して発展してきた歴史的経緯と、機械関連の近年著しい発展がうかがえる。生産規模では、従業者数49人以下の事業所が95%を占め、従業者数500人以上の事業所は0.3%にすぎない。市域に低地が少ないため、これら工場敷地の拡張や新工場の進出は制約されている。事業所の分布を区単位でみると、ゴム工場の集積地である長田区が全体の37%を占め、ついで西区、兵庫区、中央区、須磨区、東灘区、灘区の順であった。一方、製造品出荷額では、金属機械、造船などの大企業が立地して、一般機械器具、電気機械器具が大きなウェイトを占める兵庫区が全体の30%を占め、一般機械、電気機械をはじめ各業種の出荷額が比較的高い西区(24%)がこれに次ぎ、海浜の大規模な埋立てによって工業化が進められて食品工業の多い東灘区(20%)、以下、製鉄、製鋼、造船諸工業のある中央区(11%)、ゴム製品を中心とした長田区(7%)の順となる。なお、灘区の新在家(しんざいけ)から御影(みかげ)、魚崎(うおざき)などにかけての沿岸部は、いわゆる灘五郷の一部をなして、伝統的な酒造業地をなす。
[富岡儀八]
2004年(平成16)の商店総数は1万9992、従業員数は14万5920人、年間販売額は5兆7127億円で、ともに震災前の数値を下回っている。商店のうち75%を占める小売業は、飲食料品店が35%を占めてもっとも多く、織物、衣服、身の回り品店(20%)、家具、建具、什器(じゅうき)店(9%)と続く。卸売業は近くに大商業都市大阪があるため、25%と比較的少ない。さらに、業種別、区別の分布をみると、小売業は中央区、兵庫区、垂水区の順で、3区をあわせて全市のほぼ50%を占める。販売額でも中央区が圧倒的に多い。中央区に買回り品店、飲食店、卸売業などの店舗率が高いのは、新興の三宮商店街、さんちかタウン(現、さんちか)、老舗の多い元町などの都心商店街を包含し、かつ、官公庁舎、商社、金融機関、百貨店などが集積して、中心業務地区を形成しているためである。
[富岡儀八]
神戸港は日本の代表的貿易港で、貿易額は成田、名古屋、東京、横浜港に次いで全国第5位を占める。2016年度(平成28)の輸出額は5兆1101億円、輸入額は2兆9008億円に達している。おもな輸出品はプラスチック(6.5%)、織物用糸および繊維製品(5.5%)、建築用・鉱山用機械(4.7%)、原動機(2.3%)などで、おもな輸入品は衣類(6.6%)、たばこ(4.3%)、無機化合物(4.1%)などである。貿易相手国のおもなものとしては中国、アメリカのほか台湾、ドイツ、韓国、マレーシア、タイなどがある。
[富岡儀八]
耕地面積は第二次世界大戦後の市域の拡大で一時増加したが、都市化の進展に伴い減少し、2017年(平成29)には、市総面積の約8%、4410ヘクタールとなり、農家も4537戸のうち、専業は18%にすぎない(2015)。水田のほかには、野菜・果樹栽培が農業経営の主力となり、とりわけ、キャベツ、トマト、イチゴ、ブドウなどの出荷金額が多い。畜産では牛(乳・肉用)、ブタ、採卵鶏が主である。漁業は不振で、2013年には漁家168戸、従事者245人で、漁獲量はイワシ、イカナゴ、タコ、ノリなどが多い。
[富岡儀八]
神戸市は海、山、温泉などの観光資源に恵まれ、2016年(平成28)の入込み客数は2167万人となっている。須磨、塩屋、舞子(まいこ)の海岸は、平安時代からの白砂青松の景勝地で、源平合戦の史跡をはじめ、海浜公園、海水浴場などがあり、新港町の地先海面にはポートアイランドや六甲アイランドが造成された。ポートアイランドには国際貿易港にふさわしく、国際会議場、国際展示場などがある。1981年(昭和56)開園の遊園地ポートピアランドは2006年に閉園した。六甲アイランドには市立小磯記念美術館、神戸ファッション美術館などがある。山手は緑の多い住宅地で、山本通、北野町の界隈(かいわい)は、異人館、坂道、しゃれた店などがあって異国情緒が漂う。明治以降、外国貿易商の居住も多く、北野町山本通は重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、洋風建築の旧トーマス住宅(1909年建造)、旧シャープ住宅(1903年建造)は国指定重要文化財。中山手通にある相楽(そうらく)園には旧ハッサム住宅(1902年建造、国指定重要文化財)が移築されている。神戸布引ハーブ園とロープウェーも観光名所となっている。
瀬戸内海国立公園に含まれる六甲山地は、明治期末に在神外国人によって山荘、ゴルフ場などが建設され保養地として知られ、植物園、遊園地、キャンプ場、六甲山牧場などの設備も整っている。六甲山北麓の有馬温泉(ありまおんせん)は畿内(きない)では珍しい温泉地で、古くから名湯として知られ、京阪神地方の奥座敷として利用が多い。六甲山地周辺には大竜(だいりゅう)寺、無動寺、丹生(たんじょう)神社などの古社寺のほか、日本最古の民家の一つとされる箱木千年家(はこぎせんねんや)(国の重要文化財)や、下谷上(しもたにがみ)の農村歌舞伎(かぶき)舞台(国の重要有形民俗文化財)がある。
市内には、源平の戦いのあとをしのばせる一の谷、鵯越(ひよどりごえ)、生田の森、清盛塚、敦盛(あつもり)塚などがあり、また南北朝時代の楠木(くすのき)・足利(あしかが)氏の争いの地湊川(みなとがわ)周辺には湊川神社、楠木正成(まさしげ)墓碑(国の史跡)がある。さらに、勝海舟(かつかいしゅう)の設計になる和田岬砲台(国の史跡)、生田神社、長田神社、太山寺(本堂は国宝)、須磨寺、能福寺、薬仙寺などの古社寺も多い。日本最初のイスラム教寺院、中国人の参拝者の多い関帝廟(かんていびょう)などがあって、異国情緒を醸し出している。このほか、国の史跡に五色塚(千壺)古墳、小壺古墳、処女塚(おとめづか)古墳、国の天然記念物に神戸丸山衝上(しょうじょう)断層、国の名勝に安養院庭園がある。
文化施設には、南蛮(なんばん)美術の多い市立博物館、日本・中国の古美術を蔵する白鶴(はくつる)美術館、茶道具を収集する香雪(こうせつ)美術館などのほか、県立美術館、神戸大学海事博物館、菊正宗(きくまさむね)酒造記念館、沢の鶴資料館、神戸海洋博物館などがある。
郷土芸能には、2月3日の鬼追神事である長田神社の追儺(ついな)式、5月25日の氏子による十六騎武者や稚子(ちご)武者の行列が名物の楠公(なんこう)祭、7月の海の日を中心に行われる国際色豊かな神戸まつりなどがある。
[富岡儀八]
『『神戸市史 第1~第3集』(1921~1932・神戸市)』▽『落合重信・有井基著『神戸史話』(1967・創元社)』▽『『神戸港大観』(1983・神戸市)』▽『『新修神戸市史』全16巻(1989~ ・神戸市)』
岐阜県南西部、安八郡(あんぱちぐん)にある町。1892年(明治25)町制施行。1897年末守(すえもり)、北一色(きたいっしき)、更屋敷(さらやしき)の3村、1950年(昭和25)北平野(きたひらの)村の一部、1954年下宮(しもみや)村、南平野村(一部)と合併。地名の由来は、安八郡の郡戸の転訛(てんか)説、日吉(ひよし)神社の神戸によるなどの説がある。中心の町並みは中世以来日吉神社の門前町として発達、江戸時代には九斎市も開かれた。町の南部は大垣市に接し、近郊農業も盛んで、とくにバラ栽培の生産額は全国でも上位に入る。繊維関係その他各種の工場が誘致されており、工業団地もある。養老鉄道やバスの便もあり、大垣方面への通勤者も多い。日吉神社の三重塔および木造地蔵菩薩坐像(じぞうぼさつざぞう)などは国指定重要文化財。また例祭は神戸の火祭として有名で、県の重要無形民俗文化財となっている。面積18.78平方キロメートル、人口1万8585(2020)。
[上島正徳]
『『神戸町史』上下(1969・神戸町)』▽『『郷土の歴史 ごうど』(1980・神戸町)』
古代、神社に属し、その祭祀(さいし)や経済を支えた民。「じんこ」とも読む。『日本書紀』崇神(すじん)天皇7年条にその制定記事がみえる。律令(りつりょう)制下では、朝廷から特定の神社に寄せられた封戸(ふこ)の一種に規定され、神封(しんぷう)ともいう。神戸の出す調庸(ちょうよう)および田租(でんそ)は、神社の造営や神に供する調度の料にあてられた。また神戸は公役につかず、もっぱら神社の維持修理にあたり、神戸のなかから神社の祭祀に奉仕する祝部(はふりべ)も任命された。祝部の名帳や神戸の戸籍は特別につくられ、806年(大同1)牒(ちょう)では、神戸を有する神社は170社、神戸の総数は5884戸を数える。宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)の1660戸、伊勢(いせ)大神宮の1130戸が多いが、1戸から数戸の神社が大半である。
[渡辺 寛]
三重県北部、鈴鹿市(すずかし)の一地区。旧神戸町。『和名抄(わみょうしょう)』の神戸郷(ごう)の地で、神宮領であった。江戸時代は神戸藩の城下町で、城跡は神戸公園となっている。現在は市役所などがある市の行政地区。近畿日本鉄道鈴鹿線が通じる。
[編集部]
兵庫県南東部にある県庁所在都市。大阪湾北西部に位置する世界有数の港湾・貿易都市でもある。1889年市制。人口154万4200(2010)。1956年9月政令指定都市となり,現在は東灘,灘,兵庫,長田(ながた),須磨,垂水(たるみ),北,中央,西の9区がおかれている。六甲山が急傾斜の断層崖で大阪湾に落ちこむ山麓に細い帯状の平地が発達し,東西20kmにわたって市街がのびているが,南北は幅の広い所でも4kmしかない。このうち山手は住宅地,浜手は港湾や工場で,中間部が商業地区に利用されている。面積では市全体のわずか1/8のこの区域に人口の約6割が集中している。こうした地形上の制約で神戸の市街地の拡大は長らく妨げられていたが,昭和30年代に入って山を削って海を埋める大事業が始められ,現在では市街地は六甲山地の西や北に広がる一方,ポートアイランドや六甲アイランドの海上都市が誕生した。1966年から15年の歳月を経て完成したポートアイランドは面積436ha,人口2万人の人工島で,ホテル,国際会議場,ファッション関係の業務施設などが立地し,周辺はコンテナー船バース11,ライナーバース15の巨大港湾施設を配置している。約10年遅れて着工した六甲アイランドは面積580ha,人口3万人を目ざす人工島で,やはり中央部には都市的施設,周辺部に港湾施設を配置している。2008年現在,六甲アイランド南側を埋め立てる工事が進行中である。
神戸は近畿の西の玄関である明石海峡に近く,古来山陽道や瀬戸内航路など水陸交通の拠点として重要であった。奈良時代には大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれ,12世紀中ごろには平清盛による大規模な修築が行われた。鎌倉時代に入ると兵庫津と名がかわり,清盛の築造した経ヶ島を中心に町が形成された。応仁の乱で町は一時衰退するが,江戸時代に西廻航路が発達すると再び隆盛に向かい,幕末の開港まで海上交通の要衝として繁栄した。1867年(慶応3)兵庫津の東にある神戸浦が開港し,以後港湾の整備や居留地の開発が急速に進んだ。明治初年の人口は2万5000と推定されているが,市制施行時には13万に増加し,横浜と並ぶ貿易・港湾都市としての基盤も整った。またその時の面積は21.3km2にすぎなかったが,以後,市域は主として西に広がり,1941年には115.1km2に増加し,人口も90万をこえた。さらに50年に東灘区,西区,北区の区域を加え面積は530km2に増加した。以後の市域の増加は海面の埋立てによるもので,95年の現市域は547.3km2に達している。
市内には農林漁業を除くと約8.6万の事業所があり,77万2000人が就業している(1991)。就業者のうち工業の占める割合は小さく,実数,構成比とも年々低下している。主要業種は食料品,鉄鋼,造船,機械,ゴム(ケミカルシューズ)の5業種であるが,その発展は,港湾と不可分の関係にある。近代工業の形成は明治初年に造船と輸出・輸入品の加工から始まったが,前者から鉄鋼,車両,通信機,家具装備品などが生まれ,後者ではマッチ,ゴム,製糖,製粉などがその例である。なお伝統産業として灘の酒で知られる酒造業があるが,その産地は市内東部の灘区から西宮市に至る臨海部で,古くから灘五郷と呼ばれている地域である。神戸はまた西欧文化の窓口としての役割を果たしてきたが,洋服,洋菓子,洋家具などは品質やデザインの優れていることでも定評がある。商業,サービス業では貿易港,県都として商社や大型小売店舗が多く,都心の三宮を中心に一大商業地区が形成されているが,隣接の大阪の影響で卸売業や中枢管理機能の発達は制約されている。しかし,ダイエーや灘生協(現コープこうべ)など小売業界の革新者を育てたことで知られる。
神戸はJR東海道本線と山陽本線の接続点であり,山陽新幹線も1972年に開通した。市内には阪神,阪急,山陽,神戸の4電鉄線が走り,これらのターミナルを結ぶ神戸高速鉄道がある。また開発の進む北西部から都心への足を確保するための市営地下鉄も開通した。一般道路や高速道路の整備も進められているが,東西の回廊的位置を占めるため通過交通が多く,中国自動車道,山陽自動車道,明石海峡大橋などを結ぶ大阪湾岸道路全線の完成が待たれる。また神戸港は瀬戸内海航路の最大のターミナルとして,四国,九州,沖縄を結ぶ定期船が中埠頭から発着するほか,東部第3,第4工区にはカーフェリー専用の埠頭がある。市街地の背後に連なる六甲山は瀬戸内海国立公園に属し,早くから別荘地やゴルフ場が開発され,市民の行楽地になっている。六甲山の北の谷間には古くから知られた有馬温泉がある。神戸は4万人以上の外国人が居住する国際都市であり,外国人のための学校や基地,あるいは回教寺院や関帝廟などの宗教施設がある。三宮の北の山麓には明治中期以降外国人の住宅が増え異人館と呼ばれてきたが,近年若い観光客を引きつけている。さらに歴史的・景観的価値の高い北野町の一角は伝統的建築物群保存地区に指定されている。
神戸港は世界屈指の大貿易港であり,開港以来船会社,貿易商社,金融保険,造船,舶用機械など多くの関連産業が発達し,港湾都市としての規模,施設,サービスのいずれにおいても卓越した地位にあった。しかし1995年1月の阪神・淡路大震災で大型岸壁239バースのほとんどが被災し,とくに主力であるコンテナーバースは潰滅的打撃を受けた。その後2年余りで施設の復旧は完了したが,国内外の港にシフトした貨物を取り戻すに至らず,効率の向上や費用削減を迫られている。阪神・淡路大震災により神戸は死者4567人,全半壊家屋12万3000棟,全焼7000棟,被害総額約6.9兆円という大きな被害を受けた。震災後に復旧や新しいまちづくりが進められ,2006年にはポートアイランド南側の沖合に神戸空港が開港。
執筆者:小森 星児
日本古代において,神社に世襲的に所属して,貢納と奉仕を任とした民戸。《日本書紀》崇神7年条に神戸の起源説話がみえるが,大化前代の神戸は部民的性格を持っていたと考えられている。令制では,国司によって作成された神戸の戸籍・計帳が神祇官に掌握され,封戸の一種として,調庸,田租,雑徭を負担した。その調庸,田租は国司の管理のもとに神社の造営,供神の料にあてられ,田租の残りは神税として義倉に準じて貯蔵され,出挙(すいこ)されなかった。また神戸の中から祝部(はふりべ)を選ぶのが原則とされた。神戸の数は806年(大同1)の《新抄格勅符抄》神封部には4876戸とみえる。また一郡全体の戸を神戸としたものを神郡(しんぐん)と称した。平安中期以降,神戸の実質的機能は失われたが,神戸の名を負う荘園が設置されていった。
執筆者:編集部
岐阜県南西部,安八郡の町。人口2万0065(2010)。揖斐(いび)川西岸に位置し,揖斐川扇状地の扇端部を占める。延暦寺領平野荘として平安時代から開発が行われ,中心の神戸は中世以来日吉神社の鳥居前町として発達した。東山道と揖斐川水運の要地でもあり,近世には衣類,米,酒,油などを扱う4・7・10の日の九斎市が開かれていた。近年,工業団地が造成され,レーヨンを中心とした繊維などの工業が発達し,農業も近郊農業に姿を変えている。大垣市方面への通勤者も多い。日吉神社の三重塔,地蔵菩薩座像などは重要文化財に指定されている。近鉄揖斐線(現,養老鉄道養老線)が通る。
執筆者:上田 雅子
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…三重県中北部の市。1942年河芸(かわげ)郡の神戸(かんべ),白子(しろこ)の2町と7ヵ村,鈴鹿郡の5ヵ村が合体して市制。人口17万9800(1995)。…
…古く封戸(ふこ)を有した神社のこと。封戸は国家より施入され,租,庸,調,雑役をその神社に納め,神戸(かんべ),神封戸とも呼ばれた。その起源は明らかでないが,古代神祇行政の整備とともに確立し,《新抄格勅符抄》に806年(大同1)当時,約170社4876戸の存したことを記している。…
… 長崎は日本における華僑発祥の地で,江戸時代すでに清国との交流が深い長崎に貿易商人としての華僑が渡来していた。神戸には1868年の開港で,諸外国人に交じって,中国本土と長崎から華僑が移ってくる。この華僑たちが神戸に中国料理をもたらすことになる。…
…神戸市兵庫区の兵庫港を中心とする地域の呼称。中世には兵庫三箇荘があって,港には兵庫南北両関が置かれた。…
※「神戸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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