精選版 日本国語大辞典 「神聖ローマ帝国」の意味・読み・例文・類語
しんせいローマ‐ていこく【神聖ローマ帝国】
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962年のオットー1世の神聖ローマ皇帝戴冠(たいかん)に始まり、1806年まで続いたドイツ国家の名称。
[平城照介]
神聖ローマ帝国の正式の名称は「ドイツ民族の神聖ローマ帝国」Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation(ドイツ語)、Sacrum Romanum Imperium Nationis Germanicae(ラテン語)であるが、この帝国が最初からそうよばれていたわけではない。帝国の先駆形態であるカロリング帝国はもとより、オットー1世の時代でも特別の名称はなく、単に「帝国」Imperiumとよばれていた。「ローマ」という形容詞が加わったのはオットー2世(在位967~983)の時代からで、とりわけ、ローマ帝国の復興を政治目的に掲げた次のオットー3世(在位996~1002)の時代に一般化する。さらに「神聖」なる形容詞が加わるのは、シュタウフェン朝のフリードリヒ1世(赤髯(あかひげ)王)の時代である。もともと神聖ローマ帝国は皇帝権と教皇権の2本の柱に支えられた一種の神聖政体であるが、聖職叙任権闘争の結果、教皇権=聖権と皇帝権=俗権の分離・対立が表面化し、皇帝権の世俗化が著しくなり、事態は聖・俗両権の分化という単純な形をとらず、皇帝権も教皇権もともに聖・俗両面を有するという主張を譲らなかった。皇帝側は、皇帝位は教皇によって授けられるものでなく、直接に神の恩寵(おんちょう)と諸侯の選挙によって決定されると主張し、「聖なる教会」Sancta Ecclesiaに「神聖な帝国」Sacrum Imperiumを対置した。その結果、大空位時代の皇帝、ウィルヘルム・フォン・ホラントWilhelm von Holland(在位1247~56)の時代に、初めて「神聖ローマ帝国」という名称が出現してくる。中世末、皇帝はイタリア支配を維持してゆく実力を失い、国王に選挙されたのち、ローマ遠征を行って教皇より皇帝として戴冠する慣行も、1452年のフリードリヒ3世を最後に後を絶った。神聖ローマ帝国の版図はドイツに限られたわけで、それに対応して、15世紀末より、「ドイツ民族の」という限定詞が付加されることとなった。
[平城照介]
神聖ローマ帝国の歴史的先蹤(せんしょう)は、800年のカール(大帝)の戴冠に始まる、いわゆるカロリング帝国であるが、この帝国もまた、476年に滅亡した西ローマ帝国の復活とみなされるものであった。ルートウィヒ(ルイ)1世(敬虔(けいけん)王)の死後、カロリング帝国は三分され、中部フランクと皇帝位は長男のロタールが、東フランクと西フランクはそれぞれルートウィヒとカールが継承し、東フランクはドイツ王国へ、西フランクはフランス王国へと発展するわけであるが、中部フランクはロタールの死後さらに、ロートリンゲン、ブルグント、イタリアに分割され、やがてカロリング家の王統も断絶した。ロートリンゲンはメルセン条約(870)、リベモン条約(880)により東西フランクに分割されたが、ブルグント、イタリアでは、在地の大豪族たちがそれぞれ王を自称し、対立・抗争を続けていた。
ザクセン朝第2代の国王オットー1世は、このブルグントとイタリアを征服、併合し、この地に残っていた皇帝権の伝統を手に入れることにより神聖ローマ皇帝となるわけであるが、ちょうどカール大帝がローマ教皇レオ3世の手により戴冠されたように、2回にわたるイタリア遠征を行い、962年、教皇ヨハネス12世の手により皇帝として戴冠された。以後歴代ドイツ国王は、即位後ローマ遠征を行い、教皇から皇帝として加冠されることが伝統となった。皇帝独自の権限というようなものはほとんどなく、名目的称号にすぎないが、教皇権の保護者であるという機能により、理念的には西欧キリスト教世界に一種の優越性を有したわけである。この優越性は、ザクセン、ザリエル、シュタウフェン3王朝を通じて若干の変動はあったとはいえ維持されたといえるが、同時に、のちに顕在化する教権と俗権との対立の契機をも含んでいた。
ザクセン朝時代のドイツ王国は、シュワーベン、ザクセン、バイエルン、フランケンなど、いくつかの部族大公領の合成体であったが、これは、部族大公の権力が強まり、在地の部族民との結合が強固になると、絶えず王国を分裂に導く危険を秘めていた。オットー1世はこれに対抗すべく、国家統一の支柱を、国内の教会勢力との結び付きに求める、いわゆる「帝国教会政策」なるものを採用した。大司教、司教、帝国修道院長などの高級聖職者に所領を寄進ないし封土として与え、種々の特権と保護を与えると同時に、彼らを国内統治上の枢要の地位につけるという政策である。この政策はザクセン朝の諸帝および初期ザリエル朝の皇帝によって継承され、かなりの成功を収めた。とりわけハインリヒ3世(在位1039~56)は、当時盛んになりつつあった教会改革運動の主導権を握り、教皇庁の改革をも助けて教皇権の権威の確立に貢献するところが大きく、神聖ローマ帝国の最盛期を実現した。だが、教会改革と教皇権の強化は、帝国教会政策にとっていわば両刃の剣であった。この政策は皇帝の聖職者に対する叙任権を前提としており、高位聖職者は大司教、司教、帝国修道院長に叙任されると同時に皇帝の封臣となり、皇帝に対し封臣としての奉仕の義務を負うが、これが教会改革の一つの攻撃目標であった聖職売買の一種とみなされ、ひいては俗権による聖職者叙任そのものまで否定される結果を生んだからである。とくに、教皇の至上権の確立を意図した教皇グレゴリウス7世と、教皇の警告を無視してミラノ司教の叙任を強行したハインリヒ4世との争いは、皇帝の王権強化政策と、それに反発する国内諸侯との対立というドイツ国内の政治状況と結び付いて、全国的内乱、いわゆる聖職叙任権闘争にまで発展したのである。
内乱はウォルムス協約(1122)によって収束したが、その間にドイツの封建化は急速に進み、聖俗の諸侯はそれぞれの領邦の樹立と領邦支配権の確立への道を踏み出す。これに対抗すべく、シュタウフェン朝のフリードリヒ1世は、西南ドイツを中心に皇帝自身も自己の領国の形成に努め(帝国領国政策)、皇帝であると同時に、一個の領邦君主でもあるという性格を帯びるに至り、中世後期、帝位が選挙により転々とするいわゆる「跳躍選挙」Springender Wahlの時代には帝国の運命に重大な影響を与えることになる。フリードリヒ1世は、諸侯中最大のハインリヒ獅子(しし)公Heinrich der Löwe(ザクセン公在位1139~80、バイエルン公在位1156~80)を失脚させるのにいちおう成功したが、諸侯から授封強制の原則(没収した封は1年と1日以内に再授封しなければならない)を承認させられ、神聖ローマ帝国は決定的に封建国家に転化した。孫フリードリヒ2世も再度にわたり国内諸侯に大幅に譲歩し、諸邦支配権確立の道をいっそう進めた。
シュタウフェン朝の断絶、大空位時代を経て、ハプスブルク家のルードルフ1世(在位1273~91)が皇帝に選挙されるが、以後帝国では選挙王制の原理が支配的となり、帝位は選帝諸侯の利害によって、ハプスブルク家、ルクセンブルク家、ウィッテルスバハ家などの間を転々とし(跳躍選挙の時代)、皇帝は帝国全体の利害よりも、一個の領邦君主として自家の利害を重視するようになり、帝国の弱体化を招いた。中世末、帝位はハプスブルク家に固定し、帝国の滅亡まで続くが、三十年戦争(1618~48)を終結させたウェストファリア条約により、領邦君主にほぼ独立国家の国家主権に近い自立性が承認された結果、帝国の領邦国家への分裂は決定的となり、近世の皇帝権はまったく名目だけと化し、ハプスブルク家は家領のオーストリアと西南ドイツの一部のみを実質的に支配するにすぎない状態となった。1806年、ナポレオン1世の保護下に結成されたライン同盟加盟の南ドイツ16領邦が神聖ローマ帝国からの脱退を宣言するに及んで、最後の皇帝フランツ2世は帝冠を辞退し、ここに帝国はおよそ840年の歴史に終止符を打った。
[平城照介]
帝国の領域は時代によって変化したが、中核を形成したのはドイツ、ブルグント、イタリア(中部以北)である。デンマーク、ポーランド、ボヘミア、モラビア、また一時はハンガリーにもある程度の主権を行使し、シュタウフェン朝時代にはシチリア島も帝国に含まれた。
皇帝は、ドイツ国王が兼ねたのであるから、国王選出の原則が同時に皇帝選出の原則でもあった。国王は即位後ローマ遠征を行い、教皇から帝冠を受けるのが慣行であったが、1338年のレンゼ選帝侯会議およびフランクフルト帝国会議の決定により、選帝侯会議によって選出されたドイツ国王は、教皇の加冠を待たず、ただちに神聖ローマ皇帝でもあるという原則が確立し、ローマ遠征の慣行自体も中世末のマクシミリアン1世以後行われなくなった。ドイツ王制は選挙王制と世襲王制との二つの原理が結合したもので、王朝が安定している限り、形式的に選挙が行われても、実質上は世襲制の原理が支配的であったが、王朝が断絶すると、選挙制の原理が前面に出てくる。選挙は全会一致が原則であったので、事前に選挙人の意見の調整に成功しなかった場合には、それぞれが別な場所で選挙会議を開き対立皇帝を選出する(二重選挙)という事態がしばしば生じた。この欠陥を是正するため、カール4世は金印勅書を発布し(1356)、多数決原理の導入を図るとともに、選帝侯の数を7人に限定し、選挙手続も確定した。
7人の選帝侯は、マインツ、トリール、ケルンの大司教、ライン宮廷伯、ベーメン王、ザクセン大公、ブランデンブルク辺境伯であるが、17世紀以降その数に増減があった。
中世のドイツ国家は基本的に封建国家であり、皇帝の全国統治は皇帝と封臣間の封建的主従関係を介して行われたので、帝国直轄領を除き、いうに足る地方行政組織は存在しない。中央の行政機構も、その主要部分は文書行政であったので、聖職者が任ぜられる帝国書記局Reichskanzleiが主体であった。その最高官職は帝国書記官長Reichserzkanzenで、マインツ大司教が任命された。その職権はドイツに限られ、イタリアおよびブルグントに関しては別個の書記官長が置かれ、前者にはケルン大司教、後者にはトリール大司教があてられた。中央行政機構には、そのほかに訴訟処理を担当する宮廷裁判所Hofgericht、宮廷顧問会議Hofratおよびそれが発展した帝国会議Reichstagがあった。皇帝の封臣には、大侯、辺境伯、伯などの称号を帯びる世俗諸侯と、大司教、司教、帝国修道院長などの高位聖職者、および称号をもたないフライヘルFreiherrがあった。シュタウフェン朝時代における帝国諸侯身分の成立と領邦支配権の強化の結果、伯やフライヘルの多くは皇帝に対し陪臣化していった。帝国直属領には皇帝の代官として帝国代官Reichsvogtが置かれた。帝国都市が成立するにつれて、帝国代官は地方代官Landvogtと都市代官Stadtvogtとに分かれた。中世末期ごろより帝国都市(の代表者)も帝国会議に出席する慣行が成立し、ウェストファリア条約(1648)により、帝国都市の帝国会議出席資格が確認された。
[平城照介]
『今野国雄著『西洋中世世界の発展』(1979・岩波書店)』▽『G・バラクラフ著、前川貞次郎・兼岩正夫訳『転換期の歴史』(1964・社会思想社)』▽『M・パコー著、坂口昂吉・鷲見誠一訳『テオクラシー』(1985・創文社)』▽『平城照介著「神聖ローマ帝国」(『新版ドイツ史』所収・1977・山川出版社)』
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中世より19世紀初頭に至るまでドイツを中心にその周辺に広がった帝国の呼称(第一帝国)。世界帝国としてのローマ帝国の理念を受け継ぎ,元来はドイツ王国,イタリア王国,ブルグント王国を包摂する「超地域的」国家だが,皇帝の支配権がドイツに限定されるに従って,15世紀末より「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになった。起源は,原理上カール大帝の戴冠で,実質上は962年ローマでのザクセン朝のオットー1世の戴冠と考えられる。皇帝は血統権も考慮した選挙制で選出され,本来ローマ教皇による戴冠を必要とした。国制は台頭する諸侯権力を抑制するため,皇帝に直属する教会,修道院をその支柱とし(「帝国教会政策」),11世紀ザリエル朝期にこの体制は最高の発展をとげた。しかし叙任権闘争は教会との結合を弱め,聖俗諸領邦の自立化を促した。ホーエンシュタウフェン朝のフリードリヒ1世は再び帝権を強化したが,フリードリヒ2世のイタリア経略への専念は領邦分立を助長し,その死後まもなくの大空位時代をへて,この趨勢(すうせい)は決定的となった。14世紀以後皇帝選挙制の原理が確立し,金印勅書がこれを確認した。1438年以後帝位は事実上ハプスブルク家に定着したが,宗教改革と三十年戦争,ウェストファリア条約をへて皇帝の統制力は弱まり,帝国は300余の諸領邦の集合体として形骸化した。ナポレオン支配時代の1806年,帝国諸侯のライン同盟が帝国よりの脱退を宣言したために,最後の皇帝フランツ2世は帝冠を辞し,ここに帝国は完全に崩壊した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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… たしかに,歴史的にみても,ドイツをある定まった民族や国家とみることはできない。たとえば,中世のドイツ王国(神聖ローマ帝国)は,現在のオーストリア,スイス,さらにはイタリアまでをも含んでいた。したがってこの項目では,ドイツとは何かという定義を初めから下すのではなく,ドイツと呼ばれてきた地域や人々の社会のあり方を歴史的にたどることによって,ドイツとは何を意味し,それがヨーロッパないし世界史のなかでもってきた意味を考えたい。…
※「神聖ローマ帝国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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