精選版 日本国語大辞典 「神護寺」の意味・読み・例文・類語
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〈京都・山城寺院神社大事典〉
天長元年(八二四)九月二七日の太政官符(類聚三代格)によれば、神護景雲三年(七六九)の道鏡事件の際に、和気清麻呂は豊前
高雄寺は
一方、唐から帰った空海は高雄に入寺し、弘仁元年(八一〇)高雄寺で国家鎮護のため修法した(性霊集)。同二年空海は高雄寺を「不便」として
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市右京区梅ヶ畑高雄(たかお)町にある高野山真言(こうやさんしんごん)宗の別格本山。高雄山と号する。本尊は薬師如来(やくしにょらい)。創立年代は明らかでないが、もと和気(わけ)氏の氏寺として高雄山寺あるいは高尾山寺という古刹(こさつ)がここにあり、別に延暦(えんりゃく)年中(782~806)和気清麻呂(わけのきよまろ)が河内(かわち)国(大阪府)に創建した神願寺をその子真綱(まつな)らが824年(天長1)に当地に移して高雄山寺と合併し、寺号を神護国祚(じんごこくさ)真言寺と改めた。これより前の802年(延暦21)南都の高僧と最澄(さいちょう)を当山に招いて法華会(ほっけえ)を催し、805年唐から帰朝した最澄はわが国最初の結縁灌頂(けちえんかんじょう)を当寺で行った。809年(大同4)空海が勅によって入寺。翌810年(弘仁1)空海は上表して唐から将来した経軌(きょうき)により仁王経(にんのうきょう)大法などを修した。812年(弘仁3)空海は最澄、和気真綱ら190余人に金剛界・胎蔵界の両部の灌頂を授け、真言宗に改めた。このときの名簿を『灌頂歴名(れきめい)』(灌頂記、国宝)といい、書道史のうえでも有名なものである。824年和気氏は定額(じょうがく)寺として年分度者(ねんぶんどしゃ)1名を賜り、備前(びぜん)国(岡山県)の水田20町を寄進したので、空海は灌頂堂、護摩(ごま)堂などを建てた。空海が高野山に移ったあとは高弟の真済(しんぜい)が継ぎ、寺観の整備に努めた。朝廷の尊崇を得て寺領も40か所を有して興隆したが、994年(正暦5)、1149年(久安5)に火災にあい、しだいに荒廃した。1168年(仁安3)文覚上人(もんがくしょうにん)が再興の誓願を発し、後白河(ごしらかわ)法皇、源頼朝(よりとも)、その他の武将から多くの荘園(しょうえん)を寄進され、伽藍(がらん)は徐々に復興した。このことは『平家物語』に詳しい。鎌倉・南北朝時代には、大ぜいの僧兵を擁して京都北方の一大勢力となり、南北朝の内乱では南朝の一拠点となった。そのときの戦乱で急速に勢力を失い、後の応仁(おうにん)の乱(1467~77)後も寺領を失って衰退、文明(ぶんめい)年間(1469~87)には京都仁和寺(にんなじ)末寺となった。大永(だいえい)年中(1521~28)慶真が堂宇を修復したが、1547年(天文16)には兵火により諸堂を全焼。豊臣(とよとみ)秀吉は23町余の寺領を寄せ、保全を図ったが復興できず、ついで徳川家康は寺領260石余を寄進し、晋海(しんかい)、竜巌(りゅうがん)両上人の尽力によって諸堂宇が整備され、ようやく旧観に復した。1871年(明治4)寺領山林上地(あげち)となり、一山維持の資を失ったが、1886年讃岐(さぬき)(香川県)八栗(やぐり)寺の高憧(こうとう)・竜暢(りゅうよう)が堂宇を修理し、のち山林も返却されて復興した。
[祖父江章子]
現在、山門、金堂、大師堂、多宝塔、毘沙門(びしゃもん)堂などが建つが、大師堂のほかは江戸時代以後の再建。大師堂は納涼房ともいい、桃山時代の建築で国重要文化財に指定されている。
所蔵の文化財は多く、弘仁(こうにん)・貞観(じょうがん)様式の典型といわれる薬師如来立像、五大虚空蔵菩薩坐像(こくうぞうぼさつざぞう)、三絶(さんぜい)の鐘といわれる貞観17年銘梵鐘(ぼんしょう)、両界曼荼羅(まんだら)、空海筆の『灌頂歴名』、文覚四十五箇条起請文(きしょうもん)、鎌倉初期の大和絵(やまとえ)系肖像画の白眉(はくび)とされる平重盛(しげもり)像・源頼朝(よりとも)像・藤原光能(みつよし)像などの国宝のほか、絹本着色十二天像(六曲屏風(びょうぶ))、木造毘沙門天立像など国重要文化財の彫像、絵画、書、密教法具などが多数ある。なお当山は栂尾(とがのお)、槇尾(まきのお)とともに三尾(さんび)といわれる紅葉の名勝で、錦雲(きんうん)渓に臨む地蔵院からは「かわらけ投げ」が行われ、素焼の皿に願いを書いて渓谷へ投げる。
[祖父江章子]
『『古寺巡礼 京都5 神護寺』(1976・淡交社)』▽『久野健著『神護寺』(1964・中央公論美術出版)』
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古くは高雄寺・高雄山寺とも。京都市右京区にある真言宗の寺。高雄山と号す。和気氏の氏寺。最澄や空海がここで法会を開いた。824年(天長元)河内国神願寺と合併して神護国祚(こくそ)真言寺と改称,勅願寺となる。一時衰えたが,後白河上皇や源頼朝の保護を得た文覚(もんがく)が復興。応仁・文明の乱で兵火にあうが江戸時代に再び整備された。薬師如来立像・五大虚空蔵菩薩像・空海筆「灌頂(かんじょう)歴名」・梵鐘「三絶の鐘」はいずれも国宝。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…ついで12世紀後半に平清盛が造進した後白河上皇の御願寺,京の蓮華王院(三十三間堂)領となっている。83年(寿永2)神護寺再興に奔走した文覚(もんがく)の強い要請によって,後白河上皇から神護寺に寄進され,翌84年(元暦1)立券された。以後,中世を通じて神護寺領と思われ,神護寺には立券の際に作成されたと推定される著名な桛田荘絵図が伝来する。…
…和気清麻呂と姉広虫を主神とし,藤原百川(ももかわ),路豊永を配祀する。清麻呂は藤原仲麻呂の乱平定,道鏡追放,平安遷都などで功をあげたが,そのゆかりの神護寺に,平安末期文覚(もんがく)がその霊社を建ててまつっていた。1851年(嘉永4)になり正一位護王大明神の神号が宣下され,さらに明治になり,74年護王神社と改称,別格官幣社となった。…
…現在の福井県小浜市西津を主とし田烏を含む。山城神護寺領。平安末期,開発領主安倍資長が同寺(文覚上人)に寄進してこれを領家と仰ぎ,自身は預所となることにより立荘したと考えられる。…
…これに対して空海の請来品には,《真言五祖像》,密教法具,犍陀穀糸(けんだこくし)袈裟(すべて教王護国寺),木造諸尊仏龕(金剛峯寺)等があり,それぞれに唐朝様の特色がよく現れている。また空海は帰国後高雄山寺(神護寺)を拠点としたが,天長年間(824‐834)淳和天皇の発願により,灌頂堂のために,請来の〈両界曼荼羅〉をもとに金銀泥絵でこれを描かせた。これは現存最古の現図曼荼羅で,中唐様式の画風をよく伝えている。…
…出家して,諸国の霊山を巡って修行し,その効験をもって知られた。京都に帰って高雄神護寺の復興を企図して勧進活動を行ったが,法住寺殿で後白河法皇に神護寺への荘園寄進を強要したことから伊豆国奈古屋に配流された。この配流先で源頼朝と知己を得,彼に挙兵をすすめたといわれている。…
…若くして大学寮に学び,文章生に補せられ,803年(延暦22)内舎人(うどねり)に任ぜられ,その後蔵人,内蔵頭,国守などを歴任した。兄広世は父の志をつぎ大学別曹弘文院をたてたが,同じころ真綱と広世は父の事業をつぎ高雄山に神護寺を建立し,最澄の法会を設け,その唐より帰朝後は灌頂の法壇を設立した。つづいて真綱は弟仲世とともに,空海の帰朝後〈金剛灌頂〉の法会を設け,進んでこれをうけた。…
※「神護寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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地震や風雨などによる著しい災害のうち、被災地域や被災者に助成や財政援助を特に必要とするもの。激甚災害法(1962年成立)に基づいて政令で指定される。全国規模で災害そのものを指定する「激甚災害指定基準に...
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