日本の民族信仰。日本民族の間に発生し、儒教・仏教など外来の宗教・思想などと対立しつつ、しかもその影響を受けて発達し、その精神生活の基盤となってきた民族信仰のこと、さらにその民族信仰を根底としての国民道徳、倫理、習俗までを含めていう場合もある。
神道という語は、古代の中国でも使用されている。すなわち、『易経』の観(かん)の卦(か)の「篆伝(てんでん)」に「観天之神道、而四時不忒(たがわず)、聖人以神道説教、而天下服矣」とみられ、『後漢書(ごかんじょ)』中山簡王(ちゅうざんかんおう)の条に「大為修冢塋(ちょうえい)、開神道」とみられるが、前者は自然界の不変の原理を、後者は墓所への道を意味しており、いずれも日本における語意とはまったく別の用例であり、「神道」はそれとは関係なく、日本で独自に使用された語とみられる。日本における神道という語の初見は、『日本書紀』用明(ようめい)天皇の条に「天皇信仏法、尊神道」とあるそれで、続いて同書孝徳(こうとく)天皇の条に「尊仏教、軽神道」とみられる。ここでは、当時大陸から伝来した仏教に対して、日本にそれまでに独自に発達してきた信仰、またその神の力というものをさして称している。当時、このように日本民族の間に独自に発達してきた信仰・儀礼を神道というだけでなく、『古事記』で「本教」「神習」、『日本書紀』で「神教」「徳教」「大道」「古道」などとも称しているが、時代が下るとともに、神道という語だけが用いられるようになり、『続日本紀(しょくにほんぎ)』『日本後紀(にほんこうき)』『続日本後紀』『日本三代実録』などでも、この語が用いられてきた。ただし、これらの書のなかでは、日本の民族信仰というような意味だけでなく、神祇(じんぎ)、また神社信仰の意などにも用いられていて、それがまだ十分に落ち着いた概念をもった語となっていなかったこともみられる。鎌倉時代になって、伊勢(いせ)の神宮祠官(しかん)たちにより、神宮また神道についての学問的研究が始められるとともに、神道という語は伝統的な固有の民族信仰、道徳、さらに教学を意味する語として用いられるようになり、それが以後に継承された。ただし、江戸時代中期以降、国学の発達とともに、それをさらに厳密に表現する意味で、儒教・仏教などの影響のないそれを「純神道」「古神道」「皇道」「大教(たいきょう)」「本教」「神ながらの道」などとも称した。明治維新当時もそれらの語が用いられ、ことに「大教」の語が使用されることもあったが、明治中期よりしだいに神道という語に統一され、それが一般に用いられるようになったのである。現在それは「しんとう」と清音で発音されている。一方、大正時代より昭和初期の、いわゆる国家神道が盛んとなったころ、「神ながらの道」という語が神道とほぼ同義の語として使用された。それは『日本書紀』孝徳天皇大化(たいか)3年(647)4月の条に、「惟神我子応治故寄。是以、与天地之初、君臨之国也」とあるなかの「惟神」に注があり、「惟神者、謂随神道、亦謂自有神道也」と記されていることから、その「惟神」を「かんながら」とよみ、江戸時代に谷川士清(ことすが)がその著『日本書紀通証』のなかで「惟神之大道」と記したほか、国学者たちも彼らのいう「純神道」をまた「かんながらの道」と称したこともあり、この語が用いられた。1870年(明治3)1月、明治天皇により大教宣布の詔(みことのり)が出されたが、そのなかに「惟神之大道」との語があり、ことに1925年(大正14)筧克彦(かけいかつひこ)が『神ながらの道』を出版して以後、この語が盛んに用いられた。しかし、その「惟神」を「かんながら」と訓じてよいかどうか、「かんながら」の語義の如何(いかん)について論議が多く、定説もなく、一般用語としては適切な語とはいえない。
神道という語についての説明、またその概念づけは近世以降盛んとなった。まず神儒一致の見地にたって、藤原惺窩(せいか)は「日本の神道も我が心をただしうして万民をあわれみ、慈悲をほどこすを極意(ごくい)とし、堯舜(ぎょうしゅん)の道もこれを極意とするなり。もろこしにては儒道といひ、日本にては神道といふ。名はかはり心は一つなり」(『千代茂登草(ちよもとぐさ)』)といい、同じ見地の林羅山(らざん)は「我朝ハ 神国也、神道乃(スナハチ)王道」(『林羅山文集』)と説いた。また伊勢外宮(げくう)の祠官度会延佳(わたらいのぶよし)は「神道と云(いふ)は、上(かみ)一人より下(しも)万民まで行ふ旦暮(たんぼ)の道なり。天神地祇より相伝の中極の道を根として行ふ時は、日用の間神道ならずと云事なし。さして是(これ)は神道なりと一々指南に及ぶべき道にはあらず。心を虚(きょ)にして自得したまふべし」、「日本国に生れたる人は、心に得て身に行はでかなはざる道」(『太神宮(だいじんぐう)神道或問(わくもん)』)といい、度会常彰(つねあきら)も「神道とは、神国に行はるる日用の道をいふ」(『日本国風(やまとくにぶり)』)と説いた。本居宣長(もとおりのりなが)は「此(こ)の道はいかなる道ぞと尋ぬるに、天地のおのづからなる道にもあらず、人の作れる道にもあらず、此の道はしも、可畏(かしこ)きや高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の御霊(みたま)によりて神祖伊邪那岐(かむろぎいざなぎの)大神・伊邪那美(いざなみの)大神の始めたまひて、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の受たまひたもちたまひ、伝へ賜ふ道なり。故(か)れ、是を以(もっ)て神の道とは申すぞかし」(『直毘霊(なおびのみたま)』)といい、平田篤胤(あつたね)は「神国の神国たる御国体を知り、神の成し置き玉(たま)へる事を習ひ学びて、正しき人の道を行ひ候を、実の神道と称し候。すべて世の忠臣孝子、其(そ)の外(ほか)、人の道に外れざる者は、皆真の神道にて候」(『大道或問』)とのように神学的・規範的に説明した。このような傾向は明治以降にも継承されて、田中義能(よしとう)は「神道は、わが国民精神、即ち日本精神の精華を体有せられたる古来の神聖(かみ)の示され、又行はれたる事実そのもの」(『神道概論』)と説き、宮地直一(なおいち)は「神道はいふまでもなく我国に固有にして、神祇の祭祀(さいし)に基づきて国民全般の生活を律し、之(これ)が指導原理とせらるものなり」といい、山本信哉(しんさい)は「神道は人道の理想化されたもの」(『神道綱要』)と述べた。また河野省三(せいぞう)は「神道は日本民族の生活原理である。それは日本民族の根本的性情に根ざした本来の信念である。換言すれば日本民族の伝統的信念並びに情操が神かけて強調され、国家的活動によって訓練された力である。其の力の内容即ち神道の性質を簡潔に云ひ表はすならば、敬神の信念をもって天皇を奉戴(ほうたい)し、正しく明るい国家を建設しようとする精神である。即ち、日本国家もしくは日本民族の活動を展開するところの指導原理である」(『神道読本(とくほん)』)と説いたが、このように神道を国民道徳、倫理の根本原理とみての論も多く出た。戦後になり、客観的な立場での神道学の発展とともに、神道とは日本民族の伝統に従って神祇を祭祀(さいし)し、これに基づいて生活するところの精神的営みなどと定義づけもされたが、現在この語が非常に広範に使用されていて、その概念づけは容易ではない。それは、神道が特定の教学的伝統を中心としたものではなく、原始共同体社会における全生活の中心的行事としての祭りの場より発生したものであり、広範な精神現象、社会現象にかかわり、それは信仰、宗教の範囲のみでとらえられず、また国民の道徳・倫理の範囲のみでもとらえられない点からきている。それを、仮説的にいうならば、神道とは日本民族が祖先の遺風に従ってカミを斎(いつ)き祀(まつ)る国民信仰であり、またそれを基礎として展開させる文化現象のことをも含めていうことがあるといえるであろう。
[鎌田純一]
神道は内容より便宜区分して、神社神道、教派神道、国家神道、宮廷神道、学派神道などと区分してよばれる。このうち、神社神道と教派神道とは、祭祀(さいし)中心と教法中心とによる分類である。神社神道とは、鎮守(ちんじゅ)・氏神(うじがみ)など全国の神社を中心として、その祭祀儀礼を含んだ信仰組織的なものをいうのに対して、教派神道とは、明治時代以降、教義・教法をたて、教団を組織した神道教派を総称しての語である。1870年1月大教(たいきょう)宣布の詔が下され、大教(先述のごとく当時神道のことをこの語で表現)を広く国民に説くため、宣教使の制度が設置され、72年それが改められて教導職の制度となり、教導にあたったが、教義のない神導の宣布にあたって、独自の教義・教学をたて説く者もあったこともあって、82年1月、当時の神官と教導職とを分離させる処置をとり、神官には宣教の任にあたることを禁止したため、これを不服として独自の教義を布教することを目的として分派独立した人たちがあった。それ以来の伝統をもつのが教派神道で、神道大教、黒住(くろずみ)教、神道修成(しゅうせい)派、出雲大社(いずもおおやしろ)教、扶桑(ふそう)教、実行(じっこう)教、神道大成(たいせい)教、神習(しんしゅう)教、御嶽(おんたけ)教、神理(しんり)教、禊(みそぎ)教、金光(こんこう)教、天理教をとくに教派神道十三派と称している。これら教派神道は、神道は行政上宗教にあらずとされた時代にも宗教として扱われ、仏教、キリスト教などと同じく文部省宗教局の監督を受け、国家の保障・支援などを受けることはなかった。それに対して、神社神道は国家の宗祀として、内務省神社局に属し、国家の保障・支援を1945年(昭和20)まで受けてきた。その点で、神社神道と国家神道との区別があいまいとなるが、1945年12月、日本占領の連合国最高司令部(GHQ)より出されたいわゆる神道指令に、この「神社神道」「国家神道」の語が使用され、そこで神社神道とは、民間的また個人的な一般宗教的なものをさしているのに対して、国家神道とは、政府で保障・支援・保全・監督した国教的なもの、国民を統合させるための教学とでもいうべきもののもとに、国民に強制したものをさして使用していた。現在、神社神道という語は、全国神社の包括団体である宗教法人神社本庁でその庁規のなかでも使用しているが、それは、天照大神を奉斎する伊勢の神宮を本宗(ほんそう)として、全国の神社を崇敬し、その祭祀を中心として民族の道統を継承し、文化を形成する民族の精神的な営みのことをいっており、現在は国家神道は消滅している。宮廷神道とは、賢所(かしこどころ)・神殿・皇霊殿(こうれいでん)の宮中三殿、山陵・御墓などに対する皇室の祭祀を中心として称する語である。学派神道とは、古典等により神道理論・神道神学を樹立した教学を中心としたものの総称であり、中世~近世の伊勢神道、吉田神道、儒家神道、吉川(よしかわ)神道、垂加(すいか)神道、復古神道などがそれに含まれる。
[鎌田純一]
日本列島に人類が居住し始め、無土器文化、さらに縄文式文化を形成したころに、人々の間に原始信仰が存在していたことは、その遺物・遺跡より確かとみられるが、それは神道とはいちおう別とみられる。これについて、明治以降、現在の考古学者・歴史学者のなかに、それを神道と結び付けてみる人も多いが、別とみるのがよいであろう。神道の原初形態とみられるものは、農耕文化、稲作と大きな関係があり、弥生(やよい)式文化の時代まで進み、農耕生活が定着し始めたころに、神道の原初形態は成立したものとみられる。つまり、この国土の各地に人々が定着して共同体をつくり、農耕を始めたとき、その共同体の生活のなかで、農耕に関連してなされた祭りより神道は発したとみられるのである。その原初時代のカミ観念について、『古事記』『日本書紀』また古代祭祀(さいし)遺跡、さらに古い創建にかかる神社などを手掛りにしてみるに、まずその自然と深いかかわりをもった生活のなかで、具体的に接した日、月、海、山、川、木、また雷、風など自然物、自然現象などに、人力以上の威力、呪力(じゅりょく)、神聖性を感じ、それをカミとして畏敬(いけい)したことがみられる。すなわち自然崇拝的なカミであるが、これがいちばん多くみられる。次に鏡、剣、玉などにも霊力、神聖性をみての庶物崇拝的なカミ観念の存したこともみられる。一方、祖先崇拝が、ラフカディオ・ハーン(同著『JAPAN』)などにより、神道の根源的な信仰とみられたが、それは当たっていない。すべての祖先を畏敬の対象としたのは、実際には、すこし時代を下ってのことで、それは大陸文化の影響を受けてのことかともみられる。ただ、農耕生活中心の血縁的同族集団で、家長、氏の上に対する尊敬の念がその生存中からあり、それがその死後浄化され、カミとして尊崇されるようになったこと、また同一職業集団の祖、地域開拓の長に対する尊敬の念から、それらをカミとして崇敬したことは早くからあったものとみられる。神道におけるカミについて、その語源を尋ね解釈しようとする試みは中世以降多くなされたが、まだ決定的な論は出されていない。ただ平田篤胤(あつたね)が『古史伝』のなかで、カミの「カ」は「彼(か)の」の意、「ミ」は「霊妙なるもの」、よって「カミ」とは「あの霊妙なるもの」と語源的な解釈をし、久松潜一(せんいち)・志田延義(のぶよし)が『古代詩歌における神の概念』のなかで、「かみのかは、かぐわしと同じ意の美称、みは身」とし、「かみとはかぐわしい身」の意と説いたところが注目されている。そのような語源的解釈ではなく、その定義について本居宣長(もとおりのりなが)は、『古事記』などにみられるところよりして、『古事記伝』のなかで「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)きもの」をカミとみている。これは「卓絶した、優れたありがたい働きのある、神聖なる存在」と解釈できるが、これが古代人のカミをよく定義したものとみられている。古代人は自然崇拝、庶物崇拝、祖先崇拝に入れられるカミ観念をもったが、古代人はそのすべてを祭祀対象としたのではない。カミとしてその存在を認識することと、祭祀することとは別で、祭祀の対象としたのは、そのカミが自分たちの生活に「優れた、ありがたい働き」を与えてくれると信仰しての対象であった。そのカミのタマ、モノの働きが直接その生活にかかわり、祭祀の対象としたのである。それも原初時代には、神社社殿をもってのような形式での祭祀ではなく、神祭りのときに神籬(ひもろぎ)・磐境(いわさか)などを設け、そこに神を招き祭る形式であった。そのようにして恩頼(みたまのふゆ)を受けるべく祈願、感謝して祭り、また神意を伺うべく鹿占(しかうら)・琴占(ことうら)などをし、さらに誓約(うけひ)して祭った。また、その祭りにあたって、罪(つみ)・穢(けがれ)をことに禊(みそ)ぎ祓(はら)うことをしたことがみられる。
この古代において、大陸との交通もなされ、道教、陰陽道(おんみょうどう)、儒教、仏教などが流入してきたが、その道教、陰陽道の呪術的な面は早く受け入れられたものとみられるものの、儒教、仏教は初めはまったく異質のものとして、受け入れられなかった。しかし、さらにその大陸をまねての国家政治機構がしだいに整備され、聖徳太子の仏教奨励策のあと、仏教寺院が本格的に造営されたころより、その影響もあって、神道も従来の神籬・磐境での祭祀でなく、神社建築がなされ、そこで祭られるようになったものとみられ、やがて中国の影響で天神地祇(ちぎ)の区別も認識され、神祇制度も整えられてきた。その神祇制度が本格的に整備され始めたのは、天武(てんむ)天皇のころとみられる。すなわち、推古(すいこ)天皇のときの聖徳太子の政策、孝徳(こうとく)天皇の大化改新、天智(てんじ)天皇の近江(おうみ)大津京での治政など大陸文化を積極的に取り入れての治政に対しての反省とみられる天武天皇の治政のなかに、それがみられるのであり、伊勢(いせ)の神宮の式年遷宮制の設定、斎王(さいおう)の復活と斎宮寮の整備、そのほか諸社の祭礼の定例化、国家行事化もされて、神祇制度の基礎が確立したとみられるのである。神道の歴史をみる場合、この天武天皇の時代が国家とのかかわりで大きな一つの時期となる。この天武天皇のときに、帝紀・旧辞の誤りを正して、『日本書紀』また『古事記』の撰修(せんしゅう)が始められたのであり、神話伝承も文章化されることとなったのである。
[鎌田純一]
701年(大宝1)に制定された大宝令(たいほうりょう)に、最高の国政機関として、太政官(だいじょうかん)・神祇官が置かれ、その神祇官の長官の伯(はく)が神祇祭祀、また祝部(はふりべ)・神戸(かんべ)の戸籍を管理し、神祇行政の大綱を総攬(そうらん)した。また、この大宝令で、天皇御代(みよ)始めの大嘗祭(おおにえのまつり)を大祀、祈年(としごい)・月次(つきなみ)・神嘗(かんなめ)・新嘗(にいなめ)祭は中祀、その他はすべて小祀というように祭祀の区分をし、全国神社にも等差をつけ、なかの有力社を神祇官が保管する官社帳に登録し、祈年・新嘗祭に奉幣することなどを定めた。この大宝令にみられる神祇制度の基礎は、天武天皇の飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令にすでに定められていたものとみられるが、このように律令体制の整備とともに、神祇制度も整備され、神社祭祀もしだいに定例化、国家化され、神社が国家と結び付くようになった。また一方で、8世紀には仏教が興隆するとともに、それと調和することも生じた。仏教全盛の聖武(しょうむ)天皇のとき、国ごとに国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(にじ)が建立され、都には東大寺に大仏が鋳造されることとなったが、その大仏鋳造は容易のことではなかった。そのとき宇佐八幡(うさはちまん)の「我天神地祇を率いいざないて必ず成し奉(まつら)む」と託宣があったことが『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記されているように、仏像鋳造に神が協力との信仰も生じていたのである。また各地神社に神宮寺が建立されたのも、そのころである。その理由について、『藤原家伝』武智麻呂(むちまろ)伝のなかに、気比神(けひのかみ)が武智麻呂の夢のなかに現れ、「わがために寺を造り、わが願いを助けなせ。われ宿業(しゅくごう)により神たることもとより久し。今仏道に帰依(きえ)し、福業を修行せんと欲すれども、因縁を得ず、故(ゆえ)に来りこれを告ぐ」とある。これよりすると、8世紀末から9世紀ころにかけて、仏は神よりはるか優位に位置し、神は人よりは上位に位置するが、なお人と同様に煩悩(ぼんのう)に悩む衆生(しゅじょう)の一つであり、その苦悩を脱せんがため、神は仏道修行を求めているのであり、そのため人は神の願いをいれ、神の仏道修行のための神宮寺を造立(ぞうりゅう)すべきであるとの考え方が出てきていたのであり、そのため神前読経(どきょう)のこともなされたのであった。しかし、そのあと神・仏の関係観は変化し、10世紀には神と仏とは本来同一であり、本地(ほんじ)(本身)はインドの仏であるが、衆生済度(さいど)のため神となって迹(あと)を日本に垂(た)れるという本地垂迹(すいじゃく)説が仏教側から唱えられるようになった。また一方、桓武(かんむ)天皇のころより中国流の郊祀(こうし)(郊野に円壇丘を築いて天子が上帝を祀(まつ)りその祖を天に配祀すること)のなされたこと、すなわち漢神信仰の取り入れられたことがあり、さらに仏教的な罪・罰の観念、祟(たた)りの信仰と結び付いての怨霊(おんりょう)信仰、御霊(ごりょう)信仰が流行していたこともみられる。これとは別に神祇行政についてみると、『新抄格勅符抄』に806年(大同1)の牒(ちょう)がみられるが、そこに神封(じんふう)4870戸がみられ、全国神社の経済的な基盤を国家がかなり保障していたことが知られ、927年(延長5)に撰(せん)せられた『延喜式(えんぎしき)』に神祇制度の完成した様相をみることができる。四時祭、臨時祭の詳細な規定、伊勢大神宮、その斎宮寮、賀茂(かも)の斎院司、践祚(せんそ)大嘗祭についての規定から、祝詞(のりと)、さらに祈年祭の頒幣(はんぺい)にあずかる全国2861所3132座の神社が定められていたことが知られる。また8世紀より9世紀に神に位階を奉り、神社修理のため正税をあてることもなされていた。このように、神祇制度が整備され、全国の有力神社を国家が管理した時代であったが、それは一面その宗教的な発展をはばむことともなっていた。
10世紀後半、律令体制が緩むとともに、神祇制度も乱れ、幣帛(へいはく)も滞り、都周辺のわずかの社にのみ奉幣されることとなった。それも、始めはその社が一定していなかったが、1081年(永保1)以降、伊勢・石清水(いわしみず)以下の22社となり、「二十二社」の制が定まり、室町中期まで続いた。また12世紀になり、各国ごとに「一宮(いちのみや)」が定められた。これは朝廷また国司が正式に定めたものではなく、一般でその国ごとに由緒正しく、多くの信仰を集め、経済的基盤の確たる社を定めていったものとみられる。また、国ごとに、その国内諸社を一所に勧請(かんじょう)した「総社(そうしゃ)」の成立したのもそのころであり、その一宮、総社が一般の信仰を多く集めることとなった。この時代末、神仏習合説は発展し、真言(しんごん)宗と結び付いての真言神道で、金剛界(こんごうかい)・胎蔵(たいぞう)界を神道にあて、いわゆる両部(りょうぶ)神道が説かれ、一方、天台宗と結び付いての天台神道、またの名山王(さんのう)神道も説かれ、さらには院政期に末法(まっぽう)思想の流行とともに、浄土信仰・観音(かんのん)信仰と結び付いた熊野本宮・新宮・那智(なち)の三山が熊野信仰を生み出した。
[鎌田純一]
前代、律令体制のもと神祇制度が整備され、神道、神社が尊重されたが、律令制の崩壊とともに、神祇制度も崩れ、神社の経済的基盤も公的な神領・神戸(かんべ)より荘園(しょうえん)的社領によらざるをえなくなってきていた。その神社社領が幕府の手により安堵(あんど)されるとともに、庶民が自分を自覚し、それなりの信仰を取り戻したのが中世である。その初め、源頼朝(よりとも)は1180年(治承4)挙兵以後、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)、伊豆(いず)・箱根権現(はこねごんげん)、三嶋(みしま)大社を崇敬するとともに、伊勢の神宮にも特別の崇敬心をみせた。頼朝の崇敬は単に心意的なものだけでなく、その社領の確保安堵を図り、社殿修復また造営に心がけ、祭儀が式目(しきもく)どおりに行われることを願い、その実践に努めたが、これが鎌倉幕府の神社対策の根本となり、1232年(貞永1)制定の御成敗(ごせいばい)式目でも、その第一条に「神社を修理し、祭祀を専(もっぱ)らにすべきこと」と掲げられた。かくて、この中世前半、鎌倉幕府の時代には諸社はおよそ安定し、庶民もよく崇敬した。そのようななかで、伊勢の神宮祠官(しかん)は、神仏習合説ではなく、仏教は仏教として認めながら、それとは別の立場で、宇宙の根源、天照大神(あまてらすおおみかみ)・豊受(とようけ)大神の出現とその性格、国家の成立、神宮の鎮座、さらに神宮祠官として守るべき道について説くことから始め、そこに度会行忠(わたらいゆきただ)・常昌(つねよし)・家行らが出てより、さらに神宮・神道についての教学を深め、伊勢神道思想を大成するとともに、伊勢信仰を庶民に広めることもした。その思想はやがて南朝の北畠親房(きたばたけちかふさ)以下に大きな影響を与えたが、南朝の衰退とともに衰えた。室町幕府も鎌倉幕府の神祇行政を踏襲し、その初め社領安堵(あんど)に努めた。庶民はまた神仏習合的な信仰、さらに二重、三重の重層信仰をもって寺社にあたった。また、この期に絵巻物を中心としての縁起(えんぎ)神道が説かれた。しかし、室町幕府は鎌倉幕府ほどの威令をもたず、やがて戦国の争乱とともに、各神社社領も略奪され、疲弊する諸社が多かった。かかるなかで卜部兼倶(うらべかねとも)により吉田神道が樹立された。兼倶は伊勢神道の影響を受けながらも、それを元本宗源唯一(そうげんゆいいつ)の神道説と唱え、神祇行政の乱れに乗じて、しだいに全国の神社・神職をその支配下に置いたのである。
[鎌田純一]
戦国の争乱のあと、織田信長・豊臣(とよとみ)秀吉、ともに神社の復興にあたり、徳川家康もそれを継承した。この期は幕府の文治政策、諸藩の学問奨励政策もあり、また泰平(たいへい)の世で神道研究も盛んになされ、吉田神道のほかに儒家神道、吉川(よしかわ)神道が出現、伊勢神道が復興した一方で、垂加(すいか)神道、復古神道が生じ、これが通俗平易な語で一般の教化にあたった。各神社も幕府・諸藩によりその神領は寄進という形で安堵されたが、上代・中世に比べるときわめて狭小となっており、やむをえず庶民に近づき、庶民もよくその崇敬社を信仰し、支えたのである。
[鎌田純一]
大政奉還、王政復古とともに、明治新政府はその政治理念を復古神道思想に置いて、祭政一致の精神で事にあたろうとした。1869年(明治2)神祇官を復興し、翌年1月天神地祇、八神および皇霊を神祇官に祭り、新しく任命した宣教使をして大教(たいきょう)を宣布させることとし、その10月には官社以下の制を定めることをした。1871年、神社は国家の宗祀とし、社家制度を廃止したが、このころ一方に世界の大勢に順応していこうとする動きの活発となるとともに、神祇官は廃され、その職務は神祇省に、さらに翌年教部省に移され、神官・国学者をもっぱら登用任命していた宣教使の制が廃されて教導職が置かれ、神官・僧侶(そうりょ)ともに任用されることとなったが、これも1882年に廃された。1889年大日本帝国憲法が制定されるとともに、神道は国家の宗祀として、一般宗教とは別の扱いとし、宗教ではなく道徳として扱った。かくて一般神社は内務省管下とされ、1940年(昭和15)内務省神社局にかわり、神祇院が設けられたが、45年(昭和20)太平洋戦争の敗戦とともに、国家機関としての神祇院は廃止され、翌年2月、全国神社の包括団体として神社本庁が、政府の手を離れて組織され、現在大半の神社がその包括下にある。
[鎌田純一]
神道は日本人の生活の根底、日本人的思考の根底にあるものともいえる。日本文化の根底にあるものともいえる。神道でいうカミに、自然崇拝、庶物崇拝、祖先崇拝などに属すそれの多いことから劣等自然教との見方もあるが、そのカミは卓絶した神秘な能力をもつ存在、それは単なる存在でなく、信仰上の対象であり、それが信仰上の対象となるのは、そのカミの力、タマの働きが自分自身にかかわるからである。そのかかわりは、自分自身を本来の姿にさせてくれることである。神道ではヒトも本来神聖なものとしてとらえる。カミにより生命を授けられた存在、この世になんらかの使命を与えられて生まれさせられた存在とみる。その本来の使命を果たすべく、マコトを実行させてくれるのがカミである。神道でみるカミ、それは生活的であり、現実生活の神世化、それをさせてくれる存在である。
[鎌田純一]
自然崇拝・祖先崇拝、それは自然と血族への情操、自然本性的な愛着と賛美帰一に基づくもの、その自然また始祖の祭祀(さいし)が、地縁的・血縁的共同体の生活の神世化・統合化の役割を果たしたのである。神道においては、自己の住む世界に即してカミを認めたのであり、その世界は生命体・生活体であり、その世界宇宙の万象をすべて神霊の表現ともみるために、多神教とみられるが、そこに、さらに大きな統合をみているのである。
[鎌田純一]
『河野省三著『神道の研究』(1944・森江書店)』▽『小野祖教著『神道の基礎知識と基礎問題』(1963・神社新報社)』▽『宮地直一著『神道史』全4巻(1957~63・理想社)』
日本固有の民族宗教。日本人の信仰や思想に大きな影響を与えた仏教や儒教などに対して,それらが伝えられる前からあった土着の神観念にもとづく宗教的実践と,それを支えている生活習慣を,一般に神道ということばであらわしている。日本民族の間にあった信仰は,農耕,狩猟,漁労などの生活に対応してさまざまであり,地域的にも多様な性格をもっていたと考えられるが,稲作の伝来を契機に政治的な統一が進むにつれて,水稲の栽培を中心とする農耕儀礼を核として数多くの神々をまつる現世主義的な宗教が形成された。その後日本人は,儒教や仏教を受容したが,神々をまつる信仰は複雑な展開を経て現代まで存続している。
神道という語は,《易経》の観の卦の彖(たん)伝に,〈天の神道を観るに,四時忒(たが)はず。聖人神道を以て教を設けて,而うして天下服す〉とあるのが初見とされ,人間の知恵では測り知ることのできない,天地の働きをさす語であった。そしてその後,神道の語は,道家や仏教の影響下で宗教的な意味を持つようになり,呪術・仙術と同じような意味でも用いられた。漢字・漢語の受容によって表記が可能になった日本では,《日本書紀》の編述に際して,用明天皇即位前紀に〈天皇,仏法を信(う)けたまひ,神道を尊びたまふ〉とあり,孝徳天皇即位前紀に〈(天皇)仏法を尊び,神道を軽(あなず)りたまふ。生国魂社の樹を斮(き)りたまふ類,是なり。人と為(な)り,柔仁(めぐみ)ましまして儒を好みたまふ〉と見えるように,神道という語が,仏教,儒教に対して土着の信仰をさすことばとして用いられている。しかし,明確な教義を持たず,農耕などの儀礼を中心とした生活習慣そのものであった神々の祭祀を,仏教や儒教と同列に考えることは種々の無理があったことはいうまでもなく,上記の例も中国を意識した文章上の配慮から神道の語を用いたものと思われる。《古事記》や《日本書紀》では,本教,神習,神教,徳教,大道,古道などの語もカミと読ませているところからもうかがえるように,カミということばの表記も一定しておらず,神道という語もそれらの一つでしかなかった。日本の土着の信仰を,神道と呼ぶことは,中世に入っても一般化してはおらず,神道の語をカミそのもの,あるいはカミの働きをさすことばとして用いている例は少なくない。他方,神仏習合が進み,僧侶が土着の信仰を指すことばを求め,神官が神々への信仰を主張しはじめると,神道という語が土着の信仰とその教説をあらわすものとして用いられるようになった。中世の末に大きな力を持つようになった吉田神道は,その例であるが,日本の民族宗教の代表的なものとして吉田神道の教説に接したキリシタンの宣教師が,日本人の信仰をXinto(中世の神道家の中には濁音を嫌う人々が多く,神道の二字をシンドウではなくシントウと読むことが主張されていた)ということばでとらえたことに端を発して,神道の語は外国に知られることになった。しかし,明治時代に神道が国教化されると,国家の祭祀として宗教を超えたものと主張された神道は,大教,本教,古道,惟神道(かんながらのみち)などと呼ばれ,仏教やキリスト教と同列とされた教派神道諸派が神道の語で呼ばれたこともあって,日本固有の民族宗教をあらわすことばは多様なままに推移し,研究者の間でも神祇,神祇信仰ということばが用いられることが多かった。他方,西欧諸国の日本研究・紹介者の間では,Shinto,Shintoismの語が一般化したため,昭和に入り日本人の間でも,神道ということばが一般に用いられるようになり,日本固有の信仰の多様な性格を,古神道,神社神道,教派神道,民俗神道をはじめさまざまに分けて考えることも一般化した。
古代の日本人は,人間の力を超えたものに対し,おそれ,かしこむ心を抱き,そうした心情をおこさせるものをカミと呼んだ。山,川,海などに畏怖を感じ,根源的で神聖・清浄なものを見た人々は,生い茂った樹木や巨大な岩なども神聖視した。さまざまな自然現象が神とされたことはいうまでもないが,日神の崇拝はあっても,天体の運行をつかさどるものへの関心は薄く,雨や風,芽生えや実りなどがそれぞれ神と考えられていた。狼や鳥,蛇などさまざまな動物も神聖視された。またあらゆるものは,人間と同様に意志や感情を持つものと考えられ,そうした魂の働きも神とされた。このような原始的な自然崇拝,アニミズム的なものは,神道の底流に存続して現代に至っている。神は人間の目には見えず,あらゆるものに宿っていると考えられたが,人間の住む場所から離れた山の上や,海のかなたに神々の世界があると考えられ,人間が死ぬと,肉体を離れた霊魂もそこへ行くと信じられていた。死者の霊魂は年月を重ねるうちに,生前の個性を失って祖霊と融合し,神々の中に加わる。したがって,神々の世界と人間の世とは,隔絶・絶縁されてはおらず,神々は定期的に,あるいは臨時に人間の住む場所を訪れ,ある期間ともに住むものと信じられていた。
神に対する観念を具体的にあらわしているのが祭りである。神々をおそれかしこむ人々は,生活の節目ごとに神々を迎えて供応し,神威に対する畏敬の念をあらわし,神々の加護に感謝した。祭りは,神々を迎えるための清浄な場所を整え,神々をまつる人々が身心を浄めることからはじまる。準備が整うと,聖なる時間である深夜に,あらかじめ用意された依代(よりしろ)・尸童(よりまし)に神を降して,神前に御饌(みけ)・神酒(みき)が供され,歌や舞が神をもてなすために行われる。人々は神に対する願いを祝詞(のりと)や歌などで伝え,神は託宣やさまざまな卜占によって神意を示す。その後,神々と人々とがともに酒を飲み,御饌を食べる直会(なおらい)によって,神と人とのつながりをたしかめて,神々が祭りの場を去ると,禁忌が解かれて祭りは終わる。祭りの多くは農耕儀礼と結びついており,年頭の豊作祈願,春の農耕開始,夏の病害虫駆除,秋の収穫感謝の四つの祭りが最も主要なものであった。《神祇令》《延喜式》の〈四時祭〉〈臨時祭〉の巻には,神祇官が行う祭りの詳細が記されている。人々は祭りによって生活にくぎりをつけたが,6月と12月の晦に,半年間の罪穢を祓い,災厄を除いて清浄を回復し,1月と7月の祖先の霊魂を迎えるさまざまな行事の中で新しい生活を開始した。仏教が伝えられて,7月の行事は仏教的な形をとって盆の行事になった。日本人の間には,1年を1月と7月の行事でくぎる習慣と,4月と10月の祭りで分ける習慣があり,二つが複雑に重なり合っている。
共同体の祭り以外に,人々は生活の中で竈(かまど)の神や井戸の神をはじめさまざまな神をまつったが,一般に水稲耕作は定住性と結束の強い共同体を生み出し,そこでまつられる神々は,共同体の祖先神であり,土地の守り神と考えられることが多かった。集団の信仰である神道は,個人の信仰としての性格が希薄であったから,個人の救済が求められるようになると,仏教との習合が進むことになった。
祭りのたびに神々を迎える信仰のもとでは,神々が来臨する磐座(いわくら)・磐境(いわさか),祭りが行われる森や山などが神社であり,神殿は作られない場合が多かった。しかし,建築の発達につれて,神体,御霊代(みたましろ),神宝などを安置する秀倉(ほくら)や,神をまつる人々がこもって潔斎をするための建物が建てられるようになると,前者は本殿へ,後者は幣殿・拝殿へと発展し,それを囲む垣,神域を表示しその入口を示す鳥居,神饌を調理する御饌殿(みけでん),参拝者が身を浄める御手洗(みたらし)をはじめ種々の施設が加わって,神社の形が整った。神殿の建築は,穀物倉を原型とする伊勢神宮と,住宅に由来する出雲大社の神殿が代表的なもので,後に寺院や宮殿の形式をとり入れながら,数々の日本独特の様式が生み出された。
祭りをつかさどる者は,政治的な支配者でもあったから,政治的な統一が進むにつれて,祭祀権の統合も行われ,各地に大規模な神社が建てられるようになると,そこには神官の集団が生まれた。出雲国造家,熱田大宮司家などは,古い国造(くにのみやつこ)の系統が神社と結びついて後世まで残った例である。神職の名は神社によってさまざまであるが,祭主(さいしゆ),宮司(ぐうじ),神主(かんぬし),禰宜(ねぎ),祝(はふり),預(あずかり),神人(じにん)などはその例であり,八幡宮や祇園社などには,社僧(しやそう),供僧,神僧,宮僧などと呼ばれる僧形の神職があった。他方,小さな神社では,氏子の座や講などの組織から,一年神主,当屋神主などが選ばれて,祭りを行うのが一般であった。
《延喜式》の神名の巻には,平安時代中期の国家が神威を認めていた2861の神社の名が記され,後世それらの神社を由緒正しい神社として〈式内社(しきないしや)〉と呼んだ。また式内社以外で六国史にその名を記されている391の神社を,〈国史現在社〉と呼んで,式内社につぐものとした。式内社に対しては,神祇官から奉幣することが定められていたが,平安時代のはじめに,遠隔地の神社には国司が代わって奉幣を行うようになったので,国司奉幣の神社は,神祇官奉幣の神社を官幣社と呼ぶのに対して,国幣社というようになった。
国司は任国に着くと,まず国内の主要な神社に参詣し,その後政務を執るように定められているが,その参拝の順序が固定して一宮(いちのみや),二宮,三宮の呼称がおこり,それが国内の神社の序列をあらわすことになった。さらに平安時代の末になると,国内の数々の神社を一社に統合して奉幣を簡略にすることもはじまり,そうした神社を総社(そうじや)と呼んだ。同じころ,朝廷でも重要な祈願に際して,畿内を中心に主要な神社を選んで奉幣することがはじまり,二十二社(にじゆうにしや)の名が固定した。神社の祭祀を政治の中で重視することは,鎌倉幕府以後の武家政権にも受け継がれ,神社をめぐる制度はさまざまに変遷した。
神道の教典としては,まず《日本書紀》,中でも巻一,巻二の神代巻があげられるが,多様なひろがりを持つ神道のすべてがそれを教典としていたわけではない。《古事記》や《日本書紀》の神話は,たしかに神道的な諸観念をよくあらわしているが,神々の祭りに際して,記紀の神話が教典として読誦されるようなことはなかった。《古語拾遺》や《風土記》も教典とされ,中世では《先代旧事本紀》も重んぜられた。しかし,それらは古典に対する知識を持つ神官の間で尊重されただけで,庶民が記紀の神話を教典として読んだわけではない。神官の間では,伊勢神宮の儀式を記した《延暦儀式帳》をはじめとする祭りの儀礼の記録や,遷宮・造営の次第を記した文献も重んぜられ,《延喜式》の最初の10巻は,四時祭上下,臨時祭,伊勢大神宮,斎宮,斎院司,践祚大嘗祭,祝詞(のりと),神名上下という構成で,朝廷の祭祀を詳細に記している。中でも〈祝詞〉は,重要な教典といえよう。
中世に入って神道説の形成が進むと,空海などに仮託した教典が続々と生み出されたが,その中で伊勢神道の教典として作られた〈神道五部書〉は,その後の神道説に大きな影響を与えた。また古代末以来,各地の神社でさかんに作られた神社の縁起は,民俗的な神道の教典であり,それらの中には絵解きや説経などの芸能と結びついたり,絵巻や草子などに形を整えられたりして,広く知られるようになったものも少なくない。さらに,和歌の中にも教典的な受取り方をされてきたものが数多く見いだされる。
山・川,雨・風,芽生え・実りなど,神道でまつられる神々は,人間の目でとらえることはできないものとされ,その姿を神像としてあらわすことは考えられなかった。神々が来臨する祭りの場では,依代・尸童が神とされ,岩や巨木,鏡・剣・玉などが礼拝の対象となっていた。やがて神社が建てられるようになると,仏教の寺院に対して考えても,神殿に安置するものが必要になり,平安時代に入って神体・正体ということばが用いられるようになった。神体は,神々の性格に応じて宝器,農具,武具,狩猟具などさまざまなものが選ばれた。他方,平安時代初期から,神仏習合の進展の中で神の姿を造形的にあらわすことがはじまった。垂迹(すいじやく)像として作られた神像は,密教美術の影響を受けたものが多かったが,平安時代後期に入ると和様化が進み,優美な公家の姿を借りたものが多くなった。鎌倉時代以降,神仏習合がさらに進むと,仏像を神像としてまつることも一般化し,七福神などの雑多な神像が広く礼拝の対象となった。絵画としては,平安時代末から神像画や垂迹曼荼羅(まんだら)がさかんに描かれるようになった。それらの中には,神仏習合の信仰を具体的にあらわしたものが多く,神域や神殿の景観を図示してその意味づけを試みたものなどは,神道の神観念や世界観をあらわしたものとして注目すべきものがある。
神道の世界観は,高天原(たかまがはら),葦原中国(あしはらのなかつくに),黄泉国(よみのくに)(根の国(ねのくに))の三つの世界を考えるが,この天上,地上,地下の垂直的な世界観のほかに,海上のかなたに妣(はは)の国,常世国(とこよのくに)があるとする水平的な世界観が併存している。またそれらの世界とは別に,山中に他界を想定する信仰も広く存在していた。人間が死ぬと霊魂は肉体から離れて,他界に行くと考えられた。他界に住む霊魂は,祭祀に応じて人々のもとに帰ってくるが,年を経るにつれて個性を失って神々に近づいていく。したがって,いくつもある他界の性格と相互の関係は明確でないところが多い。ただ黄泉国は暗黒の世界と考えられており,罪や穢れに満ちた世界でもあったから,地上の罪や穢れを,すべて黄泉国に祓い去る儀礼が行われた。神道では,神々の加護によって幸を得,神々の力による禍を回避するためには,人間が正直で清浄な心で神々に接しなければならないとされる。正直で清浄な心とは,さまざまな作為を捨てた,生まれたままのような純粋で自然な心のことであり,それは禊(みそぎ)や祓によって達せられると説かれる。また,精神が統一され,一心不乱になった状態が,純粋で清浄な心に近いと考えて,その修行の方法がさまざまにくふうされた。
元来,祭りは共同体の行事として行われるものであったが,平安京の神社では,祭りが華麗な催物としての性格を持つようになり,祭りに参加せずに見物する人々があらわれた。そして,祭りの担い手ではなく傍観者になった人々は,祈願に際して他所の神社にも参詣するようになる。中世になって参詣はさかんになり,徐々に庶民の間にもひろまった。参詣する人は,身心を洗い清めて米銭などを奉った後,神々の加護を願い,誓いを立てる。中世以降各地に多くの参詣者を集める神社があらわれたが,中でも伊勢神宮や熊野大社では,参詣者を集める御師などの専門的な神官があらわれ,遠隔地からの参詣者の団体を組織した。参詣者は祈願成就のために,旅の苦労と道中の禁忌に耐えて参拝するが,目的を果たした後に,門前町のにぎわいの中で精進落しの歓楽に浸る。さらに参詣のしるしとなるみやげを持ち帰って隣人に配るが,こうした遠隔地参詣のさまざまな習慣は,何世紀にもわたって繰り返されるうちに,日本人の旅行のしかたの型となった。
素朴な神々への信仰は,仏教の影響のもとで,徐々に教説を生み出すことになった。寺院を建立するためには,境内地の神々をまつらねばならず,堂塔の用材を伐り出すためには山や森の神々をまつることが必要であるというように,仏教の受容は土着の神々との接触の中ではじまったが,仏教の僧侶は,土着の神々を人間と同列に置き,仏の慈悲によって神々も成仏できるものと説いた。神前で読経を行い,仏事を営んだのはそのあらわれである。やがて,仏教が日本人の間に浸透しはじめると,神はもとはインドの仏・菩薩であり,日本の衆生を救うために姿を変えて神としてあらわれたという本地垂迹(ほんじすいじやく)説がさかんになった。本地垂迹説は大乗仏教の教説で,絶対的な仏と歴史的な釈迦との関係を説明するものであったが,それを応用して仏教を受容した諸民族・諸地域の神々を,仏教に結びつけることが行われていた。日本では,平安時代に入って神仏習合がさかんになり,元来明確な神格を持たなかった神々も,仏・菩薩に対比して神としての性格を論じられるようになり,素朴な儀礼も荘厳なものに発展した。中でも密教の教説による習合がさかんになり,両部神道(りようぶしんとう)と呼ばれる神道説の流れが形成され,真言系の両部神道に対抗して,天台系の山王神道が唱えられたりした。律令制度のもとで手厚い保護を受けていた古来の神社は,中世に入るころから神領を侵され,仏教が庶民の間に浸透しはじめると,強い危機感を持つようになった。神官の中には,神威と神の加護を宣伝し,神社への寄進を勧めようとする者があらわれたが,その際,神社の固有の主張を説こうとすれば,仏教に対抗する教説が必要になる。伊勢外宮の神官を世襲してきた度会(わたらい)氏の人々は,易や陰陽五行説,老荘思想などを援用して,仏教に対抗する伊勢神道の教説を立てようとした。伊勢神道は,神仏習合から一歩踏み出した点で,後の時代の神道説に大きな影響を与えた。中世の後期に入って,神道説の仏教からの離脱は進み,儒・仏・道など諸思想を習合して神を中心と説く吉田神道が成立した。近世に入って全国の神職のほとんどが吉田神道の支配下に置かれたが,吉川惟足は儒学を摂取した神道説を唱え,吉川神道(よしかわしんとう)を学んだ山崎闇斎は,儒学の立場をさらに深めた垂加神道(すいかしんとう)を主張した。また真言僧慈雲は,記紀などの神典を密教で解釈する雲伝神道を立てたが,その主張は仏教や儒教などの思想を習合した神道を,すべて俗神道としてしりぞけ古典の精神に帰ろうとする国学の立場(復古神道)に近いものであった。
→本地垂迹
明治政府は,強力な統一国家を建設していくために,宗教的な支えが必要であると考えたが,旧時代の象徴のように思われた仏教に依拠するわけにはいかず,神道が注目されることになった。排仏運動が進められ,神仏分離が推し進められる中で,国家の祭祀と結びついた神道が浮かび上がってきた。他方,西欧諸国との交渉が深まる中で,キリスト教の解禁と,信教の自由への配慮が必要となり,大日本帝国憲法の第28条で,限定付きではあるが,信教の自由が認められることになった。そこで,国家の祭祀,皇室の儀礼と結びついた神道は宗教を超えるものとされ,官幣社,国幣社,別格官幣社に列せられる神社は国家の機関となり,神官は官吏となった。国家直属の神社を頂点として,府県社,町村社,郷社などの社格が定められ,祭神も《日本書紀》以下の正統的な神典に記載されている神々に改められた。他方,国家と結びついた神道(国家神道)と別に,信教の自由の次元での諸宗教は,神道,仏教,キリスト教に大別され,宗教としての神道は教派として活動を許可された。したがって神道ということばは,教派神道をさすものとして用いられ,国家と結びついた神道は,大教,本教,惟神道などのことばで示された。
1945年,敗戦の年に,GHQは国家と結びついた神道の廃止と信教の自由の実現を命ずる指令を発した。この文書は〈神道指令〉(国教分離指令)と呼ばれ,戦後の宗教行政の中で大きな役割を果たした。神社は宗教法人となり,現在その多くは連合して神社本庁という組織を作っている。他方,神道系とされる天理教,金光教,大本教などの新宗教も,伝統的な神々の信仰を受けついで活発な宗教活動を展開している。神社は,明治以来数十年の特殊な時代が終わった後,伝統的な信仰の中心として人々の参詣を集め,結婚,受験,交通安全などの祈願を行う場となっているが,教派神道の系譜を引く神道系諸教団に比して,教説や教団の組織を持たないものが多く,祭りを支えていた地域社会の秩序が,近代化の中で解体していく中で,新たな対応を迫られている。他方,神道的な儀礼が,宗教行為に属するか,民俗的な習俗であるかをめぐっては,国民の間からつぎつぎに問題が提起され,裁判で係争中のものも少なくないが,神道をいかなるものと考えるかについて,広く国民の支持を得るには,なお多くの曲折が予想される。
→神 →神道美術 →神仏習合 →民間信仰
執筆者:大隅 和雄
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日本固有の宗教・信仰。古代に神籬(ひもろぎ)や磐座(いわくら)などの自然信仰に始まり,人などに対する信仰も加わって氏神信仰へと発展した。奈良時代頃には記紀神話の伝承のかたちをとり,神社の造営など体系的にも観念的にも整備されていったが,宗教としての教義はまだ整わず,習俗的色彩が強かった。宗教としての神道が体系化されたのは鎌倉時代の伊勢神道以降であり,神仏習合思想の影響をうけながら整備された習合神道であった。その後,室町時代の唯一神道をへて,江戸時代には従来から存在した神道説が発展。儒学の影響をうけた儒家神道もおこり,それらは国学などにも影響を与え,復古神道など尊王攘夷運動の思想的背景となる説も提唱された。明治期には復古神道の影響から国家神道が提唱され,神道が国教として位置づけられた。第2次大戦後,制度的には一宗教と規定されたが,地域儀礼などに国家神道の側面は残存している。
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(岩井洋 関西国際大学教授 / 2007年)
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…そのうち,前生で善をなし,正しい知識をもって正しく祭祀を遂行した人びとは,月世界を離れ,ブラフマー(梵天)の世界に達し,二度と再びこの世に戻ってこない。この経路を〈神道(しんどう)(デーバ・ヤーナdeva‐yāna)〉という。その他の人びとは,一定期間月世界にとどまったのち,雨(雨は月から降ると考えられていた)とともにこの世に舞い戻る。…
…だが,前漢の遺例はこのほかになく,後漢代に墓前に立てられた石人石獣が後代につながる形式をとる。長期間の間に,原位置から移動している場合が少なくないが,墳丘正面の参道を神道(しんどう)とよび,その両側に左右1対の石闕(せつけつ)(石でつくった入口の楼門),石獣,神道石柱(墓主の姓名を記し墓域を示す標柱。神道碑,華表ともいう)を立てたようである。…
…梁の遺例が南京(円陽)地方に造営された陵墓に多くのこっている。石碑は墳丘の正面に設ける参道(神道(しんどう)という)の左右に神道石柱(神道碑,華表ともいう)や石獣とともに立てられている。神道石柱は後漢代にあらわれたもので,円柱の上部に方形の板を彫りだし,被葬者の墓域をしめす題字を刻り,柱の頂部に石獣を彫刻した蓋石をのせたものである。…
…【左近 淑】
【日本のカミ】
カミは,人知を超える霊的な力の総体を示す存在であり,日本の民俗宗教の基本的観念の一つである。カミは,一般に神と表記されるが,神は,文化体系としての神道の表徴であり,カミを神と表記するについては,神道の成立が対応している。そこでカミは,神道における神観念の基礎にあたる部分といえるだろう。…
…近代天皇制国家がつくりだした一種の国教制度。国家神道の思想的源流は,仏教と民俗信仰を抑圧して,記紀神話と皇室崇拝にかかわる神々を崇敬することで宗教生活の統合をはかろうとした,江戸時代後期の水戸学や国学系の復古神道説や国体思想にある。明治維新にさいして,こうした立場の国学者や神道家が宗教政策の担当者として登用され,古代の律令制にならって神祇官が設けられて,祭政一致が維新政府のイデオロギーとなった。…
… 洞真部の道教経典は,《雲笈七籤》巻六に引く唐初に成立の《業報因縁経》に〈元始天尊は亦た天宝君とも名づけ,洞真経十二部を説く〉とあり,道教三尊,すなわち太上老君,太上道君,元始天尊,のうち出現が最も遅く,6世紀半ば以後と推定される元始天尊(〈天尊〉の語は漢訳仏典から始まる)の教誡を経典化したものであるが,この洞真部経典群の内容的な特色は,その代表的な経典《元始無量度人経》や《无上(むじよう)内秘真蔵経》などが最も良く示しているように,用語と思想とに仏教的な色彩の濃厚なことである。もちろん経典内容の基底部をなすものは,祝禱,禁呪,符醮などの天師道教団的な呪術宗教,いわゆる〈鬼道〉であり,儒教の〈神道〉の易学や祭礼の宗教哲学,また老荘道家の〈玄〉と〈真〉と〈元気〉の哲学,いわゆる〈真道〉の神学教理もまたその主要な部分を占めるが,これらの神学教理が仏教の思想哲学と結びつけられ折衷されて,しばしば聖道の教もしくは聖教,聖学とよばれているところに,この経典群の大きな特徴が見られる。 つぎに洞玄部の経典群は,漢・魏のころから曹丕(そうひ)の《典論》などに各剣宝刀をよぶ言葉として見え初める〈霊宝〉の2字を結びつけた〈洞玄霊宝〉の4字を経典名の中に含むことが多く,《雲笈七籤》では《玉緯》(唐の玄宗の開元年間(713‐741)に作られた道教の経典目録)を引いて〈洞玄は是れ霊宝君の出だす所〉といい,上引の《道教宗源》の〈凡例〉では,〈洞玄部は則ち三界の医王・太上道君の出だす所〉という。…
※「神道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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