禅宗(読み)ぜんしゅう

精選版 日本国語大辞典 「禅宗」の意味・読み・例文・類語

ぜん‐しゅう【禅宗】

〘名〙 坐禅によって仏道をきわめようとする仏教宗派。一般に五家すなわち臨済・潙仰(いぎょう)曹洞・雲門・法眼の五宗と、臨済より分かれた楊岐(ようぎ)・黄龍の二派を加えた七宗を総称する。日本に伝わったものは臨済宗曹洞宗の二宗と黄龍派の末流である黄檗宗の三宗派で、臨済宗は栄西が入宋(一一六八)して伝え、曹洞宗は、道元が入宋(一二二三‐二七)して伝え、黄檗宗は承応三年(一六五四)に明の隠元が渡来して伝えた。菩提達磨始祖とし、教外別伝・不立文字(ふりゅうもんじ)・直指人心(じきしにんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)を基本思想とし、坐禅によって自己の本性を洞見して成仏するとなすもの。仏心宗達磨宗。禅。
興禅護国論(1198)中「三国諸宗興廃有時九宗並行智証大師云。禅宗是八宗之外也」

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デジタル大辞泉 「禅宗」の意味・読み・例文・類語

ぜん‐しゅう【禅宗】

仏教の一派。もっぱら座禅を修行し、内観・自省によって心性の本源を悟ろうとする宗門達磨だるまが中国に伝え、日本には鎌倉初期栄西臨済禅を、次いで道元曹洞禅を、それぞれ入宋ののち伝えて盛んになった。江戸時代に明の隠元が来朝して黄檗おうばくの一派を開き、現在この三派が並び行われている。以心伝心教外きょうげ別伝を重んじ、仏の心をただちに人々の心に伝えるのを旨とするので、仏心宗ともいう。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「禅宗」の意味・わかりやすい解説

禅宗
ぜんしゅう

中国と日本の、仏教の一派。6世紀の初め、インド僧の達磨(だるま)(ボーディダルマ)が開宗、唐より宋(そう)初にかけて、中国文明の再編とともに、民族自らの宗教として独自の教義と歴史をつくり、鎌倉時代以後、日本にきて結実する。経論の学問によらず、坐禅(ざぜん)と問答によって直接に仏陀(ぶっだ)の心に目覚める、見性悟道を説く。近世中国の仏教はみな禅宗を名のるが、日本では他の諸宗に伍(ご)して、曹洞(そうとう)、臨済(りんざい)、黄檗(おうばく)の3派を数える。

[柳田聖山]

中国

禅宗では、仏陀が霊鷲山(りょうじゅせん)で説法していると、梵天(ぼんてん)が金婆羅華(こんぱらげ)を献じ、仏陀は黙って花を大衆に示すと、摩訶迦葉(まかかしょう)がひとり破顔微笑(みしょう)したので、仏陀は迦葉に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を伝えた、という説があり、それが立宗の基となっている。正法眼蔵とは、仏教のエッセンスを意味する。迦葉より二十八伝して、達磨が中国にきて初祖となり、六伝して慧能(えのう)(638―713)に至る。慧能は新州(広東(カントン)省新興市)の生まれで、生涯ほとんど嶺南(れいなん)を出ず、眼(め)に一丁字(いっちょうじ)もなかったが、労働と参禅によって正法眼蔵を得る。そのことばを集める『六祖壇経(ろくそだんきょう)』によると、外ではどんな環境にいても、心のおこらぬのが坐(ざ)、内では自性に目覚めて、自性の乱れぬのが禅であるという。禅宗は、そうした日常のくふうと、創意を求めるのである。従来、華北の首都を中心に、上層階級の帰依(きえ)によって、高度の学問体系を誇った各派が、唐末五代の社会変動によって一時に衰滅するのと反対に、禅宗は全国各地に支持者を得、五家七宗の盛期を迎える。すなわち、主として湖南に拠(よ)る潙山霊祐(いさんれいゆう)(771―853)と、その弟子仰山慧寂(きょうざんえじゃく)(807―883)の潙仰宗(いぎょうしゅう)、江西に拠る洞山良价(とうざんりょうかい)(807―869)と、その弟子曹山本寂(そうざんほんじゃく)(840―901)の曹洞宗、河北の鎮州に拠る臨済義玄(りんざいぎげん)(?―866)の臨済宗、嶺南に拠る雲門文偃(うんもんぶんえん)(864―949)の雲門宗、および金陵に拠る法眼文益(ほうげんぶんえき)(885―958)の法眼宗であり、さらに臨済宗8代の黄龍慧南(おうりゅうえなん)(1002―1069)と、楊岐方会(ようぎほうえ)(992―1049)の2人が、それぞれ江南に一派を開くのをあわせて、五家七宗の禅宗が、近世中国仏教を代表するのである。

[柳田聖山]

日本

日本の禅宗は、建仁寺の栄西(えいさい)(1141―1215)が黄龍宗を伝え、永平寺の道元(1200―1254)が曹洞宗を伝えるのに始まり、24流を数える宋朝禅が日本で大成されることとなる。とりわけ、楊岐宗の日本伝来は、中国の近世文明を伴うので、新儒教の朱子学をはじめ、文学や美術、建築、日常生活の創意にわたって、日本中世文化の発展に作用する。たとえば、江戸時代の初め、福州黄檗山(おうばくさん)の隠元隆琦(いんげんりゅうき)(1592―1673)が諸弟子とともに来朝し、将軍徳川家の帰依によって、京都に黄檗山万福寺を開く。隠元の禅は楊岐宗に属するが、中世日本の楊岐宗と異なって、近世中国の文人趣味や、医学、社会福祉など、多方面の新文明を伴って、日本仏教各派の再編を促すのであり、盤珪永琢(ばんけいようたく)(1622―1693)、白隠慧鶴(はくいんえかく)(1685―1768)、卍山道白(まんざんどうはく)(1635―1714)、面山瑞方(めんざんずいほう)(1683―1769)など、臨済・曹洞2派の復古と改革運動が、これに続いて起こる。

 禅宗では、真理はわれわれの言語、文字による表現を超えているとし(不立文字(ふりゅうもんじ))、師から弟子へ直接に心で心を伝える(以心伝心)といわれて、その系譜が重んぜられる(師資相承(ししそうじょう))。

[柳田聖山]

『『講座 禅』全8巻(1967~1969・筑摩書房)』『鈴木大拙著、北川桃雄訳『禅と日本文化』(岩波新書)』


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百科事典マイペディア 「禅宗」の意味・わかりやすい解説

禅宗【ぜんしゅう】

を根本とする仏教の一宗派。座禅・公案を重んじ,内観・内省によって,自己の内にある仏性をきわめんとする。開祖は達磨(だるま)とされ,6世紀初頭,インドから中国に伝えられた。達磨の法は慧可(えか),僧【さん】,道信,弘忍(ぐにん)と受け継がれ,弘忍の下に慧能〔638-713〕,神秀〔606-706〕の二大禅僧が出て,南宗と北宗に2分された。南宗の慧能の下では懐譲(えじょう),行思,玄覚,神会(じんね),慧忠の5人がすぐれ,懐譲の系統から臨済が出て臨済宗を開き,また【い】山(いざん),仰山が出て【い】仰(いぎょう)宗を開いた。行思の系統からは,石頭,薬山,雲厳,洞山,曹山と続き五代に曹洞宗が生まれ,また雲門,法眼の2宗が開かれた。臨済・【い】仰・曹洞・雲門・法眼の5宗を五家と呼び,宋代に臨済から出た黄竜,楊岐の2派を加えて五家七宗と呼ぶ。 日本には奈良時代に伝わったが,宗勢振るわず,鎌倉初期栄西(えいさい)が入宋して黄竜派の臨済禅を伝え,道元も曹洞宗を伝えた。道元の法は義介(ぎかい),瑩山(けいざん)によって受け継がれ,次第に普及していった。臨済宗はおもに貴族・武士階級に尊ばれ,五山文学東山文化など文芸・美術の上で大きな影響を及ぼした。江戸初期,明僧隠元によって黄檗(おうばく)宗が伝えられた。日本では禅宗とは以上の3宗をさす総括的呼び名でもある。
→関連項目開山・開基鎌倉時代唐物三門禅宗美術托鉢不立文字瞑想系身体技法

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「禅宗」の意味・わかりやすい解説

禅宗
ぜんしゅう

自己の仏性を内観することを目的とする仏教の一派。仏心宗ともいう。特に坐禅を重んじることに特徴がある。インドの菩提達磨によって中国に伝えられたので,達磨を宗祖とする。第5祖弘忍の門下に慧能神秀が出て,2派に分れ,禅宗を盛んにした。慧能の系統を南宗といい,神秀の系統を北宗という。南宗はさらに2派に分れ,青原 (せいげん) が曹洞宗を興し,南嶽は臨済宗を興した。日本へは鎌倉時代にこの2派が道元と栄西によって伝えられ,現在にいたっている。江戸時代に明の隠元が日本に渡って黄檗宗を伝えた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「禅宗」の解説

禅宗
ぜんしゅう

中国と日本の仏教の一派で,坐禅を宗とする人々の集り。今日,禅宗とよばれる宗派は,北魏末に中国にきたインド僧達磨(だるま)を初祖とし,唐から宋代にかけて臨済・曹洞・潙仰(いぎょう)・雲門・法眼の5家にわかれ,さらに臨済から黄竜(おうりょう)・楊岐(ようぎ)の2派がでた。宋代以後,五家七宗は臨済宗楊岐派と曹洞宗の2派だけとなった。鎌倉時代から江戸時代初めにかけて,それらすべての流派が日本に伝わり,いわゆる二十四流をかぞえ,今日では曹洞宗・臨済宗・黄檗(おうばく)宗の三つにわかれる。日本に本格的に禅を伝えたのは,1187年(文治3)に入宋した栄西である。道元は1223年(貞応2)に入宋して曹洞宗を伝えた。栄西は臨済宗の祖師,道元は曹洞宗の祖師とされる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「禅宗」の解説

禅宗
ぜんしゅう

470年ごろインドから中国を訪れた達磨 (だるま) が開いた仏教の一派
当時の不安な社会情勢の中で,仏教と老荘思想との交流を通じ,座禅修道による簡明直截な安心の道として中国化された。唐代の慧能 (えのう) に至って純化確立され,中国仏教の主流となり,思想界に大きな影響を与えた。宋代には守成期にはいり,禅の主脈は日本に移った。鎌倉時代に宋の臨済 (りんざい) ・曹洞 (そうとう) の二派が伝来し,江戸時代には黄檗 (おうばく) 宗が広められた。

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世界大百科事典 第2版 「禅宗」の意味・わかりやすい解説

ぜんしゅう【禅宗】

中国と日本の仏教宗派の一つ。日本では,鎌倉時代より江戸時代の初期にかけて,中国より伝えられる24流48伝がそのすべてで,今では臨済,曹洞,黄檗の3派に大別される。 禅は,インドに起き,禅宗は,中国で始まる。座禅を意味するインド仏教の禅に対し,禅宗は自派の起源を次のように主張する。仏陀が晩年,霊鷲山で説法していると,梵天(ヒンドゥー教の神)が一枝の花を献ずる。仏陀は,これを大衆に示す。大衆には,何のことか判らぬ。

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旺文社日本史事典 三訂版 「禅宗」の解説

禅宗
ぜんしゅう

坐禅をおもな修行方法とし,みずから悟りを得ようとする仏教の一派
先行形態は古くインドにあったが,6世紀達磨 (だるま) により中国に伝わり,9世紀以降盛んになる。日本には,鎌倉時代に栄西により臨済宗が,道元により曹洞宗が,江戸時代に隠元により黄檗 (おうばく) 宗がそれぞれ伝えられ,武家の信仰として広く普及し,その思想は学問・文芸・社会生活のうえに大きな影響をもたらした。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「禅宗」の解説

禅宗(ぜんしゅう)

禅(ぜん)

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世界大百科事典内の禅宗の言及

【印可】より

…日本の芸能では,免許証や許状を出す意となる。《維摩経》弟子品に,維摩が舎利弗(しやりほつ)の座禅を叱り,正しい座禅の心得を説いて,このようにすれば仏は印可される,といっているのが根拠であり,中国の禅宗では,そうした印可の印として,衣鉢や禅板,机案,払子(ほつす)などを与えることとなり,さらにその事由を記す印可状や,師の肖像(頂相(ちんそう))に賛をつけて与える風習が生まれて,日本に多くの遺品を伝える。《日葡辞書》にも,インカヲダス,トルなどの例がある。…

【禅】より

…とりわけ,具体的な座禅の仕方を説く坐禅儀は,天台のそれを最初とする。 中国の禅宗は,智顗の活動とほぼ同じころ,西域より華北に来たインド僧達磨を初祖とし,その6代を名のる曹渓慧能(えのう)に大成される。禅宗の禅は,座禅や止観のことではなくて,人の心そのものとなる。…

【仏教】より

元暁は和諍(わじよう)思想を説き,義湘は華厳十刹を創建した。この華厳をはじめ律(慈蔵),涅槃,法性,法相の五教のほか浄土教や密教も行われたが,8世紀以後になると,中国の禅宗が新羅人によって伝えられ禅門九山が成立し,高麗時代に盛行するに至った。 高麗の太祖王建は崇仏の念あつく,護国鎮護の法として仏教を保護し,多くの寺院を建立し,無遮大会や八関会(はちかんえ),燃灯会などを行ったため,仏教は社会全体に深く浸透した。…

【留学】より

…このように,彼らは最初は天台宗や律宗など自分たちの宗旨を学んでくるのが第一の目的であった。ところが,大陸仏教界ではすでに禅宗が主流を占めていたため,やがて禅宗各派を学んでくるものが多くなっていった。 そうしたなかで画期的な役割を果たしたのは,再度の留学によって,1191年(建久2)に臨済宗黄竜(おうりよう)派の禅を伝えた栄西である。…

※「禅宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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