デジタル大辞泉
「租庸調」の意味・読み・例文・類語
そ‐よう‐ちょう〔‐テウ〕【租庸調】
1 中国、隋・唐代の均田法下の税法。給田を受けた丁男(21~59歳)に課したもので、租は粟2石、庸は年20日(閏年は22日)の労役、または代納として1日当たり絹3尺、調は絹2丈と綿3両、または布2.5丈と麻3斤。8世紀後半、均田法の崩壊とともに両税法に移行した。
2 律令制で、唐制にならって行われた税制。→租 →庸 →調
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そ‐よう‐ちょう‥テウ【租庸調】
- 〘 名詞 〙
- ① 中国、唐代の均田制下の税法。その内容は、年ごとに、租は粟二石、庸は平年二〇日の労役または代納、調は絹二丈と綿三両など穀物以外の現物税で、給田を受けた丁男(二一~五九歳)に課した。のち均田制の崩壊とともに両税法に代わる。〔新唐書‐食貨志一〕
- ② 日本の令制のもとで行なわれた税法。班田収授法を背景に唐制を日本の実情に合わせ改変した。租は田一段に稲二束二把(実際には一束五把のことが多かった)、庸は年一〇日の歳役に代えて布を、調は布あるいは地方の特産物を納める。このほか、雑徭・兵士役などの負担義務もあった。→租・庸・調
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租庸調 (そようちょう)
隋・唐前期の主要税制。丁男(21~59歳)を対象に定額の穀物と布帛を課徴した点に特質があり,北魏の485年(太和9)に始まる均田法に対応する均賦制の発展したもの。その完成形態を示す唐の〈開元賦役令〉によりその大体を略述すると,まず徴収対象は九品以上の官人や王公貴族および旌表者(忠孝節義を表彰された者),僧侶道士と身体障害者,部曲・奴隷等の賤民を除く良民の男子正丁に限定され,対象者(課口)でも,老親などのめんどうをみる者(侍丁),服喪者,兵士,色役(しきえき)従事者等は実際の徴収を免除された(見不輸(げんふゆ))。
次に税額は毎丁租が粟(あわ)2石(約60l),調が絹(けん)・綾(りよう)・絁(し)というきぬで2丈と綿(まわた)3両,非養蚕地では麻布2丈5尺と麻糸3斤,庸は力役20日分(閏年には22日分)の代納で1日当り絹3尺または麻布3尺7寸5分の割で,計絹1匹2丈(=6丈),麻布1端2丈5尺(=7丈5尺)となり,調庸は併せて一括徴収されるから,毎丁絹2匹(約24m)あるいは麻布2端(約30m)の負担である。調庸については地域別に特産品で代納することが行われ,嶺南で銀に代えて納入された実物が西安何家村遺跡で発見された。また長江(揚子江)流域以南では8世紀に租をほとんど麻布に代え租布として徴収した。なお水旱虫霜の災害にあった地方では,被害に応じ4割以上で租,6割以上で租と調,7割以上では租調庸を全免する規定があり,8世紀中葉になると1郷中貧窮者若干戸の徴収免除が行われた。租庸調の徴収には毎年末に戸主の提出する手実(申告書)に基づいて里正らの手で州県の計帳が作られ,毎戸の徴収額と県,州の合計額が首都の戸部度支(たくし)に報告された。調庸は8月に,租は11月に徴収され,いずれも輸送を請け負う商人らと州県官の監督者により都へ運ばれ,長安・洛陽の太倉・含嘉倉をはじめ,主要な倉庫に収納された。正丁均額賦課の前提をなす均田法は部分的にしか実施しえず,8世紀には小農民の困窮化・流亡がめだち,他方貨幣経済も浸透し,780年(建中1)の両税法発布により租庸調は廃止された。
→課役 →均田法
執筆者:池田 温
日本
日本古代の律令制における租(タチカラ)は水田の用益者がその面積に応じて収穫稲の3%ほどを納めた。庸(チカラシロ)は仕丁や歳役に就役する代りに布などを納めるもの。租庸調は唐の律令ではいずれも成年男子(丁男)が負担し,中央財政の主要な収入源とされた。しかし日本では租は人頭税でなく田積を基準に課され,また租の多くは国衙に備蓄されたので,丁男ごとに賦課されて中央財政の主要な収入源とされた調庸とは区別され,一般には課役はふくまれなかった。なお8世紀中ごろから,出挙(すいこ)の制が拡大され,租庸調と並ぶ政府の主要な収入源となった。
執筆者:吉田 孝
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租庸調【そようちょう】
中国と日本の税法。(1)中国。魏(ぎ)・晋(しん)のころ租(穀物)・調(絹・綿・麻)は戸ごとに,北魏では1夫婦ごとに課せられていた。唐代に均田法による給田に対する義務として,丁男(ていだん)が租を粟(あわ)2石,調を絹2丈(じょう)と綿3両(または麻布2.5丈と麻糸3斤(きん))を納め,庸として1年に20日(閏(うるう)年は22日)国家的土木事業に従事させられた。780年両税法の発布により廃された。(2)日本。689年の飛鳥浄御原律令(あすかきよみはらりつりょう),701年の大宝律令で整備。中国と社会経済の発展段階が異なるために細部ではやや違う。租(田租)は田の面積に応じて課される土地税。率は1段の収穫50束に対し1束5把(わ),72束なら2束2把で,いずれも収穫の約3%。調は初め戸数割だったらしいが,浄御原令で成年男子が繊維製品,加工食品,特産品など一定額を現物で納付する人頭税となったらしい。庸は初め仕丁(しちょう)の衣食の戸数割,のちに調同様の人頭税。雑徭(ぞうよう)も浄御原令で人頭税として追加された。調・庸は都に送られ官人給与や事業費となり,租・雑徭は地方行政の財源となったが,9−10世紀に滞納や品質低下が著しく,律令国家を解体させ始めた。
→関連項目課役|人頭税|中男作物|唐|賦役(中国)|府兵制|律令制度
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租・庸・調[中国]
そ・よう・ちょう[ちゅうごく]
おもに中国の隋,唐前期の税制度で,土地制度の均田制と表裏をなす。均田法の行なわれた時期にはすべて丁男(21~59歳,年代により変化がある)対象の均一賦課を原則として,毎年課せられた。漢代には収穫の 30分の1が田租とされ,北朝から隋,唐にかけて均田法の行なわれた時期には,夫婦で粟 2石,あるいは丁男 1人あたり粟 2石のごとく人頭賦課で徴収された。庸は都とその周辺で国家土木事業に従事させるもので,年間 20日の役(徭役)があった。しかし就役を命じないときには,代償として 1日あたり絹 3尺(もしくは麻布 3.75尺)を納めさせ,これも庸といった。調は繊維製品で絹 2丈と真綿 3両あるいは麻布 2丈半と麻糸 3斤を納めさせた。庸・調一括して絹 2匹,麻布なら 2端徴収することもあった。盛唐時代になると農民の階層分化が進み,均田法が有名無実化するにつれて租・庸・調の比重も低下し,両税法の制定にいたって消滅した。(→租・庸・調〈日本〉)
租・庸・調[日本]
そ・よう・ちょう[にほん]
日本の律令制下の税制度。唐の均田制および税制にならい,律令制度の税制のうちの基本をなすもので班田収授法によって口分田を与えられた公民に毎年課せられた。租は口分田1反 (約 9.9a) につき稲2束2把 (約 11kg) ,のちに度量衡制が改正されて1束5把となったが,実量は変りなく収穫量の約3%にあたっていた。庸・調は成年男子 (20~60歳) にかかる人頭税で,庸は歳役 10日の代りに,麻布2丈6尺もしくは米,塩などその土地の産物を納める。調は『日本書紀』崇神天皇の条に男には弓弭 (ゆはず) 調,女には手末 (たなすえ) 調を課したとあり,古代の税制の一種であった。律令制下では,絹,糸,綿,布その他の産物を納めさせた。庸・調ともに中央政府の費用にあてられたので,毎年8~12月の間に公民によって大蔵省に運ばせ,その運搬の労力と費用は庸・調を納める公民の負担であった。 10世紀頃荘園制が展開されると,律令的租税体系は崩壊,消滅した。
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租庸調(そようちょう)
隋唐の均田制と表裏する税法。租は農産物を徴収する税として漢代よりあり,調は三国魏以来戸ごとに織物を出させた。北魏の均田制施行とともに,夫婦単位に均等額の租調を徴するようになった。そのほか農民は力役を出したが,実役につく代わりに代償を出して庸といったのは西魏からで,隋代に中央へ出す正役(歳役)と地方官庁へ出す雑徭(ざつよう)と府兵の役が分化し,正役の代償を庸とした。煬帝(ようだい)のとき婦人の負担が廃され,丁男から租庸調を徴した。唐の租は粟2石,庸は年20日の役または1日絹3尺と布(あさぬの)3.75尺の割合で換算した代償,調は絹2丈と綿(まわた)3両または布2.5丈と麻3斤である。
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租庸調
そようちょう
唐代前半に完成され実施された税制。均田制と関連して制定された
丁男 (ていだん) (だいたい20〜59歳)に対し,租は年に粟 (ぞく) 2石,調は地方特産の品で綾 (あや) ・絹・絁 (あしぎぬ) であれば,そのいずれか2丈と真綿 (まわた) 3両,布であれば2丈5尺と麻3斤を納めた。庸は中央の国家的土木事業に対する年20日の労働提供(正役),実際は代償として1日当たり絹3尺,麻布3.5尺の割で換算徴収されることが多かった。別に地方における労働提供として雑徭 (ざつよう) があった。就役は他人あるいは私有の賤民に代役させることもできた。租庸調は各地方の州県官が徴収する規定であったが,実際は村正・里正が担当した。その負担者は給田された丁男に限られ,皇族・高級官僚や20歳以下60歳以上の男子,僧侶・道士・女子などは免除された。この税法は南北朝・隋に行われたものを,唐代に上記のように改正したもので,780年両税法の施行により廃止された。
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租・庸・調
そ・よう・ちょう
律令制度における税の主要なもの
租は田租で口分田などの田地に課され,稲2束2把で収穫量の約3%にあたる。租は各国の正倉に貯蔵され,地方財政にあてられた。庸は歳役(1年間に正丁 (せいてい) が10日,次丁が5日労役に服す)の代納物で,布を中心に米・塩・綿など郷土の産物を中央政府へ納めた。調は男子に課税され(年齢・地域によって差がある),絹・糸・綿・布・鉄・塩・海産物などを中央政府に納入した。庸と調は運脚で都に運ばれ中央の財源にあてられた。
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租庸調
そようちょう
田租と庸と調をさし,律令制の代表的税種の総称。この語は,唐制において正丁が負担する人頭税の総称である課役(かやく)の内容であり,均田制に対応する税法として,租庸調法などと律令法の代名詞的意味を含めて用いられるが,日本ではあまり用いられていない。日本の課役は調庸と雑徭(ぞうよう)をさし,田租は土地に賦課されるので質が異なる。また調と庸は「調庸」と一語でいうのが日本では一般的である。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の租庸調の言及
【課役】より
…その内容は[租](丁あたり粟2石)と[調](丁あたり絹2丈,あるいは麻布2丈5尺,それに付属物として絹糸,綿(まわた)あるいは麻糸が加わる)および役(年間20日間の力役,中央政府が徴発し主都の建設,土木工事等に使われる)の3種よりなる。役は1日当り3尺の絹(あるいは3尺7寸5分の麻布)に換算代納されるのが一般となり,これは[庸]と呼ばれ,課役は租庸調を意味するようになった。かように公課が成丁ひとりひとりに賦課されたのは,成丁に田地を分給する均田制が背後に想定されたからであるが,7世紀後期には土地不足等による均田制のゆきづまりが顕在化し,課役以外の地税(所有田土面積に応じて賦課)や税銭(資産等に応じて各戸から徴集)等に公課の比重が移行するようになった。…
※「租庸調」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」