精選版 日本国語大辞典 「秦」の意味・読み・例文・類語
しん【秦】
はた‐しん【秦】
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中国、周代の侯国の一つで、のち中国最初の統一王朝(?~前207)。
[好並隆司]
神話伝説から歴史事実とみられる移行期は非子の記載のあるころとみられる。周の孝王は大丘にいた非子に牧畜をさせ、秦の地を与え、嬴(えい)氏を名のらせた。襄公(じょうこう)は周の内乱に際して平王を助けたので初めて諸侯に任じ、岐山(きざん)(陝西(せんせい)省岐山県北東)以西の地を与え秦公とした(前771)。このとき犠牲を用いて上帝を祀(まつ)ったが、これは西戎(せいじゅう)の習俗に由来する。文公のとき、渭水(いすい)と水(けんすい)の合流点あたりに都を移し「三族の罪」を決めた。人が罪を犯したとき父母、妻子、兄弟まで連座する法律である。君主権の伸長を示すとともに戎翟(じゅうてき)の慣習を法制化した面もある。寧公2年(前714)には都を平陽(陝西省鳳翔(ほうしょう)県南西)に移した。そののち武公10年(前688)に邽(けい)、冀(き)の戎を討伐し、ここに初めて県を置き、杜(と)、鄭(てい)を県としている。徳公のとき雍(よう)(陝西省鳳翔県)に都したが、繆公(穆公)(ぼくこう)のときに飛躍的にその勢力を強めた。繆公は百里奚(ひゃくりけい)や由余を登用し、秦の進むべき道を指し示した。百里奚はもと虞(ぐ)の大夫であり、繆公の招請によって臣下となった。由余は晋(しん)の人であるが、当時、戎王の下にいたのを策略をもって臣従させた。このように客臣を用いて君主の指導力を強める方針は秦の伝統となった。由余は礼楽法度(れいがくほうど)を退けて上下一体の戎翟の社会をモデルにするよう繆公に勧めている。君主権を抑制する宗族(そうぞく)や貴族の勢力を削減する道である。このなかで強大となった秦は河西の地を占め西戎の地を伐(う)ったので、その領土は方千里に達したという。繆公は死んだとき多くの殉死者を得たが、それは生前、臣下と約束していたからである。つまり、君主が部下を私臣として自由に扱うということで、秦の君子たちの非難を受けているが、これも君主権伸長の一標識である。
[好並隆司]
秦はその後、国内で争いを起こし東方発展の力はなかった。しかし、紀元前403年、晋が韓(かん)、魏(ぎ)、趙(ちょう)に分裂したので、献公は櫟陽(やくよう)(陝西省臨潼(りんとう)県東)に都を東遷して、東方経略を図った。その子、孝公は、諸侯でありながら戎狄(じゅうてき)と蔑視(べっし)されて東方の会盟に加わることができなかったので憤りを感じ、自国を強化して東方諸侯に力を示そうと考えた。そこで広く人材を求め、富国強兵を実現しようとした。魏から衛の公族出身の公孫鞅(おう)(後の商鞅)が来朝して、帝王の道、王道、覇道という順序で孝公に自説を述べている。前二者は回りくどいという点で孝公は用いなかったが、覇道は孝公を感銘させた。商鞅は覇道を実行することがやがて帝王の道(尭(ぎょう)の統治)に至る道程と考えていた。孝公に抜擢(ばってき)された商鞅は信賞必罰を核として、農業、戦闘の成果を計って授爵し、有爵者だけが評価される身分制社会をつくりだした。そして隣=伍家(ごか)という共同体(小宗族的)単位を基礎として国家に協力するという体制を什伍(じゅうご)制として施行した。これは君主が「伍」を把握するもので、中間的勢力を抑制して家父長的権力の伸長を計るものであった。その「伍」を単位として「聚(じゅ)」がつくられ、その上に「郷」「県」が行政単位として成立する。後の郡県制につながる県制は商鞅によって初めて設定された。阡陌(せんぱく)制を開いたのも彼であるが、これは小型家族の創設政策である「分異法」によって析出され、野を開拓した子弟の土地を整理するために設けられた東西の土地区画線と考えられるが、諸説あってなお定説はない。商鞅変法は第一次、第二次と施行されるが、この第二次変法は都を咸陽(かんよう)に移してのち行われている。咸陽はそれ以後、秦の滅亡するまで首都であった。
孝公は変法で強力となった国力で東征を展開し、河西の地を魏から奪回した。魏はこの敗戦の結果、都を安邑(あんゆう)(山西省候馬(こうま))から大梁(たいりょう)(河南省開封)に移さざるをえなかった(前340)。この秦の東征は東方諸国に大きな脅威を与えた。蘇秦(そしん)、張儀(ちょうぎ)らの有名な合従連衡(がっしょうれんこう)などの妥協策や対抗策はすべて秦を中心に考えられた外交政策である。孝公の死後、秦では恵文王が継ぎ、もともと仲のよくなかった商鞅を誅殺(ちゅうさつ)するが、政策の基本である君主権の伸長という方針はこれを踏襲した。そして、ただちに中原(ちゅうげん)に覇を唱えるのでなく、なおいっそう国力の基礎を強固にするため、巴蜀(はしょく)(四川(しせん)省)を制圧し、楚(そ)に属していた漢中を領有した(前312)。さらに昭王の時代には揚子江(ようすこう)を南渡し、将軍白起(はくき)は楚の首都郢(えい)(湖北省江陵県)を陥落させた。東方では魏の河東地方を併合し、范雎(はんしょ)を用いて遠交近攻策を駆使しつつ、長平において趙国に致命的な打撃を与えた(前260)。昭王はやがて西周を滅ぼし、東周君も秦の荘襄王(そうじょうおう)子楚(しそ)によって滅ぼされ、周王朝はここに形式上も終焉(しゅうえん)した(前249)。
[好並隆司]
荘襄王子楚の子が秦王政である。彼は年少で王位についたので、太后や丞相(じょうしょう)呂不韋(りょふい)らが政治権力を握っていた。しかし、太后の愛人、嫪(ろうあい)を誅(ちゅう)し(前238)、
を太后に推薦したことによって呂不韋も政権の座から追放して、ついに秦王政が親政することになった。それ以後、彼は丞相に李斯(りし)を用い、法家主義的政策を採用して、宗室、貴族の勢力を抑制しつつ、専制的皇帝権力を樹立した。その間、王翦(おうせん)らの将軍を派遣して各国を征服し続けた。韓王国の滅びたのは前230年であるが、以後、10年間に他の5国も次々と秦国の力の前に屈服した。そして中国全土を統一の権力が制覇することとなった(前221)。これが秦帝国である。彼は秦帝国の永遠なることを希望して始皇帝と称し、万世に至らんと願った。彼は丞相、太尉(たいい)、御史大夫(ぎょしたいふ)を配置して、行政、軍事両面における皇帝の補佐役とした。地方統治形態は封建制でなく、商鞅以来の郡県制をとり、全国を36郡に分け、郡には守、尉、監を、県には令、長などを置き、軍事は県尉にゆだねられた。全国を集権化する必要上、度量衡、貨幣、文章書体などを一定にする措置がとられた。そして、反乱を防ぐため武器を集めて溶融し「金人」としたという。北は匈奴(きょうど)防衛のため長城を設け、南は華南、東は朝鮮までもその勢力範囲を伸長した。イデオロギー統制にも力を入れた。焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)は著名な事件であるが、農芸、医薬、卜占(ぼくせん)などを除くすべての書籍を焼いたようにいわれている。しかし、官庁に保管していた儒家の経典など諸子百家の文献は残されていた。それらを私的にもち流布させることによって秦朝の諸政策を非難する動きを抑制するのが焚書のおもなねらいであった。坑儒も始皇帝を誹謗(ひぼう)した方士たちと、それに関連した儒者が処罰されたのであって、儒家の抹殺という徹底したものでなかったことは注意を払っておく必要があろう。
この壮大な帝国はアジア世界において最初の大規模な領域をもち、秦の名は遠く西方世界にまで伝播(でんぱ)された。支那(しな)(チャイナ)の名称の起源は秦(チン)にあるという説があったのもそこに由来するであろう。しかし、秦の法家的威圧は、なお強い勢力をもつ貴族や小宗族を基礎とする農民各層の反発を招かざるをえなかった。しかも、皇帝権力の威を示すための陵や宮殿の造築に要した労働力は莫大(ばくだい)なもので、負担は庶民に重くのしかかった。二世皇帝胡亥(こがい)も趙高(ちょうこう)を用いて同様の政策をとった。趙高は身分制を撤廃して君権強化を計っているが、現実との背反は激しくなるばかりであった。このころ、陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)らの農民反乱が起こり、それに触発されて貴族、豪傑らも反秦の旗を翻した。胡亥の後継の公子嬰(しえい)が項羽(こうう)の部将であった漢の劉邦(りゅうほう)に降(くだ)り、伝国の玉璽(ぎょくじ)を捧呈(ほうてい)して秦帝国は滅んだ(前207)。天下統一後、3代15年の治世であった。
[好並隆司]
『西嶋定生著『中国の歴史2 秦漢帝国』(1974・講談社)』
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①?~前206 中国最初の統一王朝。初め甘粛東部にあり,前8世紀に周の諸侯となり,渭水(いすい)に沿って東進し,前4世紀の孝公以来急速に発展した。前256年周王室を滅ぼし,秦王政(始皇帝)のとき韓,趙(ちょう),魏,楚(そ),燕,斉の順に6国を滅ぼし,前221年天下を統一した。始皇帝は法治集権の統一国家体制をとって諸政を一新した。中央に丞相(じょうしょう)(行政),太尉(軍事),御史大夫(ぎょしたいふ)(司法)の3長官を置き,地方には封建制を廃して郡県制をしいた。思想統一(焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)),文字・度量衡・貨幣の統一を行い,北は匈奴(きょうど)を討って万里の長城を築き,南は閩越(びんえつ),南越を併せた。しかし始皇帝が死ぬと,各地に反乱が起こり秦は瓦解した。秦の版図は今日までの中国の範域をほぼ規定した。その中央集権的専制政治は歴代王朝の政治形態となった。都は前350年以降咸陽(かんよう)。
②〔五胡十六国〕五胡十六国の王朝で,前秦,後秦,西秦がある。(1)前秦(351~394)氐(てい)族の苻建(ふけん)が長安を都として建てた王朝。苻堅(ふけん)のとき一時華北を統一したが,淝水(ひすい)の戦いで敗れて崩壊した。(2)後秦(384~417)羌(きょう)族の姚萇(ようちょう)が長安を都として建てた王朝。一時華北の大半を領有したが,東晋の劉裕(りゅうゆう)の北伐で滅んだ。(3)西秦(385~431)鮮卑(せんぴ)の乞伏国仁(きっぷくこくじん)が建てた王朝で,金城(甘粛)を都としたが,夏に滅ぼされた。
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中国最初の統一王朝(前221~前207)。もと周とは異なる西方の民族らしいが,前8世紀には周王朝の混乱に乗じて陝西(せんせい)一帯に勢力をのばし,周の洛邑(らくゆう)遷都を決定づけた。以後周王朝の諸侯となり,前324年に王を称し,前221年には全国を統一し皇帝を称した。その過程で東方6国に対抗し官僚制と法体系としての律を整備。これらは以後継承され発展して,唐代に日本にもたらされた。近年出土の秦律や漢律は,その継承発展の過程を具体的に明らかにする。始皇帝の命により徐福(じょふく)らが仙薬を求めた話は徐福東渡の伝説をうみ,日本にも熊野や佐賀などに伝承されている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…中国,戦国時代の7強国のことで戦国の七雄といい,秦,楚,斉,燕,韓,魏,趙を指す。中原の大国晋が卿(けい)(重臣)によって韓,魏,趙の3国に分割された紀元前5世紀後半になると,東方では権臣田氏が実権を握る斉,北方には旧大国の燕,西方には発展途上の秦,南方には広大な領土を誇る楚の7ヵ国が成立し終わり,世は戦国時代に入る。…
…中国,古代の時代名。周の平王が洛陽の成周に東遷即位した前770年から秦始皇帝が中国を統一した前221年まで。この間の大部分に周王室は東の成周に存続したので東周時代ともよぶ。…
…中国の黄河中流域に位置する行政区画。戦国時代には秦の領域だったので別名を秦という。面積20万5603km2,人口3543万(1996)。…
…中国,五胡十六国の一つ。西秦ともいう。385‐431年。…
…中国,五胡十六国の一つ。前秦ともいう。351‐394年。…
※「秦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
冬期3カ月の平均気温が平年と比べて高い時が暖冬、低い時が寒冬。暖冬時には、日本付近は南海上の亜熱帯高気圧に覆われて、シベリア高気圧の張り出しが弱い。上層では偏西風が東西流型となり、寒気の南下が阻止され...
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