精選版 日本国語大辞典 「秩父事件」の意味・読み・例文・類語
ちちぶ‐じけん【秩父事件】
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1884年(明治17)に発生した秩父困民(こんみん)党の蜂起(ほうき)事件。秩父の山村では穀物自給が不可能で、主として生糸生産によってこれを補完していたが、1883、84年、世界不況と松方財政のデフレは商品経済を直撃したうえ、地方税の引上げ、学校・新道の開設費を伴い、農民の生活は窮迫に追い込まれた。消費金融の需給関係も働き、高利貸営業者の利子率は法外なものとなり、負債農民の破産や逃亡も続出した。1883年11月、農民の総代は郡役所に高利貸説諭の請願をしたが、受け付けられなかった。1884年になると、田代栄助(たしろえいすけ)も自由党に加入しようとし、2月、大井憲太郎の来秩を機に、没落に瀕(ひん)する中農層が20人ほど入党し、これが困民党結成の中核となると同時に、自由党盟約を農民的に読み替えた。8月になると各地で負債農民の集会が行われ、惣代(そうだい)は初めは30人ぐらいであったが、やがて100人となり、9月になると幹部は田代栄助を招請し、各村の動員組織はしだいに整っていく一方、なお請願運動や高利貸に対する返済延期の折衝を行った。
10月下旬、万策尽きた農民は蜂起を決定し、困民党盟約を作成、これは困民救済、金貸しと交渉し承諾のないときは打毀(うちこわし)、戸長役場の書類焼却、諸税・学校費の廃止などを内容とした。同じころ大井憲太郎は蜂起阻止の説得使を派遣したが、困民党幹部は自由党の意図を乗り越えて、総意をもって11月1日の蜂起を決定した。10月31日まず風布(ふっぷ)村が蜂起し、その夜金貸し会社を襲撃し、翌1日午前中、吉田において警官隊と交戦し、午後この地方の農民を中心に下吉田(秩父市)の椋(むく)神社に結集した。竹槍(たけやり)、刀、銃が武器であった。ここで幹部は役割表を発表し、総理田代栄助、副総理加藤織平(おりへい)、会計長井上伝蔵(でんぞう)、以下二大隊、各村別小隊という編成をとり、厳しい軍律を定めた。吉田から高利貸に攻撃をかけつつ小鹿野(おがの)に進み、2日3000人をもって大宮郷(おおみやごう)(秩父市)に侵入、高利貸を襲い、富豪から募金した。官権力を一掃したが、県は内務卿(きょう)に軍隊派遣を要請し、鎮台兵、憲兵は3日には配置につき、皆野(みなの)において銃撃戦を行った。しかし4日午後に幹部は戦意を失い、田代をはじめ皆野の本陣から逃走したにかかわらず、その夜500人に近い一隊は秩父から出撃して児玉郡金屋村(本庄(ほんじょう)市)で鎮台兵と交戦して10人に余る死者を出した。一方、菊池貫平(かんぺい)の一隊は群馬に入り神流(かんな)川をさかのぼり、長駆長野県に侵入し、数百名の農民を加えて9日未明、南佐久郡の東馬流(ひがしまながし)において鎮台兵、警官隊と交戦して撃破され、14人の戦死者を出し、敗残の兵は午後八(やつ)ヶ岳山麓(さんろく)で攻撃を受けて解体した。事件の被告は秩父のみで6400人を超え、参加者は群馬、長野に及び、兇徒聚衆(きょうとしゅうしゅう)罪による死刑は7人を数えた。困民党の事件中、自由民権運動史に刻まれる最大のものであった。
[井上幸治]
『井上幸治著『秩父事件』(中公新書)』
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1884年(明治17)11月に埼玉県秩父地方でおきた中農自由党員・貧窮農民(困民)による本格的かつ組織的な武装蜂起事件。養蚕・生糸生産を主産業とする秩父地方は松方デフレの影響を最も強くうけた地域で,借金農民の負債返済方法の緩和運動は84年に入ると質的にも量的にも拡大した。当初は債権者や郡役所への請願という合法的な運動が続けられたが,いずれも拒否され,10月になると蜂起への準備が進められた。決行予定日は11月1日であったが,10月31日一部農民が決起,警官隊と衝突し,事実上戦闘が開始された。困民軍は一時全秩父を支配下におくほどの勢いを示したが,警察の態勢の確立,軍隊・憲兵の出動,困民軍指導部の動揺と混乱などにより,月半ばには壊滅した。負債の年賦返済・諸雑税廃止といった生活次元の要求を基底にしつつ,村・県・内務省への要求を掲げたこと,きびしい軍律のもとに行動したことなどに特色がある。なお,この事件の理解・評価については,自由民権運動の一環とする見方と,伝統的な負債弁済をめぐる農民騒動の性格を重視する見方とが対立している。
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…1883,84年には全国的規模で農民騒擾(そうじよう)事件が頻発し,水田地帯では小作料減免や地租納期などとともに負債返済の問題がとりあげられたが,84年になると養蚕地帯で負債農民の増大,身代限りの続出のために負債返済が主要目標となった。地域の広狭にかかわらず,負債農民の集団が運動体をなすとき,各地で借金党,負債党,貧民党,困窮党,窮民党,延期党などと呼ばれたが,最大の秩父事件において当時すでに困民党の名が定着しているので,いまこれが一般化している。なかでも秩父事件,武相地方にこの概念は限定されるかにみえるが,概念の外延を拡大してもよい。…
…弾圧に憤激した激派は84年群馬事件,加波山事件などを起こし,蜂起,挙兵,政府高官暗殺などの直接行動によって政府転覆を企てるに至った。そして同年11月には,不況と負債にあえぐ借金党,困民党の運動を基盤として秩父の農民が蜂起し,革命の旗を掲げて郡内を制圧するという事件(秩父事件)が起こった。激化事件としては以後,飯田事件,名古屋事件,静岡事件などが数えられるが,いずれも決行に至らずに検挙された。…
※「秩父事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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