江戸中期の浄瑠璃作者,竹本座座本。出雲の名は大坂道頓堀からくり芝居興行師竹田近江の最初の受領名から出る。(1)初世(?-1747(延享4)) 元祖出雲と呼ばれる。本名不詳。号は千前,奚疑(けいぎ),千前軒奚疑,外記(2世)。1705年(宝永2)以後,竹本座の座本として座の経営や舞台演出に腕をふるい,《国性爺合戦(こくせんやかつせん)》の趣向を工夫し,23年(享保8)から近松の指導添削で浄瑠璃執筆を始め,以後単独作や合作に作者として活躍した。竹本義太夫の死(1714)後,近松を中心として義太夫の遺弟たちが力を合わせて興行に努めたが成績は振るわず,この不調を一気に回復したのが出雲の頓智発明による近松老功の一作《国性爺合戦》であったと《今昔操(いまむかしあやつり)年代記》はいう。日本の武力による大明国の再興という雄大な構想が出雲の発案であった。晩年の傑作《菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゆてならいかがみ)》では出雲みずから総指揮をとり,各段担当の作者に腕を競わせ,各段担当の太夫にその芸風を競わせるという行き方であった。彼は竹本座の見事な経営,舞台技巧の改良,それを活用した浄瑠璃の執筆によって人形浄瑠璃を近世化した。その結果,太夫の語り方の複雑化,人形機構の発達による3人遣いの出現など人形浄瑠璃を一変させ,歌舞伎にもまさる盛況を実現した。この文化史的意義は大きい。おもな単独作や合作は,《右大将鎌倉実記》(1724),《蘆屋道満大内鑑》(1734),《小栗判官車街道》(1738),《ひらかな盛衰記》(1739),《男作五雁金(おとこだていつつかりがね)》(1742),《児源氏道中軍記(ちごげんじどうちゆうぐんき)》(1744),《菅原伝授手習鑑》(1746)など。(2)2世(1691-1756・元禄4-宝暦6) 親方出雲と呼ばれる。元祖の子。本名清定。初世在世中は竹田小出雲と称した。号は千前軒,外記(3世)。大坂の人。初世出雲の没後2世出雲となり,浄瑠璃執筆とともに竹本座座本を兼ねた。初世のころから浄瑠璃の合作制は見られたが,2世出雲の時期になると,合作制が定着,発達し,その首位に立つ出雲は一作中の作者配分の如何によって浄瑠璃の優劣を生ずる困難な事情に直面した。さらに人形の発達や種類の増加により舞台演出は従前の比ではなく,こうした時期の作者ならびに座本として,優れた手腕を発揮した。作風は従来の時代物の5段組織を多段形式に改め,冒頭から多くの事件を展開させ,部分的描写では細かい写実的表現が見られ,後期浄瑠璃の先駆ともいえる形式をとっている。また趣向の面でも,一見不自然な技巧が重ねられるにもかかわらず,舞台構成上は優れた効果をあげていることは《忠臣蔵岡目評判》などが指摘するところである。歌舞伎の影響もあって舞台本位に急なあまり,文章上の矛盾もまた見られた。さらに人形遣いの発言力も増し,1748年(寛延1)《仮名手本忠臣蔵》初演のとき,吉田文三郎と竹本此太夫との衝突事件で座本の出雲が文三郎に加担したため,此太夫ほかの太夫が豊竹座に移り,以後,竹本西風の芸と豊竹東風の芸との乱れを生じたことは座経営上の失敗であった。おもな作品(小出雲時代を除く)は《傾城枕軍談》(1747),《義経千本桜》(1747),《仮名手本忠臣蔵》(1748),《粟島譜嫁入雛形(あわしまけいずよめいりひながた)》(1749),《双蝶々曲輪日記(ふたつちようちようくるわにつき)》(1749)など。(3)3世 生没年不詳。2世の子。本名は清宜。号は和泉掾,因幡掾,伊豆掾,竹田文吉。大坂の人。3世出雲の座本時代は竹本座が衰運をたどった時期で,座本としての最後。文吉の合作浄瑠璃には《関取千両幟》(1767),《傾城阿波の鳴門》(1768)など。
執筆者:横山 正
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浄瑠璃義太夫節(じょうるりぎだゆうぶし)の作者、興行者。
(?―1747)別号千前軒(せんぜんけん)、外記(げき)。1705年(宝永2)初世竹本義太夫の跡を継いで竹本座の座本として経営に才腕を振るい、出語(でがた)り、出遣(でづか)いの創始、からくり応用、舞台技巧の改良などによって、人形浄瑠璃隆盛のもとをつくった。また、近松門左衛門の指導を受けて浄瑠璃を書き、『大内裏大友真鳥(だいだいりおおとものまとり)』『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』『三荘太夫五人嬢(さんしょうだゆうごにんむすめ)』などの単独作を11編、ほかに長谷川千四・文耕堂らとの合作12編を残した。没する直前に出た『操曲浪花蘆(そうきょくなにわのあし)』は名人極上上吉(ごくじょうじょうきち)の位付けをし、「ふつふつと智恵(ちえ)の吹出雲(ふきいずるくも)」との評語を与えている。
[山本二郎]
(1691―1756)初世の子で、初め小出雲、初世没後に2世出雲、また千前軒、外記を襲名した。座本として手腕を振るい、親方出雲と称せられ操(あやつり)界を抑えたが、浄瑠璃作者としては、先輩格の並木千柳(なみきせんりゅう)・三好松洛(みよししょうらく)との合作で『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』『仮名手本忠臣蔵』『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』などの名作を書き、浄瑠璃の最盛期を飾った。ただし立作者(たてさくしゃ)としての出雲は名目だけで、実際には千柳がおもに執筆したとの説もある。
[山本二郎]
生没年未詳。2世の子で和泉掾(いずみのじょう)、竹田文吉を名のり、『関取千両幟(せきとりせんりょうのぼり)』『傾城阿波の鳴門(けいせいあわのなると)』などに合作者として名を連ねている。彼の代になってから竹本座はしだいに衰退し、1767年(明和4)に退転、やがて3代にわたる出雲の竹本座経営も終わった。
[山本二郎]
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大坂竹本座の座本・浄瑠璃作者。江戸中・後期に3世を数える。初世(?~1747)は初世竹田近江(おうみ)の子。俳号千前軒奚疑(せんぜんけんけいぎ)。1705年(宝永2)竹本座の座本となり,太夫(たゆう)竹本義太夫,作者近松門左衛門との協力体制を確立,竹本座の経営基盤を固める一方,近松のもとで浄瑠璃作者としての修業を積む。23年(享保8)の「大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)」が松田和吉(文耕堂)との合作で第一作,翌年の「諸葛孔明鼎軍談(しょかつこうめいかなえぐんだん)」が単独作の第一作。46年(延享3)の「菅原伝授手習鑑(てならいかがみ)」が最終作。2世(1691~1756)は初世出雲の子。本名清定。通称親方出雲。はじめ竹田小出雲と名のり,1747年(延享4)初世出雲の死去で2世を襲名。興行師としても作者としても手腕を発揮,並木宗輔(そうすけ)・三好松洛(しょうらく)らとともに竹本座全盛期の諸作に名を連ねる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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