じゅん‐ぶんがく【純文学】
〘名〙
※美妙斎主人が韻文論(1891)〈
森鴎外〉「詩即『ポエジイ』を美妙子は純文学 pure
literature と名づけて、(国民新聞、柵草子)」
② 純粋な芸術的感興を追求しようとする文芸
作品。
大衆文学に対していう。〔新らしい言葉の
字引(1918)〕
[語誌](1)西周は「百学連環」で、今日「純文学」と訳されるフランス語 belles-lettres を、文学一般、あるいは
人文科学を意味する literature と
区別していたが、「純文学」という
ことばはまだ用いていない。
挙例の「美妙斎主人が韻文論」が書かれたころに造語されたものか。
(2)②の
用法は、星野天知「黙歩七十年」(
一九三八)の「文学界同人の純文学説に飽き足らなくなって来たのであった」などに見られるように、雑誌「文学界」等の
文壇形成とともに見えはじめるが、
大正から昭和初期の大衆文学の隆盛に対して、それらと区別するために使われ出したとも考えられる。
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デジタル大辞泉
「純文学」の意味・読み・例文・類語
じゅん‐ぶんがく【純文学】
1 大衆文学に対して、純粋な芸術性を目的とする文学。
2 広義の文学に対し、詩歌・小説・戯曲など美的感覚に重点を置く文学。主として明治時代に用いられた語。
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純文学
じゅんぶんがく
文芸用語。読者に迎合する興味本位の通俗文学・大衆文学に対し、純粋な芸術的感興を唯一の必然として書かれた小説をさす。坪内逍遙(しょうよう)や北村透谷(とうこく)ら明治の作家にも、文学者の高貴な精神性とこの用語を結び付けた使用例があるが、自然主義文学から派生した私(わたくし)小説が大正期に隆盛、久米(くめ)正雄の『「私」小説と「心境」小説』(1925)では、純文学と私小説を安易に同一視する見方も出てきた。昭和初期の大衆文学の興隆とプロレタリア文学の問いかけのなかで、私小説中心の文壇小説が問題視され、横光利一『純粋小説論』(1935)は「純文学にして通俗文学」という新たな小説の可能性を模索した。近代日本特有の名称だが、流動的な文学動向のなかで文学の意味が問い直されるおりはいつも、この名称をめぐる議論が復活するのも興味深い。第二次世界大戦後も、中間小説流行への危機感から純文学概念の変質を論じた平野謙の問題提起をきっかけに、伊藤整・大岡昇平・佐伯彰一(さえきしょういち)(1922―2016)らを巻き込んで、「純文学論争」(1961~1962)が戦わされた。一方、1961年(昭和36)から新潮社は「純文学書下ろし特別作品」と銘打ったシリーズを開始、現在に至るまで『砂の女』『沈黙』『恍惚(こうこつ)の人』など多彩な佳作を生み出しているものの、自己固有の問題を固有の方法で思う存分展開する実験的な姿勢は感じられるが、「純文学」の概念を説明する客観的基準はかならずしもみられない。「純文学」に対立することばとして「大衆文学」「中間小説」「エンターテインメント文学」などが想定されるが、正面から「純文学」とは何かという議論そのものがなされなくなっているという事情が存在しよう。文学の質への問いは、どれが本物の文学か、贋物(にせもの)の文学かを論じた、1974年の江藤淳・平岡篤頼(とくよし)(1929―2005)らによる「フォニー論争」にもつながるが、それは新しい時代のなかで文学の果たすイメージが、人によって違っていることを示していた。「芥川賞(あくたがわしょう)」を受けたからそれが「純文学」であるというわけではないという事情も、そうした背景と関係しよう。
[中島国彦]
『日沼倫太郎著『純文学と大衆文学の間』(1970・弘文堂)』▽『平野謙著『純文学論争以後』(1972・筑摩書房)』▽『久米正雄著『「私」小説と「心境」小説』(『近代文学評論大系(6)』所収・1973・角川書店)』▽『谷田昌平著『回想 戦後の文学』(1988・筑摩書房)』▽『女性文学会編『たとえば純文学はこんなふうにして書く――若手作家に学ぶ実践的創作術』(1997・同文書院)』▽『巽孝之著『日本変流文学』(1998・新潮社)』▽『日本論争史研究会編『ニッポンの論争('98-'99)』(1998・夏目書房)』▽『福田和也著『作家の値うち』(2000・飛鳥新社)』▽『横光利一著『愛の挨拶・馬車・純粋小説論』(講談社文芸文庫)』
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純文学
じゅんぶんがく
日本の近代文学および文壇における独特の用語。読者の娯楽的興味に媚 (こ) びるのではなく,作者の純粋な芸術意識によって書かれた文学というほどの意味。大衆文学,通俗文学の対義語。しかし,1960年代の高度経済成長と大衆社会化状況の始まりの中で起きた「純文学論争」のころから,その概念が揺らぎ始めたといえる。すなわち,週刊誌,大衆誌紙,婦人雑誌などの隆盛,新書判読み物の増大,そして文庫戦争の激化という現象は,小説需要の急速な拡大と,小説,文学に対する読者の欲求の多様化を招来し,結局,文学という概念の拡散化をもたらしたのである。純文学雑誌の一つ『文藝』は月刊から季刊となり,他の『群像』『文学界』『新潮』なども発行部数は数千部単位に低迷,看板雑誌ということでようやく命脈を保っているのが実情といえる。代わって新たに登場した雑誌『すばる』『野性時代』等には従来の純文学作家と大衆文学作家とが等しく作品を載せている。既に読者の側では,両者の区別を必要とはしていないのである。もっとも,それが作家の怠惰に起因するのか,読者の堕落に由来するのか,はたまた文学というものの歴史的必然であるのか,結論は出ていない。また,増大する出版物の中で相対的な低迷はともかく,絶対量としての純文学の総売上部数はそれほど変わっていないとする意見もある。
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純文学【じゅんぶんがく】
通俗文学とか大衆文学と呼ばれているものに対し,純粋な芸術的感動を伝えようとするものをいう。日本の近代文学独特の用語。現象的には写実的な自然主義文学の作品によって代表され,作家自身のきびしい人生体験に裏打ちされた私(わたくし)小説,心境小説をさしている場合が多い。
→関連項目中間小説|通俗小説|文芸倶楽部
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知恵蔵
「純文学」の解説
純文学
「純文学対大衆文学」という対立図式は、日本近代文学成立期以来、厳然と存在してきたと考えがちだが、純文学=高級な小説、なる前提のもと、その対極に大衆文学を置いて文壇や出版界を眺めるスタンスが定着するのは、第2次世界大戦後、ことに、平野謙の問題提起を受けて純文学論争が巻き起こった1960年代初めのことである(鈴木貞美『日本の「文学」を考える』、94年)。平野謙はこの問題の淵源を、横光利一が新聞小説を書き、その一方で『純粋小説論』(35年)を発表した、昭和初期に置いた。横光の少し前に、大衆文学の興隆ぶりを目にして、川端康成もまた純文学の危機を口にしている。むろんそれ以前にも、ハイブラウな小説とロウブラウな小説とを区分けする志向はあり、であればこの問題は、メディア(大衆小説にとっては新聞連載こそが、最も望ましい発表形態であった)と読者大衆との関係において、改めて、再定義されねばならない。
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じゅんぶんがく【純文学】
大衆文学が読者の慰安を目的とし,興味本位に書かれるのに対して,作者の芸術的感興に基づく純粋な態度で書かれた小説が純文学と呼ばれる。日本の近代文学特有の名称で,明治末期に自然主義文学が起こる前後から知識人の文学愛好者のあいだに,作者の心境や現実体験の告白に関心を持つ風潮が生じた。この読者層に呼応するかたちで私(わたくし)小説が書かれ,それが大正,昭和前期の文壇小説の主流をなした。こうしたせまい純文学の流れに拮抗して,横光利一は〈純文学にして通俗小説〉を提唱し,それまでの純文学が排していた偶然性を重視し,物語的伝統と近代小説の知的高度さを併合させようとして〈純粋小説論〉(1935)を展開した。
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