総社(読み)ソウジャ

デジタル大辞泉 「総社」の意味・読み・例文・類語

そうじゃ【総社】[地名]

岡山県南部の市。備中びっちゅう総社宮の門前町として発展。備中売薬と織物業で知られたが、現在は食品金属工業が盛ん。作山つくりやま古墳雪舟の修行した宝福寺がある。人口6.6万(2010)。

そう‐じゃ【総社/×惣社】

《「そうしゃ」とも》いくつかの神社祭神を1か所にまとめて祭った神社。平安時代参拝祭祀さいし便宜のために、国司が国内諸社の神霊国府近く勧請かんじょうしたのが起源。郡・郷などの総社もある。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「総社」の解説

総社
そうじや

[現在地名]津山市総社

美作国衙跡に近い亀甲きこう山東麓に鎮座する美作国の総社で、総社(惣社)大明神とも号した。旧県社で、旧神饌幣帛料供進神社。祭神は大己貴命。相殿に美作一宮の中山なかやま神社(祭神鏡作命)、同二宮高野たかの神社草葺不合命)を祀る。境内末社に天満神社(祭神菅原道真)・稲荷神社(稲倉魂)・南神社(素盞嗚命ほか)御崎神社(稲倉魂)がある。元禄(一六八八―一七〇四)頃には、末社に少彦名社・八幡社・客社・土岐尾神社・倉懸神社・桜谷神社・高尾神社・岩清水神社があった。このうち客社は美作の諸社から集まった幣を納めたところからその名があり、岩清水神社は清水のにじみ出る岩を祀り、総社の神事には必ずこの清水を用いたという(作陽誌)

当社の鎮座年代は不詳。一説には欽明天皇二五年ともいうが(総社旧記)、その根拠は不詳で、室町時代末期までの沿革は明らかでない。

総社
そうじや

[現在地名]総社市総社

吉備線東総社駅前にある。備中国内の神社三二四社の祭神を合祀する旧県社。「備中国総社記」によれば国中官社一八、田社(国司の神名帳記載社)二八六、境内末社一二、皇太神八。当社創建以前に「日本書紀」応神紀にみえる御友別の子孫が当地に移住し、国造となったものが沼田神社を建て県の総社とし、大化後に同地に備中国総社が創建されたという。惣社(総社)とは、国司が管内の諸社に巡拝し幣帛を奉る(これを神拝といった)煩を省くため、平安後期に至りこれを国衙近くに合祀したものというのが通説だが、惣社の惣とは一国の神事を惣領・惣宰することであり、惣社の役割はその神拝の中核となることにあったとし、合祀の契機は神拝の煩を省くためというより、国衙神事の執行に当たり管内諸神の合祀がはかられた結果とみる説もある。

総社
そうじや

[現在地名]南国市国分

国分こくぶん寺境内、仁王門の西北に鎮座する。土佐国式内社二一社を勧請して祀る。旧郷社。もと、国府の西側、すなわち現県道後免―領石線の西側、字ソウシャアトに鎮座していた。国司は国内の神社を巡拝する任務を帯びていたが、政務多端・交通不便など制約があるため、これを勧請して一社とし国府の近くに社殿を建立し祀ったのが総社といわれる。天正一六年(一五八八)の廿枝郷衙府中国分地検帳には「惣社神体アリ」とみえ、五間と二間の横殿、二間と四間の舞殿のあったことが知られる。

総社
そうじや

[現在地名]七尾市古府町

能登国の総社で、能登国内の式内社四三座の神々を祀る。旧村社。「三州式内等旧社記」に「称惣社明神、或云惣座宮、往古国府神拝之惣社也」とみえる。国司は任地の官社や「延喜式」神名帳に記載された社を巡拝するのが職務の一つであったが、平安中期から末期にかけて管内の官社の神霊を国衙に近い地に勧請し、国司の管内の巡拝の便をはかった社を総社とよんだといわれる。当社の御座石は、大穴持命が当国を平定したのち悪鬼猛獣奸鳥などの霊を鎮めた霊石と伝え、その故事で気多神社平国祭の折、神輿を据えて受渡しの儀式を行う。

総社
そうしや

[現在地名]豊川市白鳥町

白鳥しろとり集落の北部にあり、三河国府の国衙の一部にあったものとみられている。元来総社は国内の諸社を一所に勧請して、毎月一日国司が礼拝するため、国府庁の近くに設けられたものである。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)五月の項に、源頼朝が東海道諸国の守護に命じて総社を修造させようとしたとあるが、三河の総社はこの頃復興されたものか、あるいは創建以来今の地に鎮座していたのかは不詳。

総社
そうじや

[現在地名]安佐北区可部町四日市

現在は浄土真宗本願寺派徳行とくぎよう寺の境内に鎮座する小社で、素盞嗚尊を祀るが、付近に総社免・神田・神立・神楽田・土器田・馬場などの地名があり、かつては真言宗であった徳行寺を別当寺とする大社であったことが推察される(芸藩通志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典 第2版 「総社」の意味・わかりやすい解説

そうじゃ【総社】

多くの神社の祭神を,一所に勧請(かんじよう)しまつった神社のこと。古代国郡制の国で,その国内神社祭神を一所に勧請し,まつった諸国総社のほか,寺院内に設けられた総社,また有力氏族の邸内に設けられた総社などがある。その創立年代,またその理由,ともに不詳であるが,《中右記》《明月記》《百練抄》などにその名称がみえはじめることから,古代末期の創立とみられる。諸国の総社はそのほとんどが,国衙に近い地に存在することから,古代律令制時代には国司は国内の国幣社ほかいくつかの神社をまつる義務をもっていたが,律令体制のゆるみとともに,その国内各社に行かず,便宜国衙に近い所に諸社をあわせ勧請し,そこで祭祀したことに始まるとする説と,逆に不安な世情のなかで,諸社にあわせ祈願するため設けたとみる説などがある。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「総社」の解説

総社
そうじゃ

惣社とも。多くの神社の祭神を1カ所に勧請して祭った神社の称。一般には一国の総社をいう。一国の総社は,国司の巡拝・奉幣の便宜のため一宮・二宮以下国内の諸神を集めて祭ったのに始まるといわれる。総社は国府の近くにおかれ,国司の着任儀礼や朔幣,国内神名帳の奉読などの国衙(こくが)神事を行い,在庁官人・国人層結集の精神的支柱としての役割を担った。神領・神官の進退権は国衙在庁がもち,国衙在庁機構の一環を構成するとともに国鎮守とされた。初見は「時範記」康和元年(1099)2月15日条の因幡国の総社で,11世紀後半には総社制の実体が備わっていたと考えられる。ほかに一郡・一郷の総社や寺院内の総社,有力氏族邸内の総社などがある。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「総社」の意味・わかりやすい解説

総社
そうじゃ

群馬県中東部,前橋市中西部の旧町域。1889年町制。1954年前橋市に編入。榛名山東裾野の末端にあり,古くから上野国の中心をなす。中世末期には総社城が築かれ,江戸時代は三国街道脇往還の街村。農業および商業を中心とした地区で,こけしの生産地。史跡が多く,宝塔山古墳,二子山古墳(ともに国指定史跡)などの古墳群,山王廃寺跡(国指定史跡)などがある。

総社
そうじゃ

各所の神社の祭神を一ヵ所に勧請し,合祀した神社。平安時代に始る。多くは一国の総社をいうが,一郡,一郷の総社もある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典内の総社の言及

【神道】より

… 国司は任国に着くと,まず国内の主要な神社に参詣し,その後政務を執るように定められているが,その参拝の順序が固定して一宮(いちのみや),二宮,三宮の呼称がおこり,それが国内の神社の序列をあらわすことになった。さらに平安時代の末になると,国内の数々の神社を一社に統合して奉幣を簡略にすることもはじまり,そうした神社を総社(そうじや)と呼んだ。同じころ,朝廷でも重要な祈願に際して,畿内を中心に主要な神社を選んで奉幣することがはじまり,二十二社(にじゆうにしや)の名が固定した。…

※「総社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報