犯人本人だけでなくその一定範囲の親族を犯罪への関与の有無にかかわらず罪に問うことをいう。官吏が職務上において犯した罪について,上司や同僚が連帯して責を問われることを連坐というのと似て異なる。中国の唐律においては,謀反・大逆について,祖父,父母,妻妾,子および子の妻妾,孫,兄弟姉妹,伯父叔父,兄弟の子に及ぶ縁坐(死刑,没官,流刑など)が規定されているほか,謀叛,蠱毒(こどく)(魔法的な毒物)の製造所持,戦陣における敵との内通,一家3人以上の殺害および残虐な殺人について,ある程度の縁坐が規定されている。
執筆者:滋賀 秀三
縁坐は適用される犯罪の種類,および科される親族の範囲の二つの要素から成り立っており,どのような犯罪が重い罪とみなされ,また現実の社会生活においてどのような親族が第一に責任を追及されるべきかは,それぞれの時代によって異なるため,それによって縁坐も時代的に変化する。
縁坐はすでに《魏志倭人伝》にそのことがみえ,律では謀反,大逆等の国家的犯罪人の父子,祖孫兄弟に没官,遠流が規定されており,また御成敗式目では,父祖の敵を殺した子の父,子の殺害意志を予知していた父,さらに謀反殺害人等の妻など,縁坐をごく限られた範囲に規定していた。しかしこれらの公権力の縁坐法は,逆に実社会におけるより過酷な慣習法の存在の反映であると思われる。たとえば,瓜一つのことからわが幼児を義絶した父親が,やがてその子が成人し盗みの罪で捕らえられたとき,父親の縁坐を求めんとした検非違使に対して,かつて近隣の人々の判を得て作成しておいた義絶状を示してその難を逃れたという《今昔物語集》所収の説話などは,久しく会うことのなかった父親に対してさえ窃盗の罪によって縁坐が科せられていたことを示している。また鎌倉中期の1253年(建長5)幕府が諸国荘園の地頭代にあてた刑事法規には,殺害,刃傷はもちろん窃盗や牛馬盗人に対しても,父母妻子から親類所従に至るまで縁坐が科されていた荘園内の現実が物語られている。有名な75年(建治1)の高野山領阿氐川荘百姓等申状にみられる百姓の妻子に対する残酷な地頭の制裁も,その一つであった。戦国時代には縁坐法が厳重に行われたというのが通説化しているが,戦国家法にみるかぎり,そのような傾向は認められず,たとえば伊達氏の《塵芥集》の殺人犯の縁坐規定は御成敗式目の直訳にすぎず,六角氏式目でも御成敗式目の規定を準用する旨が定められているだけである。要するに中世以前の社会では撫民的な見地から縁坐を限定しようとする公法的立場と,現実に行われた厳しい縁坐慣習が対立したままほぼ一貫していたものと思われる。
近世では儒教的見地から,主殺し,親殺しなどの重罪については一族すべて処刑されるなど公法上にも広範な縁坐が行われたが,しだいにこれに対する反省がおこり,将軍徳川吉宗の1724年(享保9),42年(寛保2)の立法によって,親殺し,主殺し以外の死罪人の子への縁坐をやめたが,武士に対しては適用されなかった。明治以後の刑法で縁坐が消滅したことはいうまでもない。
→連座(坐)
執筆者:笠松 宏至
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
親族の犯罪につき、関係ないにもかかわらず、刑事責任を負わされること。縁坐の語および制度は、中国で古くからあったが、世人を威嚇して犯罪を予防する目的をもった制度であった。日本の上世の律(大宝(たいほう)律、養老(ようろう)律)の縁坐の制は唐律に倣ったもので、大逆、謀叛(むほん)(のちに私鋳銭(しちゅうせん)〈民間でひそかに鋳造した銭貨〉が加えられた)について、情(じょう)を知らない犯罪人の近親を処罰した。鎌倉幕府法でも、夫が謀叛などの重罪を犯したときは妻も処罰されるというように、縁坐の制があったが、これを制限しようとする傾向が認められる。室町時代、とくにその末期から戦国時代にかけては、縁坐の制は広く行われるようになったが、ことに親の科(とが)を子にかける分国が多かった。江戸時代もその初期には、戦国時代法の影響を受けて、相当広い範囲にわたって縁坐の制を認めた場合がある。たとえば、主(しゅ)殺しのような重罪では、父母兄弟一族までも処罰したことがある。享保(きょうほう)9年(1724)の法令は、縁坐を主殺し、親殺し、および格別重い科の者の子に限っている。公事方御定書(くじかたおさだめがき)は元文(げんぶん)2年(1737)の法令によって、その範囲を主殺しおよび親殺しの罪人の子にとどめた。武士の場合にはこれ以後でも依然広範囲に縁坐制が適用された。松平定信(さだのぶ)(老中在任1787~93)の時代およびその後も武士の縁坐法の改正が幕議に上ったが、決定をみなかった。明治になってからも縁坐の制は存し、それが廃止されたのは明治15年(1882)施行の旧刑法によってである。
[石井良助]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
特定の犯罪に関し,犯罪人の親族に連帯責任を負わせる制度。律では謀反(むへん)・大逆(たいぎゃく)・謀叛(むほん)に科し,謀反・大逆の場合は父子は没官(もっかん)されて官戸に,祖孫兄弟は遠流(おんる)とされた。武家法では殺害・刃傷・山賊海賊などにも科されたが,当座の口論に発する犯罪には適用しないなど,適用範囲をせばめる傾向があった。戦国期にはさらに広範な犯罪に父子・妻子の縁坐が適用されたが,近世は庶民を対象に犯罪の範囲が主殺し・親殺しに限定され,近代刑法典で全廃された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…離島に送り,島民と雑居して生活させる刑で,《公事方御定書》(1742)以後制度が整った。武士,僧侶神職,庶民など身分を問わず適用され,武士の子の縁坐(えんざ),寺の住持の女犯(によぼん),博奕(ばくち)の主犯,幼年者の殺人や放火などに科された。死刑につぐ重刑とされ,田畑家屋敷家財を闕所(けつしよ)(没収)し,刑期は無期で,赦(しや)によって免ぜられたが,《赦律》(1862)によれば,原則として29年以上の経過が必要であった。…
…逆罪には旧悪免除の適用はなく,赦(しや)も行われない。一方で縁坐の制を最後まで保持したのが,主殺・親殺であった。主従・親子の関係は,幕藩社会における基本秩序として,刑法上も厚く保護されたのである。…
…社会の集団的な制裁も失われず,鋸挽(のこぎりびき),放火犯の放火場所引廻し等が行われた。責任は個人にとどまらず,血縁による他人の犯罪に関する連帯責任である縁坐,その他の関係による連坐も認められたが,将軍吉宗以後,縁坐は武士を除き事実上廃止された。また刑罰は死後にも科され,死骸塩詰のうえ,磔や情死者に対する葬儀禁止の刑等があった。…
…門を閉ざすが,潜門(くぐりもん)から目だたないように出入りはできた。比較的軽い刑罰ないし懲戒処分として,職務上の失策をとがめたり,あるいは親族・家臣の犯罪に縁坐・連坐せしめる場合などに用いた。自発的にも行われ,親族中一定範囲の者または家臣が処罰を受けると,その刑種によっては差控伺(うかがい)を上司に提出し,慎んで指示を待った。…
…義絶は中世では不孝と同じく祖父母,父母の子孫に対する親子・祖孫関係の断絶を意味したが,不孝が純然たる同族内の行為にとどまるのに対して,義絶には,親子・祖孫関係の断絶という行為に加えて,その事実を族外世間に公示して,承認を得る手続(義絶状の作成公表)が求められた。けだし義絶は,将来起こりうべき子孫の犯罪の縁坐その他後難を避ける行為であった。しかし14世紀ごろになると,不孝は単なる族内行為ではすまされず,対外的公示が求められるようになって,義絶に近づき,ここに不孝と義絶はほぼ同義の時期を迎えた。…
…
[日本]
すでに古代の律令には,四等官の一人に職務上の罪があったとき,他の官吏もこれに連なって従犯の罪に問われることが規定されており,これを〈公坐相連〉といった。ところで,犯人本人だけでなく,犯人の一定範囲の親族にその犯罪責任を及ぼす〈縁坐〉は,より古く《魏志倭人伝》に見え,それが律令や鎌倉幕府法などにおいて,刑罰の対象範囲を決める重要事項として立法されている。これに比べ,連坐は主従関係,家主と同居人の関係などの連坐の有無を除いて,法的にはほとんど問題となっていない。…
※「縁坐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新