朝日日本歴史人物事典 「織田万」の解説
織田万
生年:明治1.7.4(1868.8.21)
明治から昭和前期の行政法学者。佐賀藩士の家に生まれた。母は和加子。明治25(1892)年帝大法科卒。西園寺公望に,新設の京都帝大スタッフとして嘱望され,28~32年仏独に留学,帰国して京都帝大教授となり,行政法を担当。京都法政学校(立命館大の前身)の設立にも尽力。台湾総督府民政長官後藤新平の依頼で10年の歳月を費やして旧慣調査を行い,成果を3000ページにおよぶ大著『清国行政法』にまとめた。坂野正高は同書を「清代中国の森羅万象が法のレンズを通じて映し出されている」と評した。台湾研究には中国本土の研究が不可欠であるとして,岡松参太郎,狩野直喜と大陸に調査旅行。大正10(1921)~昭和5(1930)年,ハーグ常設国際司法裁判所判事となる。現在の小田滋判事に「あなたもあのオダさんの一族ですか」と尋ねてくる人がいるという。昭和6(1931)年貴族院勅選議員,立命館大名誉総長となる。枢密顧問官になれなかったのは,天皇機関説を支持したことと,リベラルな政治的姿勢によるという。20年5月25日の東京空襲で夫人と共に死去した。<著作>『行政法講義』『法と人』『日本行政法原理(仏文)』
(長尾龍一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報