織田幹雄(読み)オダミキオ

デジタル大辞泉 「織田幹雄」の意味・読み・例文・類語

おだ‐みきお〔‐みきを〕【織田幹雄】

[1907~1931]陸上競技選手。広島の生まれ。昭和3年(1928)アムステルダムオリンピック三段跳び優勝し、日本人初の金メダルを獲得。昭和6年(1931)には、15メートル58の三段跳び世界新記録を樹立した。

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20世紀日本人名事典 「織田幹雄」の解説

織田 幹雄
オダ ミキオ

昭和・平成期の三段跳び選手,スポーツ評論家 日本陸上競技連盟名誉会長。



生年
明治38(1905)年3月30日

没年
平成10(1998)年12月2日

出生地
広島県安芸郡海田町

学歴〔年〕
早稲田大学商学部卒

主な受賞名〔年〕
紫綬褒章〔昭和34年〕,国際オリンピック委員会オリンピック功労章銀章〔昭和54年〕,早稲田大学スポーツ功労賞〔昭和57年〕,文化功労者〔昭和63年〕,広島市名誉市民〔平成1年〕,ジーフェルト賞〔平成3年〕

経歴
パリ五輪、アムステルダム五輪、ロス五輪と3回連続して五輪に出場し、昭和3年のアムステルダム五輪では15メートル21をマークし、金メダルを獲得。日本人初の金メダリストとなった。6年15メートル58の世界記録をマーク。走り幅跳び走り高跳びなどでも活躍。大学卒業後、朝日新聞運動部記者を経て、50年まで早稲田大学教授を務め、日本陸連、国際陸連の要職歴任した。日本陸上界育ての親であり、“三段跳び”という言葉を考案するなど博識の理論家としても知られた。ヘルシンキ五輪、東京五輪の陸上監督、JOC委員なども務めた。平成6年広島広域公園陸上競技場に記念碑が建てられた。12年神奈川県藤沢市の自宅で、アムステルダム五輪当時の様子を綴った「Diary of Olympic 1928」と題された日記が見つかる。著書に「跳躍一路」「世界記録を目ざして」「オリンピック物語」「東京オリンピック」など。

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百科事典マイペディア 「織田幹雄」の意味・わかりやすい解説

織田幹雄【おだみきお】

陸上競技選手。広島県出身。早稲田大学卒業。1923年,大阪で開催された第6回極東選手権大会に出場して,走幅跳び三段跳びで優勝,脚光を浴びる。1924年パリオリンピックで三段跳び6位,1928年のアムステルダムオリンピックで日本陸上選手として初優勝(15.21m)し,日本最初の金メダリストとなる。1931年には15.58mの当時の世界新記録を樹立。朝日新聞社に入社後も後進の指導に当たる。1979年,IOC(国際オリンピック委員会)のオリンピック功労賞を受賞。1988年文化功労者。《陸上競技わが人生》(1991年)その他の著書がある。
→関連項目田島直人南部忠平

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改訂新版 世界大百科事典 「織田幹雄」の意味・わかりやすい解説

織田幹雄 (おだみきお)
生没年:1905-98(明治38-平成10)

陸上競技選手。広島県出身。広島一中から広島高等師範学校に進み,1923年大阪で開催の第6回極東選手権競技大会に初めて日本代表選手として出場,走幅跳びと三段跳びに優勝して脚光を浴びる。24年パリで開催の第8回オリンピック大会で,三段跳び6位入賞(14m35),日本の陸上選手で最初の入賞者となる。25年早稲田大学入学,28年アムステルダムで開催の第9回オリンピック大会で三段跳びに優勝(15m21),日本最初の金メダリストになる。31年早大卒業,朝日新聞社に入社,その年三段跳びに15m58という当時の世界新記録を作った。その後勤務のかたわら後進の指導に当たり,早大教授,国際陸上競技連盟技術委員などを歴任,79年IOC(国際オリンピック委員会)のオリンピック功労章を受章した。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「織田幹雄」の意味・わかりやすい解説

織田幹雄
おだみきお

[生]1905.3.30. 広島
[没]1998.12.2. 神奈川,鎌倉
陸上競技選手。1931年早稲田大学卒業。『朝日新聞』記者を経て早稲田大学教授を務めた。日本陸上競技連盟,国際陸上競技連盟などの要職を歴任,のち日本陸連名誉会長。1924年パリ・オリンピック競技大会で三段跳び 6位入賞,1928年アムステルダム大会に出場し,同種目で優勝,日本人初のオリンピック金メダリストになった。1932年のロサンゼルス大会と合わせてオリンピック 3大会連続参加。1964年の東京オリンピック競技大会では陸上競技チーム総監督を務めた。1927年ヘルムズ賞受賞。1988年文化功労者。主著『オリンピック物語』(1948),『21世紀への遺言』(1975)など。(→アムステルダム・オリンピック競技大会ロサンゼルス・オリンピック競技大会

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「織田幹雄」の意味・わかりやすい解説

織田幹雄
おだみきお
(1905―1998)

日本の代表的陸上競技選手。広島に生まれ、早稲田(わせだ)大学卒業。在学時代、南部忠平、沖田芳夫(よしお)らとともに早大陸上競技部の黄金時代を築いた。1924年(大正13)走幅跳びで7.04メートルを跳び、日本初の7メートル台を記録した。同年のオリンピック・パリ大会三段跳びで6位入賞、28年(昭和3)のオリンピック・アムステルダム大会三段跳びで15.21メートルで日本人として初めてオリンピックの金メダルを得た。31年には15.58メートルの当時世界新記録をつくり、三段跳び王国日本の先駆者となった。専門外の投擲(とうてき)、短距離にも強く、24年から3年間十種競技の日本記録(6062点)を保持。朝日新聞本社運動部長退任後、早稲田大学教授、国際陸連技術委員を歴任。東京オリンピックでは陸上競技の選手強化委員長を務めた。日本陸上競技連盟名誉会長。88年文化功労者。

[石井恒男]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「織田幹雄」の解説

織田幹雄 おだ-みきお

1905-1998 昭和-平成時代の陸上競技選手,指導者。
明治38年3月30日生まれ。大正13年パリ五輪の三段跳びで6位。昭和3年アムステルダム五輪三段跳びで15m21cmをとび,日本人初の金メダル。6年15m58cmの世界新記録を樹立。朝日新聞運動部長をへて,早大教授。東京五輪の陸上総監督をつとめ,日本陸連などの要職を歴任した。63年文化功労者。平成10年12月2日死去。93歳。広島県出身。早大卒。

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367日誕生日大事典 「織田幹雄」の解説

織田 幹雄 (おだ みきお)

生年月日:1905年3月30日
昭和時代;平成時代のスポーツ評論家;元・三段跳び選手
1998年没

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世界大百科事典(旧版)内の織田幹雄の言及

【オリンピック】より

…女子水泳はすでにストックホルム大会から行われていたが,女子陸上競技が採用されたことで,女子スポーツの将来に新しい展望が開かれた。この大会で日本の織田幹雄が三段跳び,鶴田義行が200m平泳ぎでそれぞれ優勝して日本で初めての金メダリストになり,また女子陸上800mでは人見絹枝が2位に入賞した。32年,ロサンゼルス(アメリカ)で開かれた第10回大会では,オリンピック史上初めて10万人収容の大競技場が建設され,36年の第11回大会に提供されたベルリン競技場の施設とともに,大会施設の巨大化に端を開いた。…

【トロフィー】より

…トロフィーも,大正中期ごろから工芸家らによって習作的に作られていたらしい。そのほか第2次大戦前のものとしては,アムステルダムでの第9回オリンピック大会(1928)での織田幹雄の三段跳びの優勝を記念して,織田のユニフォーム姿の立像のトロフィー(彫像・朝倉文夫,鋳造・日名子実三)が製作されたのが有名である。 戦後,1952年から進駐軍向けにトロフィーの製造を業として開始したが,やがてボウリングやゴルフのブームとともに,トロフィーの需要が急増し,製造者も続出した。…

【陸上競技】より

…13年には第1回の日本陸上競技選手権大会が開かれた。 1924年のパリ・オリンピック大会では織田幹雄が三段跳びで6位に初入賞。25年には日本陸上競技連盟が創設され,28年のアムステルダム・オリンピック大会では織田が三段跳びで待望の金メダルを獲得,陸上競技は黄金時代に入っていった。…

※「織田幹雄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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