美濃地方で最古の古墳は南濃地域の
美濃地方の国造には、諸史料に牟義都国造のほかに、本巣国造・額田国造・三野前国造・三野後国造・美濃国造(三野国造)などがみえるが、本巣国造=美濃国造=三野前国造と推測される。額田国造は、その所在が現在の滋賀県東部地域ないし岐阜県西濃地域の中・北部であろうが、美濃地方であったとする確証がいま一つ不足している。三野後国造は物部氏による後の造作であり、国造としての実態はなかったとする推測もある。乙巳の変、いわゆる大化改新後ほどなく、新政府が尾張と美濃とに神に供する幣物を課したのは、七世紀半ばの両地方が大和朝廷勢力の忠実な服属領域の東端に位置していたことを物語るものといえよう。
天武天皇元年六月に勃発した壬申の乱で、大海人皇子は「美濃国安八磨郡」(正しくは三野国味蜂間評)の
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岐阜県の南部を占める旧国名。東山道8か国の一つ。東は信濃(しなの)国、西は近江(おうみ)国、南は三河(みかわ)国・尾張(おわり)国・伊勢(いせ)国、北は越前(えちぜん)国・飛騨(ひだ)国に接する。面積約6461平方キロメートル。『和名抄(わみょうしょう)』には多芸(たぎ)、石津(いしづ)、不破(ふわ)、池田、安八(あはち)、大野、本巣(もとす)、席田(むしろだ)、方県(かたがた)、厚見(あつみ)、各務(かがみ)、山県(やまがた)、武芸(むげ)(武儀(むぎ))、群上、賀茂(かも)(加茂)、可児(かに)、土岐(とき)、恵奈(えな)(恵那)の18郡を載せるが、天正(てんしょう)年間(1573~1592)に海西(かいさい)、中嶋(なかしま)、羽栗(はぐり)の3郡が増え21郡となった。木曽(きそ)川、長良(ながら)川、揖斐(いび)川の3川はそれぞれ美濃を貫流し、南西部低地に集まって伊勢湾に注ぐ。南西部の平野以外はほとんど山地で、東部木曽川以南は広大な丘陵地帯である。国名は三野、御野などとも書かれ、濃州(のうしゅう)とも称した。由来は青野、賀茂野(または大野)、各務(かがみ)野の三つの野から三野という説、真野の名義から転化したとする説、一方が山地でわずかな高低のある土地をいうとする説などあって、さだかでない。「美濃」という用字が公定したのは8世紀初めとされる。
672年(天武天皇1)壬申(じんしん)の乱に大海人(おおあま)皇子は美濃を拠点として挙兵し、村国男依(むらくにのおより)ら地元豪族が活躍した。国の等級は『延喜式(えんぎしき)』では上国(じょうこく)。国府は不破郡の府中(垂井(たるい)町)に置かれた。東山道は近江から入り信濃へ抜けるが、美濃国内に八駅が整備された。不破の関は三関の一つとして設けられた。庸調(ようちょう)は広絹、紙、土器など特産物としての来歴を示すものが多い。荘園(しょうえん)は東大寺領の茜部(あかなべ)荘や大井荘のほか摂関家の多芸荘や栗田(くるすだ)荘なども成立した。源満仲(みつなか)やその子頼光(よりみつ)が美濃守(かみ)になり、その流れをくむ光衡(みつひら)は土岐氏をとなえたが、子孫は美濃源氏として栄え、禅宗に帰依(きえ)した。1542年(天文11)土岐頼芸は斎藤道三(どうさん)に追われ、11代200余年にわたった守護職を失った。道三は稲葉山(岐阜市)を居城としたが、孫龍興(たつおき)の代に織田信長に落とされ、信長が清洲(きよす)から移った。
1600年(慶長5)関ヶ原の戦いは天下分け目の戦いであったが、美濃は古来東西勢力の争覇地で、壬申の乱をはじめ、1181年(養和1)平重衡(しげひら)・通盛(みちもり)らが源行家(ゆきいえ)を破った墨俣(すのまた)合戦、1221年(承久3)鎌倉幕府軍の西上を阻もうとして京軍が敗れた木曽河畔合戦、1338年(延元3・暦応1)土岐頼遠(よりとお)(足利(あしかが)方)が桔梗一揆(ききょういっき)を率いて鎮守府将軍北畠顕家(きたばたけあきいえ)の軍に立ち向かった青野ヶ原合戦など、いずれも天下を二分する戦いであった。
近世に入り徳川氏は美濃を重視し、親藩尾張領のほか大垣、加納(かのう)、郡上(ぐじょう)(八幡(はちまん))、岩村、苗木(なえぎ)、高富、高須の7藩と70余の旗本に分治させ、その間に幕領を配置した。1616年(元和2)「美濃国村高領知改帳」によれば総高58万9396石余、村数1042であった。南西部地域は水害が多く、輪中(わじゅう)が形成されていったが、1755年(宝暦5)幕命によって薩摩(さつま)藩が行った宝暦治水(ほうれきちすい)工事(木曽・長良・揖斐川)は、80余人の犠牲と270万両の出費によって竣工(しゅんこう)した。明治維新には今尾と野村(大垣新田)を藩列に加え、9藩をそれぞれ県とし、旧幕領と旧旗本領とをあわせた笠松(かさまつ)県を含めて10県となったが、1871年(明治4)まとめて岐阜県となった。76年岐阜県は飛騨を編入し、ほぼ現在の県域となった。
[村瀬円良]
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東山道の国。現在の岐阜県南部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では多芸(たき)・石津・安八(あはちま)・不破(ふわ)・池田・大野・本巣・席田(むしろだ)・方県(かたがた)・厚見・各務(かがみ)・山県(やまがた)・武芸(むげ)・郡上(ぐじょう)・賀茂・可児(かに)・土岐(とき)・恵奈(えな)の18郡からなる。国府は不破郡(現,垂井町),国分寺も不破郡(現,大垣市),国分尼寺も不破郡(現,垂井町)におかれた。一宮は南宮神社(現,垂井町)。「和名抄」所載田数は1万4823町余。「延喜式」では調として布帛のほか甕・壺など多くの焼物があり,中男作物として紙・漆など。国名表記は7世紀には三野,大宝律令施行頃から御野,和銅初年から美濃とされた。令制三関の一つ不破関を管理する関国で,789年(延暦8)に三関が廃止されるまでは大国であったと推定される。平安後期には美濃源氏が勢力を張った。南北朝期以降,美濃源氏の土岐氏が守護となる。江戸時代は多くの藩が成立・消滅し,旗本領もほぼ70家あり,幕領も存在した。1868年(明治元)幕領は笠松県となる。71年の廃藩置県の後,岐阜県に統合された。
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…《掌中歴》には,尾張国の田積1万1940町とあるが,8世紀の中ごろには木曾川の大洪水による多大の被害があったことが記録されている。木曾川の河道問題は,美濃国の利害とも密接に関連していたから,両者の対立も時には深刻であった。9世紀の中ごろには,美濃国の郡司たちが,700人の武装農民をひきいて尾張側の工事現場を襲撃し,尾張側に死傷者が出たという事件も起こっている。…
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