精選版 日本国語大辞典 「義太夫節」の意味・読み・例文・類語
ぎだゆう‐ぶし ギダイフ‥【義太夫節】
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浄瑠璃(じょうるり)の一種目。竹本義太夫(後の竹本筑後掾(ちくごのじょう))が始めたので「義太夫節」というが、大阪では単に「浄瑠璃」とよぶ。人形芝居(いまの文楽(ぶんらく))の音楽で、「色(いろ)」「詞(ことば)」「地合(じあい)」「フシ」という4種類の語り方を用いて台本(丸本(まるほん)という)の内容を表現していく。しかしこれらの技法は、人形の発達や操作技術の改良、あるいは三味線の演奏技術と絡み合って多様な変化をしたので、曲節の推移に重点を置いて義太夫節の展開を眺めてみる。
〔1〕色の時代 1684年(貞享1)竹本義太夫は大坂道頓堀(どうとんぼり)に竹本座を創立した。このときをもって、義太夫節の成立とする。義太夫は井上播磨掾(いのうえはりまのじょう)の曲風を慕い、また宇治加賀掾(うじかがのじょう)の影響も受け、いわゆる古浄瑠璃を集大成した。すなわち、「三重」「オクリ」など基本的旋律の使用法を規定して楽曲の体裁を整え、音楽形式の基礎を固めた。しかし、三味線の技術は未発達なために曲節は固定せず、色中心にならざるをえなかった。色というのは、台詞(せりふ)とも旋律とも区別しかねる語り方で、演者の裁量によりどのように語ってもよいのである。また人形は、「突っ込み」とか「差し込み」といった一人遣いの時代で、からくりも登場する。小さい人形とはいえ、多彩な技術が駆使されて、近松門左衛門作『曽根崎(そねざき)心中』(1703)や『冥途の飛脚(めいどのひきゃく)』(1711)が上演された。一方、義太夫の門から脱した豊竹若太夫(とよたけわかたゆう)は、豊竹座を創立した。『今昔操年代記(いまむかしあやつりねんだいき)』(1727刊)によると、文弥節(ぶんやぶし)か説経のように「風義かはりたる音曲」であったが、その語り口も義太夫節の一大主流となり、紀海音(きのかいおん)の作品や『北条時頼記(ほうじょうじらいき)』(1726)に特色を発揮した。「大音」の義太夫に対して「美音」の若太夫は、より旋律的な曲節が得意であったと推測される。義太夫の後継者となった竹本政太夫(まさたゆう)(後の竹本播磨少掾(はりまのしょうじょう))は、近松作『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』(1715)や竹田出雲(いずも)作『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』(1734)を語った。しかし『ひらかな盛衰記』(1739)を例にすると、1人で五段構成のうちの大序(だいじょ)、二段目切(きり)、三段目切、四段目切を受け持っている。現代の曲節では、1人で語りこなせるものではない。とりもなおさず、当時はごく単純な語り方であった証拠となろう。
播磨少掾の晩年には、三味線もいくらか発達し、三の絃(いと)の勘所(かんどころ)は12か所(現在は16)に増えていた。
〔2〕詞の時代 色が主流をなしていた1730年代、『芦屋道満大内鑑』の上演時に人形の左手と足に介添(かいぞ)えがついた。「三人懸(がか)り」の始まりという。やがて人形の目や口も動くように考案され、『源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)』(1749)では、斎藤別当実盛(さねもり)の人形が「人の如(ごと)く見ゆる」(浄瑠璃譜)と評されるまでに進歩した。いまや人形には、人と同じ表現法、つまり台詞の技術が必要である。これを詞とよぶ。詞は単なる会話や独白ばかりでなく、泣き、笑い、咳(せき)などにも写実的な技巧が凝らされた。いきおい台本も現代の戯曲に近くなり、台詞と地(ト書)の部分が明瞭(めいりょう)に区分され始める。竹田出雲ら合作の『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』(1746)、『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』(1747)、『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』(1748)などは、そうした要求を満たす作品である。しかも出雲らは、前時代の近松や海音とは違って、国法との対決というスケールの大きなテーマを伏線とした。とにかく詞に重点を置く義太夫節は、理解しやすいという理由もあって、前時代とは比較にならぬ観客の大動員に成功し、竹本座も豊竹座も大いに繁盛した。『竹豊故事(ちくほうこじ)』の伝えるところである。ここに記した作品は歌舞伎(かぶき)にも取り入れられ、日本を代表する演劇となったのはいうまでもなかろう。なおこの時代に活躍した大夫は、竹本大和掾(やまとのじょう)、竹本政太夫(2世)、竹本此太夫(このたゆう)、竹本島太夫(しまたゆう)、豊竹駒太夫(こまたゆう)らである。
〔3〕地合の時代 大夫の努力によって詞が発達したのに対し、三味線は徐々に技術を開発し、説明やト書に相当する部分を旋律化し始めた。そうした曲節のついた箇所を地合とよぶ。先兵となって作曲に取り組んだのが鶴沢文蔵(つるざわぶんぞう)で、評判記『闇の礫(やみのつぶて)』は文蔵を「近代の元祖」と称賛している。ようやく三味線は、台本の台詞の部分にも美しい曲節をつけ始めた。いわゆる「サワリ」の誕生である。また歌詞と歌詞の間を、短いながらも三味線だけでつなげるようになった。「合の手(あいのて)」の成立である。このような努力は必然的に勘所を増加させ、その組合せは複雑になっていく。ここに楽譜が登場してくる。鶴沢清七(せいしち)がつくった三味線の楽譜「朱(しゅ)」は、1781年(天明1)の創案だといわれている。三味線が活躍し始めた時代に現れる作品は、近松半二(はんじ)の『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』(1766)、『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』(1771)、『新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)』(1780)、『伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』(1783)などである。半二の作品には、自然の「美」と人間社会の「醜」が対立しており、それを調和させ、また融合させる働きとして、「愛」が大きな比重を占めている。なお、初演のまま放置されていた近松門左衛門の作品が、50年以上の歳月を経て復活してきた。『冥途の飛脚』が『けいせい恋飛脚(こいびきゃく)』と改作されて、また『心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)』が『心中紙屋治兵衛(しんじゅうかみやじへえ)』となって、三味線や人形の新技術にふさわしい姿をみせ始めた。新しい時代の要請にこたえたのが竹本政太夫(3世)や竹本中太夫(なかたゆう)である。詞に強味を発揮する竹本染太夫(そめたゆう)や、地合に巧みな竹本春太夫(はるたゆう)、あるいは美声の豊竹駒太夫(2世、3世)らも名声をはせた。
〔4〕フシの時代 1791年(寛政3)画工として名高い耳鳥斎(にちょうさい)は『はなけぬき』を著し、三味線は「手の回るに任せ引倒」し、「引(ひき)にくひことは引能様(ひきよきやう)に拵(こしら)へ直し」ていると書き留めた。三味線の技術はますます進歩し、形状もいまのような太棹(ふとざお)になる。やがて、美しい旋律ができることを知った三味線は、大夫の語る文句をもそのメロディに乗せ始める。これをフシという。かつては語ることを専一にしてきた大夫は、この段階で歌う必要に迫られたのである。こうした傾向は1780年代以降に顕著となり、道行に特色のある作品が復活し始めた。『義経千本桜』の道行もそうで、初演から58年目の1805年(文化2)に再演される。『玉藻前(たまものまえ)』『四季寿(しきのことぶき)』などの景事(けいじ)も盛んに上演された。三味線の活躍に伴って、1798年(寛政10)『阿古屋の琴責(あこやのことぜめ)』の大ヒットをはじめ、『無間(むけん)の鐘』『堀川の猿廻(まわ)し』『三十三間堂の木遣音頭(きやりおんど)』など、音楽性の豊かな作品が続出してくる。豊竹麓太夫(ふもとだゆう)、竹本内匠太夫(たくみだゆう)、豊竹巴太夫(ともえだゆう)らの大夫陣と、野沢吉兵衛(初世、3世)、鶴沢寛治(つるざわかんじ)らの三味線、それに人形の吉田新吾(しんご)や吉田辰五郎(たつごろう)ら、いわゆる三業の英知が一体となって、三人遣いにふさわしい音楽へと義太夫節は脱皮した。民衆娯楽として一時期は見離されていた人形芝居に、1805年(文化2)新しく植村文楽軒(うえむらぶんらくけん)の芝居(後の文楽座)も開場した。改めて人形芝居は、夢多き娯楽産業となった。そして日本全国へと広がっていく。
〔5〕明治以降 江戸末期に完成の域に達した義太夫節は、「音曲の司(つかさ)」といわれた。三味線音楽の王者という意味である。しかし、1868年以降の明治時代になっても、豊沢団平(とよざわだんぺい)(2世)、豊沢広助(ひろすけ)(5世)を初めとする三味線陣、あるいは竹本越路太夫(こしじだゆう)(後の摂津大掾(せっつのだいじょう))、竹本大隅太夫(おおすみだゆう)らは、曲節の改変に取り組んでいく。吉田玉造(たまぞう)を中心とする人形と張り合うためでもあったが、日露戦争を境に技術の進展は停滞した。かわって台頭するのが、先人の「風(ふう)」を尊重する風潮である。とくに初演の大夫の芸風を探り、浄瑠璃の精神を究めようとする動きが活発になった。そして豊竹古靭太夫(こうつぼだゆう)(後の山城少掾(やましろのしょうじょう))と竹本綱大夫(つなたゆう)(8世)によって、浄瑠璃の内面が深く掘り下げられ、芸術性がようやく完成の域に達するのである。現代はそうした思潮の延長線上に位している。
なお義太夫節は、人形浄瑠璃文楽(ぶんらく)(大夫・三味線・人形)として1955年(昭和30)以来、重要無形文化財の総合指定を受けている。また個人としては、大夫では豊竹山城少掾、6世竹本住大夫(すみたゆう)、8世竹本綱大夫が、三味線では4世鶴沢清六(せいろく)が、同年重要無形文化財保持者に認定されたのを第1回に、以下、大夫では10世豊竹若大夫(わかたゆう)、4世竹本越路大夫、4世竹本津大夫、7世竹本住大夫、9世竹本綱大夫が、三味線では6世鶴沢寛治(かんじ)、野沢松之輔(まつのすけ)、2世野沢喜左衛門(きざえもん)、10世竹沢弥七(やしち)、5世鶴沢燕三(えんざ)、4世野沢錦糸(きんし)、8世竹沢団六(だんろく)(のち7世鶴沢寛治)、鶴沢清治が認定された。また1980年には、義太夫節保存会会員による義太夫節が重要無形文化財の総合指定を受け、そのなかから竹本土佐広(とさひろ)の浄瑠璃が1982年に、鶴沢友路(ともじ)の三味線が98年(平成10)に、竹本駒之助(こまのすけ)の浄瑠璃が99年に同各個指定を受けた(1953年に文楽座は「太夫」を「大夫」の表記に改めた。本項目もそれに従った)。
[倉田喜弘]
『杉山其日庵著『浄瑠璃素人講釈』復刻版(1975・鳳出版)』▽『義太夫年表近世篇刊行会編『義太夫年表 近世篇』全6冊(1979・八木書店)』▽『義太夫年表近世篇刊行会編『義太夫年表 近世篇 別巻』全2冊(1990・八木書店)』
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義太夫とも。17世紀後期に大坂で生まれた語り物で,浄瑠璃の代表的な一流派。18世紀以降は,人形浄瑠璃の語りもほとんど義太夫節で行われる。初世竹本義太夫が,大坂道頓堀に竹本座を創立して人形浄瑠璃芝居を始めた1684年(貞享元)を創始とする。義太夫以前の古流の浄瑠璃(古浄瑠璃)に対して当流浄瑠璃といった。古浄瑠璃の播磨節や嘉太夫節の長所を総合した新浄瑠璃であった。義太夫以降にも多数の名人,中興の祖が輩出したが,別の流派としては独立せず現在に及んでいる。歌舞伎の劇中で語る場合は竹本という。
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…初めは素朴な物語的音楽であり,伴奏には扇拍子や琵琶,後には三味線が使用された。操り人形も加わるにいたって独特の語り物による楽劇形態を完成し,ことに中世諸芸能の統合のうえに,近松門左衛門の詞章,義太夫節の曲節につれて舞台の人形が操られるとき,浄瑠璃は近世的・庶民的性格をもつ音楽・文学・演劇の融合芸能として登場した。近松門左衛門の活躍時代において文学性が最も高くなり,その後人形舞台の発達につれて舞台本位の演劇性を高度にもつにいたる。…
…(1)邦楽用語。義太夫節の別称,また歌舞伎専門の義太夫節演奏者の称。義太夫狂言(丸本物)では,浄瑠璃の詞章のうちで登場人物のせりふの部分は俳優が自分でしゃべり,地の文章と節のついた部分を竹本が受け持つのが原則である。…
…義太夫節の創始者。はじめ五郎兵衛,ついで清水(きよみず)五郎兵衛,清水理(利)太夫から竹本義太夫となり,やがて受領して竹本筑後掾と称した。…
…なかでも浄瑠璃は江戸時代の初期に,人形と結びついた人形浄瑠璃の音楽と,歌舞伎と結びついた歌舞伎の音楽とに分かれて発展した。前者の代表は義太夫節であり,後者の代表は常磐津節(ときわづぶし),清元節などである。歌のほうは,三味線組歌を最古の三味線芸術歌曲とし,これから京坂地方の三味線歌曲である地歌が発達した。…
…そして,能では,とくに謡(うたい)と呼ばれる歌唱となると,江戸時代後期以降と思われるが,〈ツヨ(強)吟〉(または〈剛吟〉)と呼ばれる,ノドを強くしめて力強い声を発する発声法が生まれ,それ以前の〈ヨワ(弱)吟〉(または〈和吟〉)と対立するようになり,この2種の発声を使い分ける点に,現在の能の謡の特色があるようになっている。浄瑠璃においては,とくに義太夫節などは,1人の語り手(太夫)が,種々の役柄を語り分けるために,さまざまな発声上の技巧が発達した。いわゆる〈詞(ことば)〉の部分において,その技巧が効果的に用いられる。…
…なお,自然現象としての〈かぜ〉を〈風月〉などのように他のものと並称して賞美の対象とすることがあり,仏教では,一切の物体を構成する4元素としての四大(地,水,火,風)の一と考えている。【堀 信夫】
[義太夫節]
義太夫節の様式を示す〈風〉には,座の風と太夫個人の風とがある。座の風とは竹本座と豊竹座の様式で,竹本座を西風,豊竹座を東風と称する。…
…それをさらに応用したのが初世の高弟岡本阿波太夫で〈愁ひ節〉として知られた。文弥節を吸収したのは義太夫節で,《伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)》の〈政岡忠義の段〉の,〈忠と教える親鳥の〉は文弥節,《絵本太功記》十段目の〈涙に誠あらわせり〉は文弥オトシである。そのほか,山本角太夫(かくだゆう)の角太夫節も影響を受け,一中節も文弥の泣き節をとり入れたといわれ,新内節で使われるウレヒは,阿波太夫の影響といわれる。…
※「義太夫節」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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