精選版 日本国語大辞典 「羽仁もと子」の意味・読み・例文・類語
はに‐もとこ【羽仁もと子】
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教育家。明治6年9月8日青森県生まれ。本名は羽仁もと(旧姓松岡)。明治女学校(東京)に学び、郷里での教員生活を経て、報知新聞社に入社、日本初の婦人記者となる。1901年(明治34)羽仁吉一(よしいち)(1880―1955)と結婚。夫妻協力して1903年、雑誌『家庭之友』(1908年『婦人之友』と改題)を創刊、家庭生活の合理化や教育問題などを中心とする啓蒙(けいもう)に努める。その後、「教育問題に対する『婦人之友』の主張は、実際に一つの学校を創設しなくては」と考え、1921年(大正10)自由学園を創設した。この文部省令によらない教育施設において、「真の自由人をつくりだすこと」を目的に、生活に立脚した「活(い)きた」教育の開発と実践が試みられた。キリスト教と自由主義の結合を目ざし、生活の近代化、合理化や教育そして婦人の生き方などについて積極的に発言したその思想は、著作集に収められている。昭和32年4月7日死去。
[布施晶子]
『『羽仁もと子著作集』全20巻(1963~1973・婦人之友社)』
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1873.9.8~1957.4.7
大正・昭和期のジャーナリスト・女子教育者。旧姓松岡。青森県出身。東京府立第一高等女学校在学中に受洗。のち明治女学校に学び,「女学雑誌」の編集に参加。報知新聞社で女性記者の先駆けとなり,退社後の1901年(明治34)羽仁吉一と結婚。03年夫婦で「家庭之友」(のち「婦人之友」)を創刊し,徹底した生活の合理化を主張した。21年(大正10)東京に自由学園を創設,キリスト教的自由主義による家族的な人格教育を実践した。説子は長女。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…1921年に羽仁もと子が夫の吉一とともに東京都豊島区雑司ガ谷に創設した学園。羽仁は1903年に《家庭之友》(のちに《婦人之友》と改題)を創刊,主宰していたが,日本の家庭生活の近代化は教育をとおしてこそ実現できると信じて学園をつくった。…
…新聞記事を取材,執筆,編集する人。記者は日本の場合,雑誌と異なって,すべて新聞社の正社員か嘱託である。日本では,明治前期,取材にあたるのは〈探訪〉〈出省方〉などと呼ばれ,記者とは区別された。よほどの難事件でないかぎり記者自身は取材せず,探訪が提出したメモや報告を記事にしたり,英字新聞の翻訳,投書の取捨選択,論説の執筆などにあたった。記者は男性に限られ日本で女性記者の第1号となったのは,1897年に報知新聞に入社した松岡(羽仁)もと子である。…
…商業的な女性雑誌の草分けとして1910年3月に同文館から創刊された。初期には坪内逍遥や上田万年(かずとし)らが寄稿し,編集協力者としてはのちに《婦人之友》を興す羽仁吉一・もと子夫妻がいた。13年1月からは都河(つかわ)竜が雑誌を譲り受け(婦女界社発行),連載小説を重視,小栗風葉や小山内薫,さらに菊池寛などが作品を寄せ,広く迎えられた。しかし,しだいに《主婦之友》や《婦人俱楽部》におされて生彩を欠くようになった。…
…家計簿奨励,衣食住の合理化,家族関係の民主化など,家庭生活の実際的改良を提唱。羽仁もと子が21年に創立した自由学園と,30年以来の読者組織である〈友の会〉とを両輪とする支持母体をもつ点でも,他の女性雑誌に類例をみない特質を示している。【井上 輝子】。…
※「羽仁もと子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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