清朝(しんちょう)一代の儒学において中心をなしていた学問の称。考証とは客観的な証拠をあげて事実を明らかにすること、したがってそれは学問研究の一過程としていつの時代にもあり、清代にのみ限るものではない。ただその当時に「実事求是(じつじきゅうぜ)」(事実によって真理を明らかにする)をスローガンとして掲げ、自らを「考拠の学」と誇称する学問が盛行し、事実それにふさわしい著作の続出したことから、清儒の学を特定する称呼となったのである。ちなみに、歴代中国における儒学の特色をとらえて、「漢唐訓詁(くんこ)学」「宋明(そうみん)性理学」「清朝考証学」と称することが一般であるが、これは江戸時代中期の太田錦城(きんじょう)(『九経談』序)に発するものであるらしく、同時に清学を考証学とよぶこともこれに始まり、その後、中華民国初期の梁啓超(りょうけいちょう)(『清代学術概論』序)がこの語を使用したことによって定着したものと考えられる。
[楠山春樹]
考証学は、推進者自らが漢学と称しているように、宋明の性理学を空疎として退け、訓詁学(とくにその典型としての後漢(ごかん)の古文経学(こぶんけいがく))に復(かえ)るべきことをいう。しかしそれは単なる復古ではなく、要は経書を通して古聖賢の真意に迫ろうとするにあり、それには、古聖賢の世に近く、なおその真意を残存する漢代の経学を基盤とすべきである、というのである。そこで考証学は、まず古代言語のもつ意味を的確に把握する手段として、小学(文字(もんじ)学・音韻(おんいん)学)に通ずることが必須(ひっす)とされた。一方古代言語研究には、同じく古代の文献である諸子の書をも参考とすることが必要とされたが、それらは多年学習する人もなく放置されてきたため、文字の誤りが目だった。そこで諸本を校合して正確なテキストをつくる作業が行われ、ここに校勘の学が発達する。さらに経書と同時期もしくは先行する時期の文字を刻んだ金文石文にも関心が寄せられ、これを研究する金石学が盛行する。一方経書を徹底的に読解するためには、そこにみえる人名、地名、官職名から日月星辰(せいしん)の天体現象、動植物、器物に至るまで、それを正確に知らねばならず、そのための補助学として歴史、地理、典章制度、天文などの諸学が興起する。
考証学とは、以上のような広範な学問を総称するものであって、もちろん中心は経書研究にあるが、その対象はかならずしも経書にのみ限るものではない。それだけに古聖賢の真意に迫るという本来の趣旨がときに忘却され、考証それ自体が目的化したきらいもなくはないようであるが、しかしその成果は、現今の学的批判に堪えうる精密さを備えている。
[楠山春樹]
考証学は、明末清初の顧炎武(こえんぶ)が『日知録(にっちろく)』を著して考証の祖型を示し、門人閻若璩(えんじゃくきょ)が『古文尚書疏証(こぶんしょうしょそしょう)』を著して、伝統的な経書のなかに、実は4世紀につくられた偽書の混じっている事実を指摘したことに端を発する。しかしその最盛期は18世紀後半から19世紀前半にかけての乾隆(けんりゅう)・嘉慶(かけい)年間である。この時期の考証学には2系統があって、すなわち呉派(蘇州(そしゅう)学派)には恵棟(けいとう)(『易漢学』)、銭大昕(せんたいきん)(『十駕斎(じゅうがさい)養新録』)、王鳴盛(めいせい)(『十七史商榷(しょうかく)』)らがあり、皖(かん)派(安徽(あんき)学派)には戴震(たいしん)(『孟子(もうし)字義疏証(そしょう)』)、段玉裁(だんぎょくさい)(『説文解字注』)、王念孫(おうねんそん)(『読書雑志』『広雅疏証』)、王引之(おういんし)(『経伝釈詞』)らが輩出した。なお明末清初の黄宗羲(こうそうぎ)(『明儒学案』)の門流から出た万斯同(ばんしどう)、全祖望(ぜんそぼう)は史学を中心とする成果を示し、江藩(こうはん)(『国朝漢学師承記』)、阮元(げんげん)(『皇清経解』)は、当時の学問を集成して後世に伝える役割を果たしている。
乾隆・嘉慶を過ぎると清儒の関心は後漢の古文経学から、さかのぼって前漢の今文(きんぶん)経学に移っていく。しかし今文経学はもともと訓詁学というよりも政治的色彩が濃厚であり、おりしも清末の動乱期に際会したこともあって、その主流は改革運動の理論的根拠をこれに求めることに傾いていった。清朝公羊(くよう)学がそれである。しかし考証学の伝統はなお孫詒譲(そんいじょう)、兪樾(ゆえつ)、王先謙(おうせんけん)らの学問に残り、中華民国以後におこる古典の科学的研究に引き継がれていった。
[楠山春樹]
『内藤湖南著「経学」「史学及び文学」(『清朝史通論』所収・1944・弘文堂/『内藤湖南全集 第8巻』所収・1969・筑摩書房)』▽『梁啓超著、小野和子訳『清代学術概論』(平凡社・東洋文庫)』
中国,清代の学界の主流をなした学問の方法。漢代の古典研究を尊重したことから漢学ともいう。宋代の思弁哲学である朱子学や,明代の観念論哲学である陽明学とはおよそ対照的に,広く資料を収集し,厳密な証拠にもとづいて実証的に学問を研究しようとするもので,〈実事求是〉がその信条であった。対象とする領域は,経学を中心に,文字学,音韻学,歴史学,地理学,金石学などきわめて広範にわたっている。
清代の学問の開祖となったのは,経学の方面では顧炎武,史学の方面では黄宗羲である。彼らは,明王朝の滅亡という事態に直面して,強い実践への関心から,明代の学問の空疎なるを慨(なげ)いて実事求是の学問を追求していった。顧炎武は《音論》のなかで,論証に当たって本証(《詩経》ならば《詩経》自体について証拠を求めたもの)と傍証(他書に証拠を求めたもの)を採用し,これらの証拠にもとづいて正確な論断を下すべきことを主張した。証拠のない臆見は考証学者の最も排斥するところであった。また彼はみずから各地を遍歴し,実地の調査をも行って,その結果を重んじた。このような実事求是の学問であってはじめて実践に役立つと考えたのである。黄宗羲もまた,ひろく史料を捜集し,透徹した史的洞察に立って当時の政治問題を論じた。また歴史叙述を補うものとして〈表〉や〈志〉の役割を重視したが,このことは清朝の歴史学に一定の影響を与えることになった。
以上のごとく,彼らの学問の方法は,彼らの現実に対する強烈な関心と不可分に生まれでたものであったが,清朝の支配下ではこのような関心を持ちつづけることはきわめて危険なことであった。相次ぐ思想弾圧のなかで,学者たちは現実への関心を放棄し,考証学的な学問の方法のみを受けつぎ発展させた。こうして清朝考証学が成立したのである。乾隆・嘉慶年間(1736-1820)がその全盛期であって,乾嘉の学とも呼ばれている。
考証学の学派としては,恵棟を中心とする呉派と,戴震を中心とする皖(かん)派に分かれる。呉派が漢儒の学説を墨守し復古を主張したのに対し,皖派は必ずしもそれに拘泥することなく,創造的な研究を推し進めた。戴震の《孟子字義疏証》は考証学の方法を用いながらも,その枠を越え,みずからの新しい哲学を提出するに至ったものである。
清朝考証学の成果としては,以下の点を挙げることができよう。(1)古典のテキストについて綿密な考証が行われ,その真偽が鑑別されたこと。閻若璩(えんじやくきよ)の《尚書古文疏証》は,《尚書》のうち東晋におくれて出た古文についてその偽作なることを証明したものである。これは神聖なる経典を,研究の対象とし,かつこれを懐疑したものであって,一種の思想解放としての意味をもった。(2)経典について古い注疏の誤謬を指摘し(王念孫《読書雑志》,王引之《経義述聞》など),新しい注釈を作って(恵棟《周易述》,孫星衍《尚書今古文注疏》,孫詒譲《周礼正義》,焦循《孟子正義》など),古典研究が画期的に進んだこと。この過程で,文字,音韻に関する学問が極度に発達したことは特筆に値する(段玉裁《説文解字注》など)。また古典には,印刷や流伝の過程で誤脱を生じ,解読が困難になっているものがある。これを正すために校勘学が発展し,古典のテキストの考証と復元が行われた。この校勘は,儒教以外の諸子にも及び,諸子学研究の端緒を開いた。これは諸子の再評価と価値の多様化につながるものといえる。(3)歴史学の分野にも考証学の方法が導入せられ,年代や史実についての考証や誤謬の訂正が行われた(趙翼《二十二史劄記》,王鳴盛《十七史商榷》など)。また正史について,補注や表,志も盛んに作成されて,歴史学の体系がいっそう完備したものになった(万斯同《歴代史表》など)。地理学も発展し,古代地理についての研究が進むとともに,地方志(史)の編纂が各地で行われた。(4)すでに散逸した書物を類書のなかから捜集し,復元することが行われた(馬国翰《玉函山房輯佚書》など)。
以上のように,清朝考証学者の手によって,大量の古典文献が整理され,考証学的研究が画期的に進んだのであるが,このような学問は,きわめて専門的な学問のための学問であって,現実に対してはなんら有効性をもちえない。このため,19世紀中葉,国内矛盾が激化し列強の侵略が始まって,清朝の支配体制が動揺し始めると,学問のあり方が深刻に反省されるようになり,再び実践に役立つ学問が追求された。清末の公羊学派は考証学から出発しながらも,公羊学を変革の理論として発展させていったものである。
日本では荻生徂徠や山井鼎にすでに考証学的傾向がみられる。特に山井鼎の《七経孟子考文》は清朝考証学者をも驚嘆せしめたもので,《四庫全書総目提要》にも採録せられている。その後,吉田篁墩,太田錦城,狩谷棭斎,伴信友らが出て,日本の学問についても,考証学的方法を用いて研究を進めた。その方法は明治以後の近代の学者にも受け継がれた。
執筆者:小野 和子
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清代に発達した学問。儒教の古典である経書の究明において,確実な文献に典拠を求めるもので,自己の見解によって解釈する宋学と対立する。特に漢代の学者の説を重んじたので漢学ともいう。明末に顧炎武(こえんぶ)や黄宗羲(こうそうぎ)は,空理をもてあそぶ陽明学の末流に対して経世実用の学を唱えたが,その実証的研究法は清代になると発達し,文献学として乾隆(けんりゅう)・嘉慶(かけい)年間に全盛をきわめ,恵棟(けいとう)や戴震(たいしん)によって大成された。考証学から歴史学,地理学,書誌学,音韻学などが分化,発達し,中国の古典や文化の科学的研究に大きな貢献をしたが,清朝の厳重な思想統制により本来の経世実用の面は失われた。
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江戸中期以後の儒学の一派。先行の諸注にとらわれず経書の正しい解釈を求めた古学の方法を徹底し,経書を確実な典拠の考証によって客観的に明らかにしようとする学派。宋明学の主観的学風に対立してうまれた中国清代の考証学の影響も大きかった。ただ日本の場合,折衷学の井上金峨(きんが)門の吉田篁墩(こうとん)に始まることが示すように,折衷学とわけにくい関係で現れる。そのほか「九経談」を著した太田錦城(きんじょう)あるいは松崎慊堂(こうどう)・狩谷棭斎(えきさい)・安井息軒(そっけん)・海保漁村(かいぼぎょそん)らが知られる。考証学の文献実証主義は,国学における日本古典研究にも影響を与え,明治期の漢学にもうけつがれていった。
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… 明末・清初の陽明学の流行により,朱子学批判が旺盛になる一方,社会の動揺に対処する,東林党などの経世のための実学が主唱され,明朝の滅亡と異民族支配から王夫之,顧炎武,黄宗羲らのつよい民族意識にささえられた,史的実証的で博学と実践を重んずる経学,史学があらわれた。清朝の抑圧により実践的側面はのびず,〈実事求是〉の客観主義的な考証学が伸展して,いわゆる乾隆・嘉慶の学の開花をみた。考証学は,宋・明期の理学,心学の唯心論的な学風を排して,〈漢学〉を標榜する復古主義をとり,漢・魏期の〈伝注〉や六朝期の〈注疏〉を尊重したが,その著しい成果によって,経学は〈目録,輯佚,校勘〉の学を基礎とする近代古典学に変貌をとげ,経書はかくて〈諸子〉文献のなかに列して相対化される結果をみちびいた。…
…中国,清代の考証学派の学問精神を示すことば。もと《漢書》河間献王劉徳伝に,彼の好学を評して,〈実事に是(ぜ)を求めた〉とあるのにもとづく。…
…《文史通義》は歴史家の主体的態度を重んじ,史実の記述が道の探究へ帰結すべきことを説いて,《春秋》以来の最もオーソドックスな立場を宣揚する。それは当時盛行した考証学の客観主義への批判でもあった。しかし清朝考証学も司馬遷以来の長い学問的伝統のうえに築かれたものであった。…
※「考証学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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