自由放任ということばはA.スミスの《国富論》(1875)の主張を要約したものとして知られている。そして,しばしば,自由放任,レッセ・フェールとは現実の経済をあるがままに放置せよ,あるいは,すべての経済主体とくに生産者(企業)に好き勝手にやらせるのがよい,という意味であるかのように誤解されてきた。この誤解の源は,資本主義のとらえ方が,D.リカードやJ.S.ミルなどのイギリス古典派ないしは19世紀後半のアメリカで俗流化されたことにある。スミスが自由放任を主張した背景には,17,18世紀のイギリスにおいて重商主義による保護貿易主義や徒弟条令などによって,一部の業者が政治権力と結託して市場を独占していたことがある。その状態にスミスは,だれでも自由に市場での競争に参加させるべきだ,と抗議したのであった。つまり,もともとは独占排除のキャンペーンのための標語だったのである。現代の自由競争市場理論の骨格となっている一般均衡理論の始祖であるL.ワルラスはその《応用経済学研究》(1898)において,くり返し古典派経済学的な自由放任論の誤りを指摘し,フランス重農主義以来の自由放任の主張は,市場に参加する諸経済主体が互いに対等に競争できるような環境条件を整備せよ,という意味に解されねばならないことを強調した。ワルラスの解釈はまさにスミスの意味したことと一致している。レッセ・フェールとは本来,潜在する自由競争のエネルギーが現実の市場において解放されうるような条件を整えよ,という意味の主張である。それが19世紀前半のイギリス,同後半のアメリカなどでは,民間市場において自然発生した強力な独占体が強者の自由をほしいままにすることまでも含めて,勝手にやらせるべきだという主張であるかのように曲解されたのだった。
強者の自由を国際貿易の面でも容認させるために,曲解された自由放任主義が先進国の自由貿易の主張に混入することもあった。1930年代の大不況以後にケインズ理論が普及するにつれて,俗流自由放任主義は後退したが,第2次大戦後の先進各国でケインズ政策と福祉国家の理念が国の政策介入の範囲を一部で拡大しすぎたために,意図しないところで政府規制が強くなりすぎ,自由競争市場の機能が害される状況が出てきた。70年代のスタグフレーションがその具体的なかたちである。政策介入の行過ぎはとくにアメリカ,イギリスで強く意識され,それは政府財政規模の過大と表裏をなすものとされた。その結果,〈小さな政府〉の主張とともに反ケインズ主義が力を得,反ケインズ主義の経済学者のなかには,みずから新リカード主義を名乗って,俗流自由放任主義に傾く主張も見受けられた。しかし1950年代から60年代にかけての20年間に世界経済が人類史上に例をみない高度成長を記録したことは,適度なケインズ主義的政策運営が,スミス=ワルラスの意味での本来の自由放任つまり自由競争市場が効率よく機能しうるための条件整備として必要かつ有効であったことを立証している。他方で東側諸国でも,中国や東欧の一部に代表されるように,自由競争市場の効率的活用を試みる傾向が強まっている。自由競争市場が個別経済主体の活力を解放し,一部の強者の独走による非効率を抑えながら,各自の対等な競争によって限りある資源を最も効率的に利用できるシステムを実現し維持するために,本来のスミス=ワルラス的な自由放任原則は貴重な指針でありつづけるであろう。
執筆者:辻村 江太郎
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個人の経済活動の自由を最大限に保障し、国家による経済活動への干渉・介入を極力排除しようとする思想および政策。資本主義の生成期に、重商主義に反対するフランスの重農主義者が最初に提唱した。彼らの主張である「レッセ・フェール」が自由放任主義の合いことばとなったが、この思想を経済学的に体系化したのはアダム・スミスであった。スミスは、『国富論』(1776)において、個人が自己の利益を追求する自由な経済活動こそが社会的富の増大をもたらすのであり、またその活動は「見えざる手」に導かれて(現代的にいえば、市場機構の作用によって)富の公正で効率的な配分も実現し、社会的調和が達成されることを理論的に明らかにしようとした。しかし、資本主義経済の発展は自ら自由競争の反対物である独占を生み出し、さらに、1930年代の大不況による失業と貧困の解決のために、国家の経済的役割と規制が必要とされるに至って、自由放任主義は放棄されたのである。
[佐々木秀太]
19世紀以降の経済的自由主義の基礎にあった考え方。経済活動に対する政府の保護・統制に反対し,個人の自発性に任せれば,そこに公益は達成されるとした。フランスの重農主義者の重商主義批判の主張に始まり,スミスが『諸国民の富』において体系化した。この主張にもとづく自由貿易は,強者に都合のよい論理として列強の支配の拡大をもたらした。
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…それは,市民革命が市民の自由に対する国家の介入と抑圧の排除を目的としておこったこと,および市民階級の最大の要求が自由と財産権の保障であったことから理解される。国家は市民社会の外にあって,社会の安全と自由を確保する夜警国家の役割に甘んじるべきであり,その内部に立ち入って市民の社会生活や経済活動に介入すべきでないという自由放任主義が求められたのである。〈法の前の平等〉の原則も生まれながらの身分による差別を禁ずるものであり,能力,財産,教育などによる区別を排除せず,したがって自由の伸長を抑えるものではなかった。…
…
[夜警国家]
近代国民国家は,まず市民社会を基盤として成立するが,この時期の近代国家の特徴は,夜警国家であり,立法国家であることに求められよう。夜警国家は,自由放任主義の下で国家の機能を最小限にとどめようとするものであった。さまざまな形で生ずる利害の対立を自由に放任することが,社会の秩序と安定にとって最も望ましい結果をもたらすものであるとすれば,国家の果たすべき機能は外敵の侵入を防ぎ,国内の基本法の遵守を確保することで十分である。…
…
[重農学派の政策的主張]
フィジオクラシーとは,もともと〈自然の統治〉を意味する語で,重農学派は王権を合法的に制限する合法的専制主義を最良の政体と考え,当時のルイ王朝を是認しながら自然的秩序による開明的社会を実現しようとした。そのため政策的には,とりわけ経済上の自由放任主義と地代に対する単一課税とを提唱した。自由放任主義の提唱は,重商主義的な国家的干渉や独占の排除によってはじめて〈取引される富〉,とくに農産物にはその正常な再生産を可能にする〈良価bon prix〉が保証され,その結果,一面では地主階級の収得する地代が増加し,他面では農業資本の増加による農業生産性の上昇が可能になる,という理解を基礎としていた。…
…ロンドン・バーミンガム鉄道の技師(1837‐45)および《エコノミスト》誌の編集部員(1848‐53)を経て,1853年以後死ぬまでの50年間はどこにも勤めず,結婚もせず,秘書を相手に著述に専念した。大学とは終生関係をもたない在野の学者であったが,著作が増えるにつれて彼の名声はしだいに高まり,とりわけその社会進化論と自由放任主義はJ.S.ミルや鉄鋼王A.カーネギーをはじめ多くの理解者,信奉者を得て,当時の代表的な時代思潮になった。晩年は栄光に包まれただけでなく,その思想はアメリカにW.サムナーのような有力な後継者を見いだして,1920年代アメリカの社会学,社会思想の中枢をなした。…
…国民の租税負担を低く抑えて,経済活動に干渉しない政府のありかたをいう。自由放任主義の時期における国家は,政府の活動領域に関しては夜警国家として特徴づけられるが,政府の財政面に関しては〈最小の政府こそ最良の政府〉であるとするチープ・ガバメントの形をとった。これは,自由放任主義の時期に最も強い政治的発言権をもっていたブルジョアジーが,自由な経済活動によって富を追求することを望み,政府の活動領域をできるだけ狭くして,租税負担もできるだけ低くすることを要求したためである。…
※「自由放任主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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