(読み)フネ

デジタル大辞泉 「船」の意味・読み・例文・類語

ふね【船/舟】

[名]
人や荷物をのせて水上を進む交通機関。ふつう、推進力に動力を用いる大型のものは「船」、手でこぐ小型のものは「舟」と書く。
(「槽」とも書く)水・酒などの液体を入れる箱形の容器。湯船ゆぶね水船みずぶねなど。
魚介類のさしみを盛る舟型の食器。
魚類・貝類およびそのむき身などを入れて売るための小型で底の浅い容器。
(「槽」とも書く)清酒・醤油などを搾りあげるのに用いる外枠。
(「槽」とも書く)馬の飼い葉桶。
ひつぎ
[接尾]助数詞。舟形の容器に入ったものを数えるのに用いる。「刺身一―」
[下接語]入り船浮き舟からり舟黒船出船引き船白川夜船(ぶね)あし安宅あたけ網船いくさ生けいさり船板舟飼い舟大船親船・掛かり船・かがり牡蠣かき貸し船通い船川崎船川船下り船くつ御座船木の葉舟金毘羅こんぴらささ精霊しょうりょう涼み船砂船関船勢子せこ千石せんごく高瀬舟宝舟たこ助け船田舟達磨だるま団平だんべい茶船猪牙ちょき土船つなぎ船釣り船灯籠とうろう渡海とかいとま友船泥船荷船上り船乗合船箱船花見船平田舟べか船帆掛け船帆船丸木船水船もと物見船もやい船屋形船・宿船・屋根船遊山船湯船渡し船
[類語](1船舶舟艇艦船

せん【船】[漢字項目]

[音]セン(漢) [訓]ふね ふな
学習漢字]2年
〈セン〉ふね。「船団船長船舶船尾艦船汽船客船漁船商船乗船造船帆船便船和船
〈ふね(ぶね)〉「大船親船出船
〈ふな〉「船底船出
[難読]船首みよし

ふな【船/舟】

ふね。多く、名詞や動詞の上に付いて複合語をつくる。「―宿」「―乗り」「―出」

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精選版 日本国語大辞典 「船」の意味・読み・例文・類語

ふね【船・舟・槽】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙
    1. 水の上に浮かべ、人や荷物をのせて水上を渡航する交通機関。ふつう木材または鋼で中を空洞に造るが、近年小型船は合成樹脂とガラス繊維とで造るものが多い。
      1. [初出の実例]「此の子は葦(あし)の舩(フネ)に入れて流去(なかしや)る」(出典:古事記(712)上(道祥本訓))
    2. のように内部を空洞にした箱形の容器。
      1. (イ) 水・湯・酒など液体を入れる容器。湯ぶね・洗濯桶など。槽(そう)。水槽。
        1. [初出の実例]「其の佐受岐毎に酒(さか)(フネ)を置きて船毎に其の八塩折(やしほり)の酒を盛(い)れて」(出典:古事記(712)上(道祥本訓))
      2. (ロ) 清酒・醤油などを搾りあげるのに用いる箱。内側面に簀竹を張り詰め、底には凹線をひいたもの。酒槽(さかぶね)
      3. (ハ) 馬のかいば桶。馬槽。
        1. [初出の実例]「槽 唐韻云槽〈音曹 和名与舟同〉馬槽也」(出典:二十巻本和名抄(934頃)一五)
      4. (ニ) 棺桶。ひつぎ。〔俚言集覧(1797頃)〕
      5. (ホ) 魚市場や魚屋で、魚や貝などを入れる底の浅い木箱。また、刺身や貝のむき身などを入れて売る底の浅い容器。
      6. (ヘ) 菓子を入れる箱。〔菓子話船橋(1841)〕
      7. (ト) 米や雑穀を入れる桶。米槽(こめぶね)
        1. [初出の実例]「さっとうつして何となく。ますをふねへぞうつぶせたり」(出典:浄瑠璃・融通大念仏(1688‐1704頃)三)
      8. (チ) 盆栽などを安置する容器。
        1. [初出の実例]「積善庵盆山之船献之。石者依却之。而不在所之由、以状申之」(出典:蔭凉軒日録‐寛正四年(1463)五月一五日)
    3. 宝船のこと。
    4. ( 「ひきふね(引船)」の略 ) 芝居の正面桟敷のこと。
      1. [初出の実例]「大当り舟の小べりも赤く成り」(出典:雑俳・柳多留‐一〇七(1829))
    5. 紋所の名。の形を図案化したもの。
    6. ふなまんじゅう(船饅頭)
      1. [初出の実例]「思ひ切てとびねへなとふねのきう」(出典:雑俳・柳多留‐二一(1786))
    7. ひきふねじょろう(引舟女郎)」の略。
      1. [初出の実例]「小袋をうち出の小槌まで絵書たる。舟(フネ)を敷寝のよるの夢に」(出典:浮世草子・西鶴名残の友(1699)三)
  2. [ 2 ] 〘 接尾語 〙 箱形の容器に入れたものを数えるのに用いる。
    1. [初出の実例]「心太が売れるといふものぢゃごんせぬ。もう朝の間に一と舟売りました」(出典:歌舞伎・男伊達初買曾我(1753)五)

ふな【船・舟】

  1. 〘 名詞 〙 ふね。多く、名詞や動詞の上に付いて複合語をつくる。「ふなびと」「ふなのる」など。
    1. [初出の実例]「ふねをよぶとき、ふなよふといふてよぶ」(出典:虎明本狂言・舟ふな(室町末‐近世初))

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「船」の意味・わかりやすい解説


ふね

船の定義


 もともと船とは「水に浮かして使用し、これに人や物を乗せて運搬するための構造物」で、英語でship, vessel, boat,canoe、フランス語でnavire, bateau, barque,canot、ドイツ語でSchiff, Fahrzeug, Boot,Kahnという。文明の進歩とともに、その構造や形態および用途などが広範囲になり、「水に浮く船」ばかりでなく、「水に潜る船」あるいは「水面から離れて空中を走る船」も出現した。また、「人や貨物を運搬する船」ばかりでなく、「人や貨物以外のもののみを乗せる船(家畜、液化天然ガス、加圧冷凍プロパンガスなどを乗せる)」「運搬以外の目的をもつ船」など、多面的に発展してきている。水に浮かして物を運搬する構造物ではあっても、木や竹を単に結び合わせてつくったものは筏(いかだ)とよんで区別されている。船は、基本的に構造物内に水が侵入しないように構成されているものをよんでいる。そして、小型のものから大型のものになるにしたがって、舟、艇、船、舶などの字をあて、軍用の船については艦の字をあてている。したがって、小型のものについては舟艇(しゅうてい)、端舟(はしぶね)、端艇(たんてい)または短艇(たんてい)などと書き、大型のものを船舶、大小を含めてよぶ場合には船艇、その軍用のものを艦艇とよんでいる。

 船舶については、日本では海事法規で次のように定義されている。まず船舶法施行細則においては、第1条に「本則ニ於(おい)テ船舶ノ種類ト称スルハ(1)汽船、帆船ノ別ヲ謂(い)フ (2)機械力ヲ以(もっ)テ運航スル装置ヲ有スル船舶ハ蒸気ヲ用ユルト否トニ拘(かか)ハラズ之(これ)ヲ汽船ト看做(みな)ス (3)主トシテ帆ヲ以テ運航スル装置ヲ有スル船舶ハ機関ヲ有スルモノト雖(いえど)モ之ヲ帆船ト看做ス」とあり、第2条には「浚渫(しゅんせつ)船ハ推進器ヲ有セサレハ之ヲ船舶ト看做サス」と定義されている。また海上運送法においては、第43条に「総トン数5トン未満の船舶、ろかい(櫓櫂)のみをもつて運転し、又は主としてろかいをもつて運転する舟」とあるが、これについては本法における規定を適用される船舶とはみなさずと定め、その基準以上のもので商行為をなす目的をもって航海の用に供する船のみを「船舶」とみなすと規定している。このように、法律の種類によって船舶の定義は異なっている。

 世界的には、イギリスのロイド船級協会がその統計資料に採用している100総トン以上の鋼船を船舶とみなしているのが一般的である。しかしながら、それらはそれぞれの目的に沿った規定をしているものであって、それによって一般論としての「船」の定義づけとするのは無理である。現在では一般に「水中・水上を問わず浮揚性を利用して物を積載し、移動可能なもの」と、柔軟な定義づけが必要といえよう。

[茂在寅男]

船の種類

船体材料による分類

古来実用的に用いられている船を造船材料のうえから分類すると、木船、合板船、木鉄交造船、鉄船、鋼船、コンクリート船、FRP(fiber reinforced plasticsガラス繊維強化プラスチック)船などがある。しかし、木船が小型船に用いられている以外はほとんどが鋼船である。

[茂在寅男]

推進原動力による分類

船は、それを動かす原動力によって、櫓櫂(ろかい)船(人力)、帆船(風力)、機帆船(補助機関付き帆船)、汽船(機械力)などに分けられる。汽船という名称は、機械力により推進されるすべての動力船を意味するが、狭義の汽船は、蒸気力で作動する往復機関か蒸気タービン機関をもつ船をさし、ガソリン機関やディーゼル機関をもつ内燃機船は機船とよばれる。

 推進機関別にみると、水車式の外車(外輪)やプロペラ(スクリュープロペラ)があるが、水車式の外車船はミシシッピ川などの一部の船以外には使われておらず、ほとんどがプロペラ推進を採用している。またプロペラ船には、プロペラのピッチを自由に変えられる可変ピッチプロペラのほか、フォイト・シュナイダープロペラなどがあるが、これらは特殊な小型船に用いられている。推進方式について広くみれば、このほかウォータージェット方式やホバークラフト、さらには超伝導リニアモーター船などが開発されている。

[茂在寅男]

用途による分類

戦闘を目的とする軍艦、商業を目的とする商船、特殊な目的に使用される特殊船の三つに大別される。漁船は、特殊船のなかの一つと考えられる()。

[茂在寅男]

船の浮揚と安定性

浮力

船はなぜ水に浮くかということについて、木の船が浮くのは理解できても、鉄やコンクリートの船が水に浮く点には若干の説明が必要であろう。物理学的にはアルキメデスの原理によって説明される。すなわち、「液体の中にある物体には、物体が押しのけた液体の重さに等しい力が上向きに働く」、いいかえれば「物体を浮き上がらせようとする力、すなわち浮力が働く」のである。鉄や鋼の比重は1よりも大きいため水に沈むが、船は船体の外板によって水が船内に侵入できなくなっており、また船内は大きな空洞になっているので、船全体の比重は1よりも小さくなるために水に浮く。この場合の排除された水の重さは船全体の重さに等しい。

[茂在寅男]

復原力

船が安全に航海するためには、単に浮くだけでは不十分で、横転したり転覆しないための安定性がなければならない。すなわち、波などによって船がある程度傾斜しても、もとの姿勢に戻る力がなければならず、この力を復原力という。復原力を得るためには、積み荷の有無にかかわらず、船全体の重心を低くすることが必要である。船が垂直のときは、浮力の中心(浮心)と重心とは船体の中心に同一垂直線上にあって安定している(図Aの①)。この場合、浮力と重力とは同じ作用線上にあって、反対方向を向いている。船がやや傾いたときは、重心の位置は垂直線上にあるが、浮心の位置は船体の傾きに伴って移動する。この新しい浮心から働く浮力の作用線(水面に直角な線)が、直立しているときの浮心と重心とを結ぶ線すなわち船体の中心線との交点をメタセンター(傾心)という。このメタセンターが重心よりも上にあるときは、船が傾いてももとに戻ろうとする力、復原力が働く(図Aの②)。逆に重心がメタセンターよりも上にある場合には、船はより以上傾斜しようとする、すなわち転覆する(図Aの③)。

[茂在寅男]

安定性

船の安定性は重心とメタセンターとの距離(メタセンターの高さ)によって決まる。メタセンターの高さが小さい船は重頭船tender shipまたはtop heavyといい、復原力が弱く、動揺は緩やかであるが、限度を超えると転覆のおそれがある。これに対してメタセンターの高さが大きい船は、波浪によって傾斜した場合、復原力は大であるが、限度を超えると動揺が激しくなる。これらのことを考慮に入れて、経験的にメタセンターの高さを中庸を得るように調節した船、すなわち動揺もあまり激しくなく、また十分に復原力をもっている状態に調節した船を安定船steady shipといい、航海にはこの状態が望ましい。

[茂在寅男]

船の構造と設備


 船の構造および設備については、各該当項目で細かく述べている。ここでは詳しい説明を避けたので、各項目を参照されたい。

[茂在寅男]

船体構造

貴重な人命と多額の財貨を乗せて運航する船は、十分な安全性と高い能率性が要求される。また鋼船においては、船舶安全法とその関係法規により、厳重な基準が定められている。

 船体の縦強力材には、キール(竜骨)、中心線ガーダー、サイドガーダー、縦隔壁などがあり、横強力材には、フレーム、内底板、フロア、ビーム、横隔壁などがある。この両強力材を結合するのが外板、甲板、船首材、船尾骨材などで、これらが組み合わされて堅牢(けんろう)な船殻ができている。また、船底を二重底にしたり、縦横の隔壁で水密区画を構成したりして、浸水を最小限にとどめるなどの安全対策を施している。そのほか、船体自体が風浪による動揺に強いと同時に、容易に傾斜したり、転覆する危険があってはならないので、各種減揺装置(ビルジキール、アンチローリングフィン、アンチローリングタンクなど)が設けられている(図B)。

 最近の船は、重心の位置をできるだけ低くするために船橋などの上部構造物に軽金属を使用するものが多く、ほとんどがブロック建造による造船を行っているため、工期が短く、船体自体も軽くなっている。また、船に当たる水圧や風圧を減らすため、船型およびマスト、煙突などを流線形とし、球状船首を採用するなど、船首や船尾を最適な形状のものにして、高効率を図る商船が多い。

[茂在寅男]

設備

船の重要な設備には、無線通信設備、係船設備(錨(いかり)、ウィンドラス、キャプスタンなど)、救命設備(救命艇、救命筏(いかだ)、救命浮環(ふかん)など)、消防設備(火災警報器、射水消火装置など)、操舵(そうだ)設備(舵(かじ)、操舵装置など)、載貨設備(デリックなど)などがある。また航法設備には、各種航海計器(コンパス、ログ、測深機、六分儀、ソナー、衛星航法装置、オメガ、ロラン、デッカ、レーダーなど)や船灯などがある。

 しかし、電波方位測定器から始まった各種の電波航法装置は時代とともに変化を続け、レーダー以外のオメガやロラン、デッカなども時の流れとともに新型の衛星航法装置に席を譲りつつある。20世紀末から21世紀初めには、全地球測位システム(Global Positioning System。略称GPS。航法用人工衛星からの電波を使って自分と衛星との距離を測定し地球上のどこでも現在位置を自動的に割り出す装置)や、DGPS(Differential GPSの略称。GPSを改良し測定精度を向上させ、陸上基地からの電波も加えたGSP方式。GPSでは誤差100メートル程度の測定精度だったものを誤差10メートル以下の精度にまであげた)が使用され、普及している。また、レーダー利用の面も加えたENC(Electronic Navigation Chartの略称。紙海図と同等な電子海図データベース)、さらにはVDR(Voyage Data Recorderの略称。操船に関する音声記録装置)なども設備されるようになった。

[茂在寅男]

船の歴史

船の発生
原始の舟

原始人が浮木につかまって水上を移動したであろうこと、さらに2本以上の木を結び合わせて筏(いかだ)とし、これに乗って水上を移動したであろうことなどは当然考えられることである。また地方によっては、水に浮く草、すなわちアシの類のものを結んで束にし、この束を何本か結び合わせて葦舟(あしぶね)としたであろうことも十分想像がつくところである。記録された絵または文書によって伝えられた古代の舟でもっとも古いものは、エジプトで発掘された花瓶に描かれているパピルスでつくった葦舟の絵である。したがって船の出現は、古代オリエント社会が生まれてから、すなわち紀元前5000年ごろより後のことになる。葦舟は、アフリカ内陸のチャド湖では、とくにカダイとよばれて使用されており、また南アメリカのティティカカ湖でも現用されている。1969年、ノルウェーのヘイエルダールが、パピルスアシでつくったラーⅠ世号およびⅡ世号による大西洋横断を、実験考古学の形で行ったことは有名である。

 次に現れたのが、皮袋筏ともいうべきケレークkellekで、前800年ごろのアッシリアのレリーフに図示されている。これは動物の皮を浮き袋にしたものであるが、それから発達して数個から数十個の皮袋浮きの上に板をのせて筏にしたものがつくられた。これは現在でも黄河などにおいて皮筏子(ピフアーツ、日本語読みではヒハイシ)として実用されている。この皮袋のかわりに陶器の甕(かめ)を使用したものが埴土船(はにぶね)であり、朝鮮半島やエジプト、インドなどに現存している。動物の皮を利用したものに、イギリスのウェールズ地方で使われたコラクルcoracleがあるが、これは軽いヤナギの細枝を編んだ骨格を包んで外皮を張った艇で、陸上では1人でこれを背負って運べる便利さがある。同じ原理のものに、北アメリカのミズーリ川沿岸の先住民が使ったブル・ボートbull boatがある。さらに同じ獣皮舟ながら堅牢(けんろう)にできているもので、大型のたらい舟の形をしているティグリス川のクーファkufaがある。またエスキモーの場合は、このようなたらい形ではなく、1人乗りのカヌー形ともいうべきカヤックkayakが用いられた。これは全長7~8メートル、幅50~60センチメートルの細長いもので、シベリア北東部に住むコリヤーク人もその小型の皮舟を用い、カヤックと称している。

 一方インドシナ半島では、タケを編んで外板をつくる竹舟あるいは竹籠(かご)舟が使われているが、その水密には家畜の糞(ふん)とやし油との混合物で目つぶしをしている。また、獣皮のかわりに木皮を使用した木皮舟などは、ボルネオやマゼラン海峡のフエゴ島などに伝えられている。

[茂在寅男]

木造船・構造船の登場

舟が発達し始めるのは、舟材に木を使用するようになってからである。水上での移動を容易にできる形に木材を成形し、上部に人が乗れるように木をくりぬいて凹部をつくる刳舟(くりぶね)、すなわち丸木舟(独木(まるき)舟)がこれである。丸木舟は、水上での安定をよくするために、舟から横木を出してその先に浮木をつけた形にしたアウト・リガー・カヌーout rigger canoeに改良されていく。これは太平洋の島々に広く伝えられて今日に至っている。日本でも八丈島や小笠原(おがさわら)諸島などで、現在でも使用されており、言い伝えでは日本の古語のまま「カノー」とよばれている。また浮木が左右両方にあるダブル・アウト・リガー・カヌーや、浮木ではなく同型の舟を2隻横に並べて固縛した双胴船(カタマラン船catamaran)がつくられ、洋上でも安定のよい船へと発達していった。この双胴船は、基本的には複数の木を結び付けてつくった筏の考えから生まれたということができる。日本においても古墳の壁画などにいくつかみられるところから、太平洋地域の広範囲にわたって使用されていたことが知られる。

 船体としては、1人乗りの小型のものから、長さ33メートルで80人も乗れる大型船の記録などが、すでに1770年代のキャプテン・クックの航海記のなかにもみえている。船型については、竹筒を二つ割りにした形の割竹形、その前後をとがらせたかつお節形、割竹形に似ているがその前後を傾斜させた箱形、それらを折衷した形の折衷形などがある。また外洋航海に適するためには、波に船首がつまずかないようにする必要があるので、船首尾を反り上げたゴンドラ形がつくられた。ゴンドラ形の単体舟や双胴船は、オセアニアに広く用いられたばかりでなく、日本でも使われていたことが、5世紀ごろの古墳壁画によって知ることができる。船体も大型になるにしたがって、丸木の刳舟のみでなく、何本かの木材を継ぎ合わせて長くしたものがつくられた。さらに、下部のみを刳舟とし、上部両側に波よけ板を張って船体を大きくする方式がとられるようになった。これを準構造船または半構造船とよんでいる。また、造船技術が発達するに及んで、船体の全部が刳舟の部分をもたずに、船底部や外板の構成材料を組み合わせてつくりあげた構造船へと変化していく。その発達の段階において、船材どうしを継ぎ合わせるのに植物繊維を使って縫い合わせる方式をとっていたものを、とくに縫合(ほうごう)船とよんだ。構造船になる段階においては、船釘(ふなくぎ)を使用して船材を結合する方式が採用されるようになったので、造船方式として区別するために、釘着(ていちゃく)船またはくぎづけぶねとよばれている。

[茂在寅男]

古代・中世の船

世界各地において、原始的な舟の形態はそれぞれ異なるものがあったが、基本的には刳舟から構造船への発達がなされてのちは、文明の差が生じていったのと並行して、地域ごとに異なる船の形態がそれぞれ別々な形で発達していった。物質文明の発達の遅れた地域では、初期の原始的な舟の伝統をそのまま保存し続けたが、ヨーロッパにおいてはエジプト、ギリシア、ローマの歴史の流れを追って、いわゆる西洋型船が発達していき、中東においてはアラブ型船が、そして東洋においては中国型船が、それぞれの特長をもって発達していった。日本の場合は、中国の影響を受けながらも、やがて独特の大和(やまと)型船をつくりあげていった。

[茂在寅男]

西洋の船

エジプトでは、前3000年ごろにすでにイチジクやアカシアのような木材を利用しての木船建造を行い、東地中海一帯の航海を行っていた。また、クフ王のピラミッドの周りから発掘された「太陽の舟」Solar boatの一部に、インドにしか存在しない木が船材として使われていたことから、当時すでにインドまでの航海がされていたものと考えられている。

 記録に残っている船としては、前16世紀にエジプトからプント(北ソマリア付近)まで航海したハトシェプスト女王の船が、テーベの神殿に描かれている。この船は、両側あわせて30人の漕(こ)ぎ手をもち、舵(かじ)は大型の幅の広い2本の舵櫂(かじかい)を使用している。横帆(おうはん)(追い風に有効なように、船首尾線に対して直角に張る帆)1枚を、船のほぼ中央に立てたマスト(帆柱)に垂直に揚げ、その上下端はヤード(帆桁(ほげた))で支えている。マストを何本もの静索(せいさく)(力をもたせて止めておくだけで、普通は動かさない索)で支えておき、展帆するときには上部のヤードをハリヤード(揚帆索(ようはんさく))で引き揚げるようになっている。またヤードは、その両端につけたブレース(帆綱(ほづな))で若干向きを変えられるようになっている。船体の大きさは、長さ21.5メートル、喫水線からマストの頂上までの高さが12.5メートル、乗組員約40人とみられている。古代において、これほどの船が使用されていたことは驚くべきことである。

 また、前1200年ごろのエジプトのラムセス3世の海上戦争のようすが石に彫刻されており、この時代の軍船について知ることができる。ヤードは船のほぼ中央にあるマストにT字形に固定され、帆は甲板上から索で操作できるようになっている横帆であった。両舷(げん)には高いガンネル(舷縁(げんえん))が張り巡らされていた。

 当時、軍艦は比較的小型で、しかも乗員(漕ぎ手)を多くして軽快な動きをするようにしていたのに対し、商船は乗員は少なく、船体を大きくして多くの荷物を積めるようにして、主として帆の力で動くという形をとっていた。したがって、このころから軍艦と商船との形態に相違が生じ始めたことがわかる。双方ともフェニキア人によって前2000年ごろから使用されていたが、地中海では前500年ごろからギリシアが活躍を開始する。ついでカルタゴがこれにかわり、前200~紀元後300年にかけてローマが覇権を握った。

 その間に発達した軍船がガレー船で、追い風のときにのみ横帆を揚げ、主として櫂によって漕ぐ方式の軍船であった。その櫂を上下に2段にした2段櫂船、さらに3段にした3段櫂船へと発達し、速力を競った。また船体を細長くして舷側を低くし、船首には水面下に衝角(しょうかく)という突出物をつけ、敵船に向かって突き進んで、水線下に穴をあけて沈めるという方法をとっていた。後代になると5段櫂船なども現れたが、実用上は3段櫂船までが限度だったと思われる。ガレー船の漕ぎ手は、普通20人程度、特別のものでも50人程度であった。

 商船については、ローマの穀物船の記録が参考になる。単純な1枚の横帆をメインマスト(主帆柱)に張って主帆とし、船首にフォアマスト(前帆柱)をもち、これに小さな横帆をかけて操舵(そうだ)の助けとした。しかしこのような穀物船は、船の積載量のみを増したこと、舵は櫂によっていたことなどから、操縦性は非常に悪かったといえる。

 中世初期のヨーロッパは、聖書の誤った解釈のために科学の衰微期であった。そのなかで、8~10世紀のノルマン人のバイキング船の活躍のみは、目を見張るものがあった。彼らは、荒れ狂う北洋の航海を主としたために、船を、地中海の航海にとどまっていたものよりもはるかに頑強にしなければならなかった。バイキング船は、漕ぎやすいように乾舷(かんげん)(船の横側で水面上に出ている部分)を低くした比較的小型の船であった。その一形式であるゴッグスタット船を例にとれば、長さ30メートル、幅4メートル、乾舷はわずか1メートル弱の船体で、キール(竜骨)を平らにすることで浅瀬や引き潮時に強く、船首は非常に高くあがっていた。また船尾も、暴風や波浪に耐えられるように船首に似た形にしてあり、船体はすべてオーク材でつくられていた。漕ぎ手は32人で、1枚の四角な横帆は追い風にのみ使用され、通常1日に150海里(約278キロメートル)は進むことができた。

 しかし、中世ヨーロッパにおける船の発達が計画的に行われて成功し始めるのは、ポルトガルのエンリケ航海王子の功績による。彼は、追い風のときにだけ横帆を開くバイキング船(北方型船)と、逆風に対しても船を風上へ切り上げることのできる東地中海レバント地方の三角帆を張る漁船(南方型船)とを組み合わせて、追い風にでも逆風にでも帆の力だけでいかなる方向へも進むことのできる船をつくったのである。漕ぐ必要がなくなったために、船を小さくしておく必要はなくなり、この時点からヨーロッパの船は急速の進歩を遂げた。

 エンリケの着想すなわち南方型帆装の採用については、彼によってまもなく改良が加えられた。まずマストを3本にして、各マストの帆は大きくなくとも船全体としては大きな帆の面積をもつようにされた。最初は3本のマストそれぞれに縦帆を張ったが、追い風のときには横帆のほうがはるかに効率がよいことから、フォアマストにだけ横帆をつけた。のちには1番前と2番目のマストに横帆をつけ、後方のマストにだけラテンスル(三角帆)を張り、逆風に強い南方型と追い風に強い北方型とをうまく組み合わせた。また横帆のヤードは、マストの周囲に自由に回せるようにして、横帆でありながら縦帆と同じように逆風に対しても前進しやすいようにくふうされた。3本マストに三つの縦帆をつけた船をラテン式キャラベル船とよび、前方のマストにだけは横帆を取り付けてほかを縦帆にした船をロトゥンダ式キャラベル船として区別したが、どちらもキャラベル船に違いはなかった。キャラベル船はのちにナオ船に発達するが、両者の間に正確な区別はなく、ナオ船もキャラベル船であるといえる。ナオ船は400トン内外にまで大型化し、さらにキャラック船として発達していき、イギリスへ伝えられた。またキャラック船は、15世紀の地中海沿岸における典型的な帆装形式となった。それがやがて大型化して武装商船となり、名称もガレオン船となる。これは、3層または4層甲板をもつ大型のもので、地中海武装商船として19世紀までも使われた。

[茂在寅男]

東洋の船

近東、中東、極東における中世の船について考える場合、まずアラビア人の用いたダウ船dhowがあげられる。その起源はいまから2000年以上前のこととされ、伝統のうえに16世紀以後のポルトガルの影響を受けて、木造ダウ船の今日の形が生まれたといわれる。ダウとはもともとアラブ以外の地においての呼び名であって(ダウの語源は古代メソポタミアの河舟の名との説がある)、アラブではサンブクsumbuk=sambuk、ブムbum=boom、ガンジャghanja、ジャリブトjalibutなどとよばれている。これらは紅海やアラビア海、ペルシア湾を含むインド洋西海域を活動圏としている木造船で、航海周期の必要条件としてモンスーン(インド洋季節風)と海流を利用するのが特徴である。これらのほとんどが50~60トン以下の小型船で、その帆装はおよそレバント地方の三角縦帆1枚の漁船と同系統のものである。

 インドでは、ガンジス川を中心として使用されているパタイルpatileとよばれる大型艀(はしけ)があるが、これは舵が釣合(つりあい)舵になっている点が注目される。一般の舵の場合、舵軸(だじく)に対して舵面(だめん)が軸よりも後方にのみ広がっているが、釣合舵の場合は軸より前方にも舵面がすこし広がっている。したがって、舵をとる際に軸の前方にも水が当たり、舵回転に要する力すなわち水の抵抗に逆らって軸を回すのに必要な力は少なくてすむわけで、やがてこの方式は現代の新型船にも多く取り入れられるようになった。

 中国では、紀元前2000年ごろからジャンクとよばれる帆船が用いられた。その造船技術は独特で、西洋から学んだところは見当たらない。船内を縦横に設けた隔壁によって仕切り、多くの水密区画を設けているのが特長である。これによって、ある区画に浸水したとしても船内全部に浸水することが防がれ、安全であることはもちろん、船体の縦横の強力を確実なものにする効果がある。また喫水が浅く、相当浅い所も自由に航行できるなどの利点がある。ジャンクにも河川用と航洋船とがあり、河川用のものには船底にキールはなく、平らな船底材のみであるが、航洋船の場合はキールに相当する垂直材が、船首から船尾にわたって取り付けられている。数本のマストに独特の変形台形の縦帆が各マストごとに1枚ずつ取り付けてあるため、いかなる方向の風に対しても軽快に操船できる性能をもっている。

 ジャンクの歴史は古く、現在も河川、港内で使用されているサンパンsampanから発達したものとされるが、紀元後8~9世紀ごろに出現した航洋性の高い南中国のジャンクも、当時すでに現在とほぼ同等のものに発達していたといわれる。

[茂在寅男]

日本の船

日本では、『古事記』や『日本書紀』に初期の古代船が出てくるが、遣唐使船や百済(くだら)式の船のような構造船が出現してくるのは7世紀以後のことである。300年近く続いた遣唐使の時代の後半における遣唐使船について推定してみると、船の長さに対して幅が非常に広かったという資料もあることから、全長は約30メートル、幅が約8メートル程度、150トン積み程度、1隻に120~140人ぐらいが乗っていたと考えてよいと思われる。船型については、中国のジャンクに学んだ日本製のものといえる。

 鎌倉時代になると、壇ノ浦で平家が用いた板張(いたばり)船、すなわち長さ約15メートルの御座船や約9メートルの戦さ船が出現した。この時点ですでに日本独特の和船が一般化していた。1274年(文永11)文永(ぶんえい)の役と81年(弘安4)弘安(こうあん)の役の際の元(げん)側の船が、長さ約30メートル、1500石積み(積載重量220トン)であったのに対して、日本側の船は長さ約9メートル、100石積み以下のものが大部分であった。その後の数世紀にわたる倭寇(わこう)に使用された日本船も、100石積みと推算されている。文永・弘安の役から約300年後の1592年(文禄1)の朝鮮侵攻の際に、豊臣(とよとみ)秀吉が九鬼嘉隆(くきよしたか)に命じて建造させた日本丸は、全長約34メートル、幅約12メートル、約1500石積み、櫓(ろ)100丁立てで、当時としては巨船であった。しかし、日本が海運発展に大きく活動を開始したのは御朱印船の時代であった。

 江戸時代に入り鎖国となると、これによってすべての海外発展は停止され、その後においては内航海運が栄えた。この時期に発達した船が大和(やまと)型船である。目的ごとに形式はいろいろあったが、その代表的なものが30~1000石積み、帆走と櫓櫂(ろかい)とで推進する菱垣廻船(ひがきかいせん)や樽(たる)廻船であった。前者は、甲板上に荷物を積んだとき、それが横から転げ落ちないように菱垣(木を斜めに菱形(ひしがた)に組み合わせた垣根)による囲い格子が取り付けてあったことから生じた名であるとされている。大坂から木綿や油、しょうゆなどを江戸へ輸送するのに用いられ、ほとんどが200~400石積みであった。後者は、摂津から樽に詰めた酒類などを江戸に運んだことからこの名ができたもので、菱垣廻船と樽廻船とはやがて劇的な輸送競争をすることになる。

 大和型船の構造は、およそ次のようになっていた。西洋型船のキールにあたる部分が航(かわら)または敷(しき)といわれ、船首すなわち舳(みよし)(または水押(みおし))および船尾すなわち艫(とも)とともに船体の中心縦材を形成するが、縦強力についてはそれらによらずに外板が担当する形になっている。外板は下部から、船底外板としての中棚(なかだな)、これに続いてすぐ上にくる外板としての上棚(うわだな)、さらにその上に波よけ板としての垣立(かきたて)が続いた。また船尾の横板で、航の尾端に接し、船尾の水防区画を形づくるところの戸建(とだて)(戸立)がある。船側左右に何本も突き出している船梁(ふなばり)が横強力を担当し、その上に板を張って梁甲板(はりこうはん)とした。

 大和型船は、地方により、また使用目的によって多くの名称をもっている。主として日本海側で使われた北前(きたまえ)船、ハガセという700~800石積みの平底船、1000石積みの船という意味の千石船(弁才船)などがそれである。ほかに、おもに近海のみに使用された材木運搬船としての団兵衛船(だんべえせん)、700~800石積みで梁上甲板艙(やぐら)に旅客を乗せる渡海舟(とかいぶね)といわれる客船などがあった。また、隅田(すみだ)川の屋形船のような川船が、市民生活に密着して使用されていた。

[茂在寅男]

発展期
大型帆船

西洋における帆船の発達は、ガレオン船によって一段階を画したといえる。その後に大航海時代が展開、1492年にコロンブスがアメリカ大陸に到達し、1519~1522年にマジェランが世界一周を達成した。その間に、ガマのインド航路発見やG・カボート、ベスプッチ、カブラル、バルボア、コルテスなどの有名な航海が続いた。また、1570年ごろから活躍し始めたイギリスの海賊ドレークはマジェランに次ぐ世界周航を果たし、やがて彼を中心としたイギリス海軍が1588年にはスペインの無敵艦隊を破るなど、海洋を舞台にした活劇を繰り広げた。この間に船は軍艦、商船を問わず大砲を備え、速力を競うようになったことで、それに応じた形に変化していった。この点でまったく皮肉だったことは、コロンブスのサンタ・マリア号、マジェランのビクトリア号、さらにはドレークのゴールデン・ハインド号のいずれも、その時点における二流の小型船であったことである。しかし、ゴールデン・ハインド号が軽快な動きによって動きの鈍い大型ガレオン船を破ったことは、後の快速帆船クリッパー型の出現への方向づけとなったことは確かである。

 ガレオン船は軍艦として発達したが、商船として確立したのはキャット・バーク船である。その原型は、北欧で使用されていた1本マストのコッグ船で、これを3本マストにし、フォアマストとメインマストには横帆3枚ずつを張り、ミズンマストと船首のバウスプリット(槍出(やりだ)し)とに三角縦帆を張る形をとり、ヘッドスル(船首帆)の改良がなされた。これが、1768~1779年のクックによる太平洋航海に使用された。

 東インド会社が設立された1600年以後、イギリスのインド貿易は盛んになり、そのために使用された貿易船がインディアメン船である。最初は堅牢(けんろう)のみを目的としたが、しだいに高速が要求され、高い船首楼や船尾楼は逆風のときにじゃまになることから低くした。その後、帆装には各国とも次々と改良を加え、18世紀末までにはそれぞれに発達型をつくりあげた。すなわち、ポルトガル、スペインのキャラベル船をはじめ、フランスではラガー、イギリスではカッター、オランダではヨット、そしてアメリカではスループが現れた。スループは、やがてスクーナーへと発達、19世紀になると大型になり、さらに木鉄交造船へと発展した。

 一方、横帆式帆船もしだいに発達、アメリカでクリッパー型の第一号船としてレインボー号がつくられ、続いて快速帆船が次々と改良発達し、19世紀における帆船黄金時代へと突入していった。

[茂在寅男]

汽船

アメリカ人R・フルトンが、ハドソン川で蒸気機関を使ったクラーモント号を航行(ニューヨークからオルバニーまでの約241キロメートルを32時間で航行)させたのは1807年であって、これが汽船実用化の第一歩となった。その後わずか5年の間に、フルトン型蒸気船は10隻に増え、ミシシッピ川にも進出した。これらはすべて外車船(外輪船)であった。1819年5月24日から6月20日まで、29日11時間かかって大西洋を横断したサバンナ号は、帆走と蒸気エンジンを使用しての航海であったが、いちおう蒸気船として最初に大西洋を横断(サバナ―リバプール間)したものとして記録された。これをきっかけとして、蒸気船が大洋航海をするようになった。

 初期の蒸気船は、船側外車船と、ミシシッピ川で伝統となった船尾外車船とであったが、1838年になって最初のプロペラ汽船アルキメデス号(長さ約33メートル、237総トン)が現れた。同船のエンジンは80馬力、毎分26回転で、プロペラは歯車装置により毎分139回転まであげることができた。プロペラ船が出現したことで、1845年、イギリス海軍が興味ある実験を行った。外車船アレクト号とプロペラ船ラトラー号の海上における綱引きである。両船とも800トン、200馬力で、その点では互角であったが、結局ラトラー号が勝ち、最終的には時速5キロメートル以上の速さでアレクト号が引きずられた。この実験を期に、プロペラ船の時代に入っていった。

 日本では、徳川300年の長期にわたる鎖国によって、外航船は完全に建造禁止となり、船の発達は非常な障害を受けた。しかし、その間に内航船が独特の発達を続けた。19世紀なかばになって、各国船が次々に来航するに及んで情勢が変わり、1853年(嘉永6)に大船建造禁止令が解かれ、幕府、水戸藩、薩摩(さつま)藩など各地で西洋型船をつくるようになり、一方では外国から船を輸入した。その造船にあたっては、外国の1冊の書籍を唯一の指針として、指導者も得られぬままの建造であった。たとえば、石川島造船所を設立した水戸藩がつくった旭日(あさひ)丸(長さ41.7メートル、幅9メートル、深さ7.2メートル、3檣(さんしょう)シップ型)などは、ボルト1本入手することができず、これを手作りするというような苦心をし、1854年(安政1)から4年かかってやっと完成した。このほか、薩摩藩の雲行(うんこう)丸(長さ16.4メートル)や以呂波(いろは)丸(長さ18.2メートル)なども、難行のすえに日本人の手で建造に成功した。その一方で、観光丸、幡龍(ばんりゅう)丸、咸臨(かんりん)丸、開陽丸、富士山丸、乾行(かんこう)丸、春日(かすが)丸、回天丸などが外国から輸入され、おもに軍艦として就航した。また幕府所属輸送船として、大鵬(たいほう)丸(木造外車汽船)、太平丸(鉄製外車汽船)、奇捷(きしょう)丸(プロペラ船)などが使われるようになり、和船から一気に汽船時代へと突入することとなった。明治新政府になってから、富国強兵策の努力が続けられたのに伴って、1870年(明治3)には日本全体で西洋型船舶保有量が汽船35隻、約2万5000総トン、帆船11隻、約2600総トンというものであった。

 その後、外国資本と日本の自力による海運の競争が展開し、日本は一歩一歩その地歩を築いていった。さらに日清(にっしん)、日露の両戦争を経て、船腹の拡大に大きな力が注がれ、1905年(明治38)には船腹量は1390隻、93万2780総トンに達した。1914年(大正3)から第一次世界大戦が始まると、異常な海運発展の機会となり、大戦開始直前には170万総トンの保有量だったのが、大戦終結時には300万総トンにまで増え、当時世界第3位の商船保有国となった。しかしその後、昭和初期まで世界景気が落ち、日本海運も試練の期間を過ごした。その救済と現状打破のために、日本政府は船舶改善助成の方針を打ち出した。これによって日本商船は、不況のなかにも、老朽船を排除して新鋭船の建造を進めた。その結果、推進機関はディーゼル機関が普及し、一方において豪華客船が出現、貨物船も高速化することとなった。

[茂在寅男]

豪華船時代

世界的にみれば、1820年にイギリスで鉄船が建造され、1879年に鋼船が出現したことで、鉄船、鋼船が急速に普及した。最初は往復動(レシプロ)機関のみであったが、1897年にイギリスで蒸気タービンを取り付けたタービニア号が試験船として生まれ、速力34.5ノットを出して普及の糸口をつくった。また、1893年にはドイツのディーゼルが無点火内燃機関を発明し、1905年から船舶用に使用され始めた。こうして、豪華船出現の条件は次々と整っていった。

 タービン船として1907年に建造されたイギリスの豪華客船モレタニア号(3万1938総トン)は、平均速力26ノット以上を出し、4日17時間(東航)で大西洋横断世界記録をたてた。航空機の発達以前、ヨーロッパとアメリカの間の乗客、物資の輸送においては重要な地位を占めたため、大西洋連絡航路はもっとも激しい国際競争の場となり、豪華客船の競争時代がその後20世紀なかばまでの長期にわたって華々しく展開された。

 ドイツではカイザー・ウィルヘルム・デル・グロッセ号(1世、2世)をはじめとする1万5000トンから2万トン級の船が次々と建造され、大西洋横断記録を誇るブルーリボンを独占した時代があった。イギリスはこれに対抗して、前記のモレタニア号と姉妹船のルシタニア号を完成させ、ブルーリボンを取り返した。その後もイギリスのホワイト・スター・ライン社は、4万5000トン級のオリンピック号(4万5324総トン)、タイタニック号(4万6329総トン)を建造、これに対しドイツではファーターラント号(5万4282総トン)以下3隻の5万トン級の豪華客船を大西洋航路に就航させた。この豪華船競争には、イギリス、ドイツばかりでなく、フランス、アメリカ、イタリアも加わって、客船はますます豪華になっていった。

 1936年イギリスのクイーン・メリー号(8万0774総トン)が完成したころ、ブルーリボンの記録はドイツのブレーメン号(5万1656総トン)、イギリスのオイローパ号(4万9746総トン)、イタリアのレックス号(5万1062総トン)などによって争われていた。またクイーン・メリー号よりひと足早く1935年に完成したフランスのノルマンディー号(7万9280総トン)は、大西洋を4日3時間28分で横断、ブルーリボンを奪った。しかしこの記録はすぐにクイーン・メリー号が更新(3日23時間57分)、さらに1952年にアメリカのユナイテッド・ステーツ号(3万8216総トン)がクイーン・メリー号の記録を破った。これらと相前後して、1940年にイギリスのクイーン・エリザベス号(1世、8万3673総トン)が就航、1961年にはフランスのフランス号(6万6348総トン)が就航した。さらに1969年にはクイーン・エリザベス2世号(進水時6万6851総トン)も完成した。

 豪華客船時代は、間に第二次世界大戦があったために一時中断されたものの、戦後まで続いたといえる。しかし、その後大きな変化があった。それは、航空機の発達による転換である。大洋の横断に時日をかける船よりも、短時間のうちに行き来できる航空機利用が主流となったのである。第二次世界大戦後50年間は航空機全盛時代であったが、それも一時的なものといえよう。世界的規模の戦争がなく、おおむね平和な時代が続いた20世紀末ごろから、人々に航空機利用による時間短縮の旅行よりも、豪華客船によるのんびりと優雅な巡航を楽しむという人も増えている。ある意味では、再度豪華客船の時代を迎えつつあるといえるだろう。

[茂在寅男]

日本の豪華船

1928~1929年(昭和3~4)にかけて、日本郵船所属の浅間(あさま)丸(1万6947総トン)級の3隻(竜田(たつた)丸、秩父(ちちぶ)丸)が建造され、太平洋を横断するサンフランシスコ航路に就航した。また同社所属の照国(てるくに)丸(1万1930総トン)級の2隻(もう1隻は靖国(やすくに)丸)が欧州航路に、氷川(ひかわ)丸(1万1622総トン)級3隻がシアトル航路に就航、さらに大阪商船所属のぶえのすあいれす丸(9625総トン)級2隻などが南米東岸航路に就航し、いずれも豪華客船としての設備を整えたものが次々と就航した。

 一方において貨物船の高速・新鋭化も着々と進み、船型の改良、ズルツァー型ディーゼル機関の採用などによる6000総トン以上、速力17ノット以上のものが続々と就航した。

 これに加えて1931年の満州事変から第二次世界大戦勃発(ぼっぱつ)までの間の戦争に備えての動きが、豪華客船と高速・新鋭貨物船の建造に拍車をかけ、その時点での日本の商船保有量は600万総トンに達していた。このころ、南米移民船として1939年にあるぜんちな丸(1万2750総トン)級2隻が、1940年には欧州航路船新田(にった)丸(1万7150総トン)級3隻などが就航した。しかし、1940年開催予定だった日本でのオリンピックにあわせて建造中だった大型客船出雲(いずも)丸や橿原(かしわら)丸などは、戦争に備えて航空母艦に改装されてしまった。

 日本の商船は、第二次世界大戦でかなりの打撃を受けた。これを補うために戦時標準型船による補充を試みたが、喪失船舶量は開戦時の保有量を上回る数字となり、883万総トンに達し、終戦時に残された船舶はわずかに134万総トンで、しかもその大部分は劣悪なものばかりであった。戦後における日本商船界の復興は加速度的にその勢いを増し、成功を収めた。その特徴を要約すると、(1)船舶の自動化、(2)大型化、(3)高速化、(4)専用船化にあり、それらが着々と効果をあげ実を結んでいった。

 1961年(昭和36)建造の金華山丸(8316総トン)が航洋船としての船舶自動化の第1船であり、それはのちにM0(エムゼロ)船(機関室無人船)へと進展していった。また船舶の大型化も進み、とくに油タンカーにおいてその傾向が強くなった。これは、小型船を多く使って原油を輸送するよりも、大型船1隻で同量の原油を輸送したほうがはるかに効率がよくなることが理由である。1975年に建造されたタンカー日精丸は、長さ360メートル、載貨重量48万4337トンで、大型化の代表といわれた。しかしこの傾向は、いわゆるオイル・ショックといわれた経済事情の変化以後、その行き足は止められた。

 タンカー大型化のもう一方で注目されるのは、コンテナ船の大型化である。コンテナ船では、1966年に建造された日本郵船の箱根丸(全長187メートル、積載能力750TEU。TEUはtwenty feet equivalent unitの略で20フィートのコンテナに相当する換算値)あたりから大型化が始まり、2000年時点では、日本郵船のNYK-CASTOR(全長300メートル、積載能力6148TEU)などまで出現している。

 高速化については、ブルーハイウェイラインの「さんふらわあ とまこまい」と川崎近海汽船の「ほっかいどう丸」(ともに1999年に就航、2007年引退)が東京―苫小牧(とまこまい)間を従来の30時間から20時間に時間短縮をしたように、陸上のトラック輸送に対抗するまでに形態を変えつつある。さらなるTSL(テクノ・スーパー・ライナーすなわち超高速船)の普及への努力が続けられている。

 また専用船化については、鉱石専用船をはじめ液化天然ガス輸送のためのLNG船(リキッド・ナショナル・ガス船)、自動車専用船(RORO船あるいはロー・ロー船ともいう。ロール・オン・ロール・オフつまり乗車したまま乗船して乗車したまま下船の意)、石灰石専用船、石炭専用船など数多く活躍している。

 日本商船の船腹量は、1978年において、日本船と外国用船とを合計すると、6531万総トン(日本船3303万総トン、外国用船3228総トン)という膨大なものとなった。しかしこのころから海運界に不況の波が押し寄せ始め、すべてが下降線をたどり始めた。1999年(平成11)の日本の商船隊の船腹量は、1996隻、6727万総トンである。一方、便宜置籍船といわれる外国用船は、船籍別にみるとパナマ籍1283隻(3808万総トン)、リベリア籍142隻(498万総トン)などがある。

[茂在寅男]

現代の客船

豪華客船時代がいったんは去り、世界の旅客のほとんどが航空機利用に転向し、海上移動による旅客輸送は減少した。しかし、1970年代末期から1980年代初頭にかけて、世界の客船に新たな傾向が現れ始めた。それは、たとえば大西洋や太平洋の定期横断客船というものが形を変えた、巡航(クルージング)のための客船すなわち巡航客船(クルーザー)の出現と普及であった。これは、アメリカにおいてはカリブ海、西海岸、ハワイなど、ヨーロッパにおいては地中海やスカンジナビアなど、オーストラリア方面では南太平洋の島々などを、客船によって巡航する船旅が新時代の余暇を楽しむ一つの方法としてブームになってきたためである。このため、クルーザーの建造が非常な勢いをもって進められた。一方では、引退係船されていた豪華客船の一部も新たにクルーザーとして改装され、船名も変えられて再度その華麗さを誇って檜(ひのき)舞台に登場するようになった。

 その第一の例は、フランス号を改装したノルウェー号(7万6049総トン)である。かつて大西洋定期横断客船の女王とうたわれたフランス号がル・アーブル港で5年間係船されていたものを、ノルウェーのクロスターズ・R・A社が購入、改装し、1980年当時、世界最大の客船ノルウェー号としてカリブ海クルーズに登場したものであった。同船を運航しているノルウェージャン・クルーズ・ライン社では、1999年時点でほかにノルウェージャン・スカイ(7万8000総トン)、ノルウェージャン・ドリーム(4万6000総トン)などを、ロイヤル・カリビアン・インターナショナル社では、ビジョン・オブ・ザ・シーズ(7万8491総トン)、ボイジャー・オブ・ザ・シーズ(14万2000総トン、2000年時点で世界最大の客船)、ラプソディ・オブ・ザ・シーズ(7万8491総トン)などを運航している。またアメリカのカーニバル・クルーズ・ライン社では、カーニバル・デスティニー(10万1353総トン)、カーニバル・トライアンフ(10万1509総トン)、イレーション(7万0367総トン)などのクルーザーをもち、イタリアのコスタ・クルーズ社はコスタ・ビクトリア(7万6000総トン)ほか数隻を運航させている。

 これらに対抗して、イギリスのキュナード/シーボーン社は、クイーン・エリザベス2世(7万0327総トン)、シーボーン・サン(3万7845総トン)、カロニア(2万4492総トン)などをクルーザーとして運航、P&Oクルーズ社は、アルカディア(6万3564総トン)、オーロラ(7万6000総トン)などを、プリンセス・クルーズ社はグランド・プリンセス(10万9000総トン、2000年時点で世界第2位の大きさ)などを運航している。

 クルーザー時代に入って、ギリシアもこれに続き、ギリシアではロイヤル・オリンピック・クルーズ社のオデッセウス(1万2000総トン)、オリンピック・カウンテス(1万8000総トン)など、セレブリティ・クルーズ社のギャラクシー(7万7713総トン)、マーキュリー(7万7713総トン)など、ゴールデン・サン・クルーズ社のエーゲアン・スピリット(1万7900総トン)などが運航している。

 また、アジアでは、シンガポールを拠点とするスタークルーズ社(1993年設立、急成長し2000年時点でアジア第1位、世界第3位の業績)が、アジア最大の客船スーパースターレオ(7万6800総トン)、スーパースターヴァーゴ(7万6800総トン)などを運航している。

 これに対して、日本の客船の場合はきわめて立ち後れの観が強い。2000年現在国内最大の外航客船飛鳥(あすか)(2万8856総トン)は、1991年(平成3)に就航したもので、郵船クルーズ(日本郵船全額出資の子会社)が運航、日本近海のクルーズに就航、1996年からは世界一周クルーズも行っている。ほかに日本クルーズ客船のおりえんとびいなす(2万1844総トン、1990年)、ぱしふぃっくびいなす(2万6518総トン、1998年)、商船三井客船のふじ丸(3代目にっぽん丸、2万3340総トン、1989年)、にっぽん丸(2万1903総トン、1990年)が運航している。これらの各船についてはここで詳細を述べないが、一例として「ぱしふぃっくびいなす」について記す。総トン数2万6518トン、全長183.4メートル、全幅25.0メートル、喫水6.5メートル、甲板数12層、主機9270馬力×2基、フィンスタビライザー(横揺れ防止装置)付き、造水器能力400トン/日、航海速力20.8ノット、航続距離7000マイル、客室数254室、乗客定員720名、乗組員180名である。

 また2000年時点での日本関係船(日本の会社の全額出資である外国の子会社の所有船を含む)の大型豪華客船として、クリスタル・シンフォニー(5万0202総トン、1995年)、クリスタル・ハーモニー(4万8621総トン、1990年)があり、ともに船籍はバハマ、日本での運航会社は郵船クルーズである。

[茂在寅男]

船の現状と将来

近代船

商船界、とくに日本における近代船の特徴は、「自動化」「高速化」「大型化」「専用船化」に力点が置かれていたことである。しかし、1980年代後半に入ると、国際的な経済情勢から、その特徴に若干の修正が加えられつつある。「自動化」についてはますますこれを進める傾向にあるが、「高速化」についてはいちおうの目的は達せられた観があり、航空機の輸送増大に見合って、船舶による旅客の輸送はもちろんのことながら、貨物の輸送についてもある限界以上の高速化の意義は薄れ、「省エネルギー化」へと方向が変わってきたといえる。また「大型化」の問題は、一つは豪華客船において、もう一つは油タンカーにおいてその傾向が強かったが、豪華客船については、クルーザーが主流になったのに伴って、無理をした高速船よりも快適な巡航速力をもつ船にかわり、それによって膨大な燃料の節約に意義をみいだす傾向になってきた。タンカーについては、オイル供給事情の変化により超大型船をつくる必要性が薄れ、制御傾向が現れてきたといえる。

 そして、これらの傾向を含んで全体的にいえることは、「省エネルギー化」に力点が置かれるようになりつつあり、さらに未来船への夢もそのような方向に進むと考えられることである。具体例として、まず第一に乗組員の少数精鋭化があげられる。外航船1隻の乗組員定員は、1949年には平均60人、1960年には40人、1965年には30人に削減された。1969年にはM0船(機関室無人船)が出現、乗組員少数精鋭化はさらに進み、1980年には平均20人となり、1987年では16人の近代化船も多くなり、1993年(平成5)から11人体制を実施した。また、日本籍の船舶保有から外国置籍の船舶増加に伴い、外国人船員の活用が進み、日本人船員の減少が続いている。1985年(昭和60)の日本人外航船員数は2万2536人であったのに、1999年(平成11)にはわずか3703人に減少している(運輸省海上交通局調べ)。外国人船員との混乗も進み、船員制度近代化委員会の提言に基づき、日本人船員6~7人体制による混乗近代化船を1995年より実用化している。

 一方において「省エネルギー船」としてとくに目をひくのは、コンピュータによって自動化された帆をもつ「帆走貨物船」の出現があげられる。この船の推進力はあくまでエンジンであるが、帆から得た推進力を加えて、その分だけエンジン出力を落として燃料節約をするもので、2000重量トン船を中心として多数用いられており、在来船と比べて40~50%程度の燃料節約に成功している。

 またバンカーオイル(船舶自体の消費する燃料としての重油)を節約するための手段として、大型の船で速力を落として運搬するほうが経済的であるとの考えから、20万トン以上の鉱石・石炭兼用船などが生まれた。速度を10%落とすことによって、燃料消費量は27%も落とすことが可能であることから、低速エンジンのギヤダウン方式の開発によって、同型船のバンカーオイル消費量に比して各航海ごとに70%節約に成功している。

 省エネルギーと「物流への取り組み」において、見落とすことのできない傾向は、いわゆる「モーダルシフトの推進」である。これは、国内の貨物輸送において、今までは陸上のトラック輸送が中心であったのを、内航海運と鉄道輸送を活用したモードにシフト(転換)しようとするもので、これが成功すれば二酸化炭素CO2公害の減少を期待できる。

 世界のおもな海運国のなかで大型外航客船については遅れをとっていた日本でも、1989年ついに商船三井グループのクルーズ船ふじ丸(2万3340総トン、乗客定員600人、2013年引退)と昭和海運の小型高級クルーズ船おせあにっくぐれいす(5218総トン、乗客定員120人、1997年に撤退)が完成、就航を開始した。日本初の本格的巡航目的の新造客船2隻が就航したこの年は「クルーズ元年」といわれた。当初ふじ丸は東南アジア、中国方面の周遊を行っていたが、その後は日本一周クルーズやオーストラリア、ニュージーランド方面周遊を行った。1990年、日本郵船でも4万9000総トン、乗客定員960人の豪華客船クリスタル・ハーモニー(アメリカのクリスタル・クルーズ社運航、同社は全額日本郵船の出資、船籍はバハマ。2006年郵船クルーズ所有の飛鳥Ⅱに船名変更)を就航させた。これに続き、1990年代に日本船および日本関係船として、にっぽん丸(3代目)、飛鳥、おりえんとびいなす、ぱしふぃっくびいなす、クリスタル・シンフォニーが加わり、巡航客船新時代に花をそえている。このほか国民レクリエーション用客船として、厚生年金や国民年金積立金利子によって3万総トン級船を建造する計画などがある。

 この国民レクリエーション用客船の関係事項として、「バリアフリー化の推進」が注目される。高齢者船客に適し、また障害者船客の利用に支障のない安全な船内設備や旅客船ターミナル構造を製作するという基本構想であり、あらゆる人々の利便性と安全性を目ざすバリアフリーの概念が船舶の世界でも関心をもたれている。日本では2000年5月10日に、交通バリアフリー法(「高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律」)が成立、同年11月15日施行された。青森県陸奥湾の蟹田―脇野沢航路(むつ湾フェリー)で就航している旅客船「かもしか」などは、バリアフリー設計の船の一例である。

[茂在寅男]

未来の船

主として内航の旅客輸送として広く普及した水中翼船も、1980年代中期には、全長40メートル以上、250人乗り、速力50ノット以上の性能をもつ艇も現れ、これはさらに発達の方向をたどっている。これと対抗するように出現したホバークラフトも、現在は重量が数十トン程度、乗客百数十人程度が限度である。しかし、空中プロペラ推進方式からウォータージェット推進方式にした新型ジェットホバーが出現しつつある。これは日本が世界で初めてであるが、速度よりも安定性を重視し、引き波などを消去することによって周囲の海面に迷惑を及ぼさないなどの特徴があり、内海や湖沼・河川での利用に期待がかけられている。また収容人員も1000人乗り程度にまで増加させることができるとされている。

 この種の新開発実用船の一つに、半没水型双胴船semi-submerged catamaran(SSC)「めいさ80(MESA-80)」の完成がある。その名は「台地」という意味で、「高波の中でも台地のように揺れない」ことを目的に設計され、全長35メートル、全幅17メートル、44人乗りである。すなわち、基本的に胴体を二つもつ双胴船であって、水没部と空中に出る船体部を縦に2段に分離した形につくられている。さらにこれに改良を加えて、推進方式を完全に新方式にする超伝導リニアモーター船の開発が進められつつある。これは、船底に取り付けた超伝導磁石が出す磁場に電流を流し、その反発力を推進力にするもので、プロペラを必要としない。2000年(平成12)時点で、未来船として期待されるものとしては、TSL(テクノ・スーパー・ライナー)などがある。TSLは超高速カーフェリーとして、2003年以降に就航予定である。

 このほか、船の動揺防止のための各種技術の考案や船舶用ブレーキの開発によって急速停止を可能にする装置、あるいは大型船の上部に別構造の小型船を積んでおいて、母船の沈没時に浮上して乗員の安全を保つ二重船の考案などもあり、未来船の多様性が考えられている。とくに、スワッス船Small Waterplane Twin Hull(SWATH)などは注目すべきといえよう。外観はカタマランによく似ている。簡単に説明すると、双胴船の船体を水面付近で水平に切断し、その下に前後に縦長の支持板を取り付ける。この支持板が、双胴部下に左右それぞれ2体づつある下部船体となる。合計4体の下部船体で、はるか上方にある船客の乗る船体部分を支える。支持板の下方は潜水船体となり、エンジンもプロペラもこの潜水船体についている構造である。荒波のなかでも船体はほとんど揺れず、操縦性もよい。このスワッス船の民間用第1号船はナバテック社(本社ホノルル)による「ナバテック1号」で、90総トン、全長43メートル、幅16メートル、喫水2.4~4.3メートル、巡航速力15ノット、最高速力18ノット、搭載人員400人、1991年ハワイで建造され2001年時点でも活躍している。スワッス船がアメリカ海軍用に開発され初めて使用されたのは1973年であったが、民間での営業が開始されたのは、1991年のナバテック1号が最初である。乗り心地もきわめて快適なので、将来性ある船といえよう。

 また、計器類のコンピュータ利用と自動方式の開発も進み、航空機における飛行記録装置と同じ目的の、航海中の重要データの記録を残すナビゲーション・レコーダーや、危険海域における波浪その他の自然条件の異常による船舶の危険をまえもって警報する装置などの開発が進められている。

 潜水船としては、日本では海洋科学技術センター(現、海洋研究開発機構)の「しんかい2000」(1981年完成)が潜水能力2000メートルであるが、6000メートル級の潜水能力をもつ「しんかい6500」が1989年に完成した。これは大幅に潜水能力をあげる画期的なもので、自走式としては世界最高である。

 船の推進原動力については、櫓櫂(ろかい)船、帆船、汽船、内燃機船、電気推進船、原子力船へと変化してきたが、今後さらに次のようなものが実現するであろうと思われる。

(1)無動力船ダイナシップ(DYNA ship) 帆走貨物船をさらに徹底した、帆走のみに推進力を依存する船で、旧西ドイツのウィルヘルム・ブロールスによって1973年に設計された。全長160余メートル、全幅21メートル、1万7000重量トンで、貨物を2万立方メートル以上満載しても、順風時平均12ノット、最大20ノットを出すことができる。

(2)無動力潜水船 アメリカのフォアマンにより発表された。潜水艇内には単に浮沈制御のための操作用バッテリーをもつだけで、あとは浮き沈みを繰り返して水中グライダーとして前進力を得る方式のものである。

(3)太陽電池船 シリコン半導体が示す光電効果により、太陽エネルギーを電気エネルギーに変換して船の推進力を得ようとするもので、ヨット程度の小型艇においてはある程度の成功を収めているので、今後に期待がかけられる。

 ここで注目すべきは、これら未来への試みが基本的には環境破壊を防ぐ方向に向かってなされていることである。船舶の運航が海洋汚染や空気汚染を引き起こさないことを目標として、いわゆるエコシップeco shipの建造促進に努力が払われている。タンカー船の事故による油流出防止のためのダブルハルタンカー(船の外板を二重張りとした油槽(ゆそう)船)や前章でとりあげたモーダルシフトへの転換などが、具体的な例である。未来船開発において、環境への配慮は、無視できない重要な要素である。

[茂在寅男]

文化史


 世界のほとんどすべての民族が船をつくり、船に関する文化要素をもつ。乾燥地帯では船の必要度が低く、船のない民族が多かったと感じがちだ。しかし、中央アジア、チベット・ヒマラヤ、北アメリカ南西部に船をつくらなかった民族がやや目だつものの、年降水量200ミリメートル以下の地域でも船をもたなかった民族はまれである。一方、年降水量が1000ミリメートル近くても船をもたなかった民族が多い南アメリカのブラジル高原やグラン・チャコは、船の文化の分布上の特異地域であった。船の利用が発達したのは、大河川下流域、湖、沼沢地、内湾、内海などであり、船以外の交通手段のない孤島では波の荒い外洋で風と海流を考慮して往復航行する特殊な技術が必要であった。また密林地帯では、内水面近くの冠水地などに限られる貴重な裸地=居住地間を結ぶ船の利用が、交通困難な陸路に比べて発達し、他方、穀物生産の盛んな乾燥地帯では舟運による大量穀物輸送が都市発達の不可欠の条件だった。

 ユーラシアの例をはじめとして、船の利用は民族移動、文化拡散の重要手段だった。インド洋での西・南アジア系航行者の早い時期の活動では、北大西洋でのバイキングと同様に横帆船を用いたので航路が限られたが、中世インド洋諸地域では、メラネシアで形成され、オセアニア全域での複雑な移動を可能にした逆風航行可能な縦帆(三角帆)技術が伝播して、より自由な移動が実現し、大航海時代の民族分布が形成された。熱帯アメリカでもバルサを用いた小舟を利用した人々がコロンブス到着直前の民族分布を完成させた。

 民族誌的報告は未開社会の丸木舟利用を強調するが、金属(鉄)器導入以前には、樹皮、アシなどを編んだ舟、細い木枠に皮、布などを張った舟、耐久性では劣るが加工の容易な直材(竹など)を束ねた筏(いかだ)などの、バスケット作り技術の延長にある工法で製作した小舟で移動する民族が多かったのだろう。木質に疎密のある天然材を用いた丸木舟を水に浮かべると不安定であるので、密林内の原木を幼樹期から整枝して均質材に成長させ、石器等で切り倒し、作業地点まで人力で搬出し、石器等で加工した丸木舟製作は、完成後の高い有用性によってようやく報われる困難な作業だった。丸木舟の原木に他の樹木と異なる特別な超自然的存在(祖霊など)が宿ると考え、作業の進行をこの超自然的存在に呼びかける儀礼なども発達した。安定性を確保するには木質の異なる部分材をバランスよく組合せた船がよいことは丸木舟製作者も理解していたから、木工技術が急速に進歩した金属器の利用開始後に木造船製作技術が急速に発達した文化が多かった。

 舟を棺に用いる舟葬(しゅうそう)には、遺体を乗せた舟を海に流すタイプと遺体を乗せた舟を地上(樹上、台上など)に安置するタイプとがあり、メラネシア、ポリネシア、ボルネオ(ンガシュ、ダヤクなど)を中心とする東南アジア各地、南アメリカにみられ、バイキングの事例は考古学的に著名である。オセアニア各地では悪霊を舟に乗せて流す加療儀礼も発達した。

 古代文化でも船は重要なモチーフだった。『ギルガメシュ物語』のウトナピシュティムの巨大な葦舟(あしぶね)は、ノアの箱舟の原形であり、エジプトでは古・中王国の舟型副葬品が有名で、のちにはラーの乗る黄金の船が考えられた。車をつけた船(山車(だし))を綱で引く祭りは環地中海地域で発達し、アジア各地に拡散した。死者の世界と現世を隔てる水面を渡る船に代表される他界・別世界とをつなぐ船の思想は諸文化に広く存在し、日本でも補陀落渡海(ふだらくとかい)、宝船、灯籠(とうろう)流しなどの信仰、慣行がある。また、特別な意味をもつボートレースも世界各地にみられ、中国の端午(たんご)の競渡(けいと)の一変形である長崎のペーロンもこの例である。日本ではこのほかに船乗りのさまざまな禁忌、平安期の竜頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の船、押しずしの容器を舟とよぶなどの文化要素がある。

[佐々木明]

『茂在寅男著『船と航海』(1972・ポプラ社)』『茂在寅男著『歴史を運んだ船――神話・伝説の実証』(1984・東海大学出版会)』『アティリオ・クカーリ著、茂在寅男他訳『帆船』(1981・小学館)』『茂在寅男著『船と古代日本』(1987・PHP研究所)』『茂在寅男著『遣唐使研究と史料』(1987・東海大学出版会)』『茂在寅男著『古代日本の航海術』(1992・小学館ライブラリー)』『アティリオ・クカーリ、エンツオ・アンジェルッチ著、堀元美訳『船の歴史事典』(1985・原書房)』『山高五郎著『図説日の丸船隊史話』(1981・至誠堂)』『上野喜一郎著『船の世界史』全3巻(1980・舵社)』『大林太良編『船』(1989・社会思想社)』『上野喜一郎著『船と海のQ&A』新訂3版(2001・成山堂書店)』『トール・へイエルダール著、国分直一・木村伸義訳『海洋の人類誌』(1990・法政大学出版局)』『木俣滋郎著『船のやじうま見聞記』(1990・成山堂書店)』『堀木与三著『海事概要』(1991・成山堂書店)』『吉田文二著『船の一生』(1991・講談社・ブルーバックス)』『土井全二郎著『客船がゆく』(1991・情報センター出版局)』『糸山直之著『LNG船』(1991・成山堂書店)』『エリック・ケントリー著、リリーフ・システムズ訳『船』(1992・同朋舎出版)』『海事交通システム研究会編『船・人・環境』(1992・山海堂)』『池田良穂著『新しい船の科学』(1994・講談社・ブルーバックス)』『M・クエスタ・ドミンゴ著、増田義郎・竹内和世訳『図説・航海と探検の世界史』(1995・原書房)』『米沢弓雄著『基礎航海計器』(1995・成山堂書店)』『日本海事科学振興財団船の科学館編・刊『未来の船』(1995)』『M・バターフィールド著、柳井知訳『船』(1995・学習研究社)』『安達裕之著『異様の船』(1995・平凡社)』『安達裕之監修『日本の船の研究』(2001・ポプラ社)』『ローレンス・オッテンハイマー著、久保実訳『海の冒険者』(1996・同朋舎出版)』『東康生著・写真『夢航海――豪華客船「飛鳥」世界一周クルーズ95日間の旅』(1997・実業之日本社)』『斎藤茂太監修『世界一周クルーズ夢航海』(1998・主婦と生活社)』『伊東椰子著『船が運んだ日本の食文化』(1998・調理栄養教育公社)』『森拓也著・写真『舟と船の物語』(1998・舵社)』『大阪商船三井船舶広報室・営業調査室編『海と船のいろいろ』(1998・成山堂書店)』『網野善彦・森浩一著『馬・船・常民』(1999・講談社学術文庫)』『福井淡著『基本航海法規』(1999・海文堂出版)』『伊藤雅則著『船はコンピュータで走る』(1999・共立出版)』『池田良穂・山田廸生著・監修『クルーズ100問100答』(2000・海事プレス社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「船」の意味・わかりやすい解説


ふね
vessel; ship

人や貨物を水上輸送するために用いられる運搬具。日本では船,舶,舟,艇などの字が用いられるが,舶は大型船に,舟と艇は小型船に,船は大小を問わず一般的に用いられることが多い。構造上から,(1) 筏 (いかだ) ,(2) くり舟,(3) 皮舟,(4) 縫合せ船,(5) 外板を釘で結合した形を保つためにあとから骨組みを組込んだ船,(6) 最初に骨組みをつくってそれに外板を張った船,の6種に,使用目的からは (1) 軍艦,(2) 商船,(3) 特殊船の3種に分類することができ,さらに材料上から木船木鉄交造船鉄船鋼船コンクリート船などに,推進方法によって櫓櫂船 (ろかいせん) ,帆船汽船モーター船 (内燃機船) ,原子力船などにそれぞれ分類することができる。
船として知られる最古のものは,前 6000年にエジプトの壁画に描かれた弓形の葦船で,前 4000年頃のエジプトでは筏や葦船の域を脱した形態の船がつくられていたことが知られている。初めは櫂で推進するだけであったが,やがて四角帆を備えて追い風を利用するようになった。前 1500年頃には,クレタ人とフェニキア人が軍艦と商船を使い分けるようになり,ガレー船と呼ばれる櫂で推進する細長い船が戦闘用に用いられた。前 700年頃のガレー船には上下2段の櫂が設けられていた。古代ギリシアにいたって,キール (竜骨) ,船首材,船尾材,フレームで骨組みをつくって外板を張る新しい造船術が確立した。ギリシア=ローマ時代には3段櫂のガレー船が導入され,速力が向上した。一方商船は,櫂のスペースを節約するため,推進力をますます帆に頼る設計になっていった。ローマの商船の帆は後方約 45度までの風を利用することに成功し,大いにその機動性を高めた。中世の地中海沿岸では,船体になめらかな外板が使われ,表面摩擦が著しく軽減できるようになった。これにより大型の商船をつくることが可能となり,大三角帆船が登場した。これは,帆桁の倒し方によって,三角帆のどちら側からも風を受けることができるため,四角帆と違って向い風でも進むことができた。一方バイキングは,船首と船尾が高く,厚板の頑丈な船体と,大きく丈夫で柔軟な一枚布の四角帆を備えた戦闘ガレー船を発展させた。 13世紀には,これを改良し商船化した小型船が地中海へ進出し,大三角帆船と交渉するようになった。やがて,両船の特徴をあわせもつガレオン船の前身となる大帆船が生れた。帆はより小さく効率的に改良され,四角帆と三角帆を組合せた古典的な形の艤装船の時代を迎え,商船と軍艦は再び同一の基本型をとるようになった。 14~17世紀のいわゆる大航海時代を迎えると船も飛躍的な進歩をみせ,15世紀中頃になって3檣 (しょう) 3帆の船が現れ,同世紀末には4本マストと8枚の帆を装備した船も現れている。 16世紀に入ると各国が競い合って多くの有名な船を建造,この間に構造や帆装にも多くの改善が施された。 19世紀なかば,帆船はその最盛期を迎え,流線型の快速船に姿を変えたが,19世紀末には蒸気船にほぼ取って代られた。
蒸気船は,1801年イギリスの技師 W.サイミントンがスコットランドのフォース,クライド両運河で引き船として実用化したのに続いて,6年後アメリカの発明家 R.フルトンが,ハドソン川のニューヨーク-オールバニ間で操業を始めた。当初その4分の1は帆船を引く作業であったが,まもなく世界で初めての蒸気船の定期運航が開始された。蒸気船が本格的に帆船と競うにはさらに数年の技術的進歩を要したが,50年には帆船と同じ速度で航行できるようになり,海洋進出も果した。初期の蒸気船は低圧エンジンを用いたため,動力を上げるにはエンジンを大型化するしかなかったが,70年には大型化は限界に達していた。このため,蒸気圧を上げるためより効率的な蒸気ボイラがつくられ,同じ蒸気を繰返し利用するエンジンが考案された。やがて蒸気をより大きなシリンダに送り込むことに成功し,1900年代初めには2万馬力以上の動力が実現した。一方,スクリュープロペラの完成で,波浪の高い外洋では不向きな外車船が姿を消した。推進力のうえでの大躍進は,1884年にイギリスの技師 C.パーソンズが発明した初の蒸気タービンに始る。タービンは往復蒸気エンジンよりはるかに効率的で生産が容易であったが,プロペラが早く回りすぎる欠点があった。この問題は 1910年頃,低速ギアが取入れられて解決した。軽量で効率的なタービンの登場によって,20世紀初めには大型快速船がつくられるようになり,さらに効率のよいディーゼル機関や,潜水艦の潜水時間を延ばした原子力蒸気タービンなどへと発展した。
帆船時代は木造のものが主流で,木製のキールに木製の肋骨を載せ,厚板を肋骨に釘で打付けていた。 18世紀に船底包板,のちには鉄の被覆が船体の保護に用いられた。初めて鉄船がつくられたのは 1818年で,船体は鉄の肋骨に支えられて打合された鉄板であった。 80年鋼船が鉄船を一掃し,1950年頃には船体の溶接が実用化された。 19世紀なかば以降,船はさらに大きさ,速度,安全性を増し,特に旅客船が北大西洋を頻繁に往来した。大洋定期便の時代は 1900年頃から第2次世界大戦勃発まで続いた。旅客船は戦後再開され 1950年代に最盛期を迎えたが,60年代に入って長距離ジェット旅客機の運航が確立されるとともに,その需要は急激に低下した。一方,戦後の国際貿易の拡大は貨物輸送を盛んにした。 19世紀末頃から穀物や石油などの必需品を大量に輸送する船が出現していたが,戦後,大量輸送船のなかでも石油タンカーは巨大化を続け,70年代なかばには 50万t級のタンカーがつくられた。一般貨物専用の輸送船も規格化が進み,積降ろしが容易にできるよう改良された。現在ではほかに,埠頭との間に架橋を渡し貨物を積んだ車両ごと積降ろしのできるロールオン・ロールオフ船,貨物を満載したはしけをそのまま格納できるラッシュ船などの特殊な輸送船も現れている。

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百科事典マイペディア 「船」の意味・わかりやすい解説

船【ふね】

人や物を乗せて水上あるいは水面化を航行する乗物。大型のものには〈船〉の字を,ごく小型のものには〈舟〉の字を用いることが多い。法規上はすべて船舶と呼ぶ。 最も原始的な船は(いかだ),丸木舟,皮舟の類で,古代エジプトのパピルスを束ねたものは最古の船の一つである。丸木舟を船底材にし両玄材をつけることなどから,木材による構造船ができ,次第に大型化し,凌波性も高くなった。地中海諸国のガレー船は大型手こぎ船の代表的なものといえる。帆船もかなり早い時期から発達(前4000年ころの絵に,すでに帆らしきものが描かれている),すぐれた航洋性により19世紀まで世界の海の花形となった。蒸気機関の船の推進への利用は19世紀初頭から始まり,1807年のフルトンのクラモント号は経済的に運航された最初の汽船として知られる。汽船は初め外車(外輪)で推進されたが,1839年のアルキメデス号以来,スクリュープロペラが採用されるようになった。また19世紀には汽船の出現とともに船体材料も変革され,木船から木鉄混淆船,鉄船を経て鋼船が主流となっていった。今日では蒸気機関は廃され舶用機関は蒸気タービン,ディーゼルエンジンが中心であるが,モータボートなどではガソリンエンジンを用いる。また水中翼船エアクッション船のような特殊な構造の船も実用化されている。 船は用途上,軍艦,商船,特殊船に大別される。商船は客船,貨客船,貨物船に分け,今日,貨物船はタンカーその他専用船の比重が大きい。特殊船には,漁船や,引船,砕氷船,クレーン船などの作業船のほか,海洋調査船,巡視船,練習船なども含む。このほか船体材料,構造,機関などから,また法規上,運航上などから分類され,多くの種類がある。 船は大きな中空の構造物で,常に激しい動的外力を受けつつ水上を航行するものであるから,強度,安全性,性能など,また商船では経済性,居住性に十分留意して設計,建造される。船体構造は強度と剛性が最も重要で,縦通材,肋骨(ろっこつ),隔壁などで縦横の骨格を組み立て,甲板,外板を張って船殻(せんこく)を形成する。商船は船級協会の造船規定に従って建造され船級を取得する。安全のためには復原力を大きくとり,隔壁を多く設けて浸水や火災などに備える。最小の費用で最大の速度と航続力を得るのが性能上の目的で,推進抵抗を少なくするため,船型はあらかじめ模型試験によって最良の形を定め,ほかに動揺に対する性能,旋回力などを考慮する。 船の大きさはトン数で示される(船舶トン数)。航海,居住,荷役などの船内諸設備は,船の使用目的に応じて艤装(ぎそう)されるが,最近は自動化への動きが顕著である。機関の自動制御をはじめ,船位・最適航路決定,座礁・衝突予防などの操船関係,故障の発見,荷役指示などを,コンピューターを積載して自動化し,乗組員数を大幅に削減する方向に進んでいる。
→関連項目船体構造

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