百科事典マイペディア 「茜部荘」の意味・わかりやすい解説
茜部荘【あかなべのしょう】
→関連項目大井荘
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美濃(みの)国厚見(あつみ)郡に存在した東大寺領荘園。現在の岐阜市南部の茜部を中心とした地域にあった。もと桓武(かんむ)天皇の勅旨田(ちょくしでん)であったが、809年(大同4)立券荘号(りっけんしょうごう)して厚見荘と号し、桓武天皇の皇女朝原内親王に譲られ、818年(弘仁9)その遺言によって東大寺に施入された。その後茜部荘と改号し、1103年(康和5)年貢を絹100疋(ぴき)、綿1000両と定め、学生(がくしょう)100人の衣装料にあてることとなった。施入時の面積は墾田(こんでん)117町339歩であったが、鎌倉時代初期の1214年(建保2)には見作田(げんさくでん)77町4反240歩と畠(はたけ)30町となった。1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱後、大江広元の第2子長井時広が地頭職に補任(ぶにん)され、以後その子孫が地頭職を伝領した。1223年(貞応2)には早くも地頭請所(うけしょ)が成立し、長井氏による在地支配が鎌倉末期まで継続したが、その間年貢の未進、遅済をめぐる所務相論がしばしば繰り返された。鎌倉幕府の滅亡により、1333年(元弘3・正慶2)後醍醐(ごだいご)天皇から地頭職が東大寺に寄進され、寺家一円支配が成立した。その後室町幕府によってふたたび地頭が補任され、1340年(興国1・暦応3)には東大寺と地頭の間で下地中分(したじちゅうぶん)が行われ、荘内の上村が領家方、本郷、下村が地頭方となった。東大寺は寺僧、公人(くにん)などを請負代官に任命して在地支配を行わせたが、守護以下の武士勢力の圧迫によって年貢額はしだいに減少し、その支配は文明(ぶんめい)年間(1469~1487)をもって終わった。
[小泉宜右]
『『岐阜県史 通史編・中世』(1969・岐阜県)』
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…また対国衙領以外に,荘園相互間や荘園と在地領主の私領との間の境相論も頻発していた。東大寺領美濃国茜部荘(あかなべのしよう)では,1117年(永久5)に西堺をめぐって源光国の私領鶉郷との境相論,41年(永治1)に東堺をめぐって大教院領市橋荘との相論,その翌年には南堺をめぐる尾張国衙領との相論,北堺をめぐっては故二位家領平田荘加納との相論というように,相次ぐ境相論に直面している。鎌倉幕府の成立に伴い,境界紛争の処理についての中世的体制が確立したが,それは次のようなものであった。…
…大山荘では1042年(長久3)〈四至の内,国使入勘すべからず〉との宣旨を獲得した。また東大寺領の美濃国茜部(あかなべ)荘では,53年(天喜1)荘司住人らは四至に牓示(ぼうじ)を打ち検田,収納,四度使の入勘と国郡差課の雑役の停止を申請し,翌年官宣旨によって認可された。この段階での不入権の承認は,国郡司でなく中央政府によってなされているのが特徴である。…
※「茜部荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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