茨城(読み)いばらき

精選版 日本国語大辞典 「茨城」の意味・読み・例文・類語

いばらき【茨城】

[一] (崇神天皇のとき、茨(うばら、後にいばら)の城(き)を造り、土賊を攻め滅ぼしたという伝説から) 常陸国の古郡名。常陸国府が置かれていた。現在の茨城県東茨城郡、西茨城郡南部、新治郡石岡市などにあたる。うばらき。むばらき。

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デジタル大辞泉 「茨城」の意味・読み・例文・類語

いばらき【茨城】

関東地方北東部の太平洋側の県。もとの常陸ひたち国全域と下総しもうさ国北西部を占める。県庁所在地水戸市。人口296.9万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「茨城」の意味・わかりやすい解説

茨城[県] (いばらき)

基本情報
面積=6095.72km2(全国24位) 
人口(2010)=296万9770人(全国11位) 
人口密度(2007)=487.2人/km2(全国12位) 
市町村(2011.10)=32市10町2村 
県庁所在地=水戸市(人口=26万8750人) 
県花=バラ 
県木=ウメ 
県鳥=ヒバリ

関東地方の北東部を占め,東は太平洋に臨む県。県域は南北方向に長いが,南部では東西にも広がっている。

茨城県の範囲は,かつての常陸国全域と下総国北西部からなる。江戸末期には常陸国に三家の水戸藩のほか,谷田部,牛久,麻生,下館,下妻,笠間,宍戸,土浦,府中,下総国北西部に古河,結城と家門,譜代を中心とした中小藩が置かれ,他に天領,旗本領などが散在していた。明治初年,天領,旗本領は常陸,上総安房,下総の知県事所管をへて若森県,宮谷(みやざく)県,葛飾県となり,松岡,志筑,松川,竜ヶ崎の諸藩が新設され,府中藩は石岡藩と改称し,谷田部藩は下野国茂木(もてぎ)に移った。1871年(明治4)廃藩置県をへて,茨城,新治(にいはり),印旛(いんば),木更津の4県に統合され,後2者が合併してできた千葉県の一部と新治県のうち常陸6郡を併せて,75年ほぼ現在の県域が定まった。

先土器文化の遺跡では,礫器(れつき)や石核石器を出した山方遺跡(常陸大宮市)をはじめ,各期の遺跡が東北地方との深い連絡のもとに県北山間部を中心に分布している。

 縄文文化各期の遺跡は霞ヶ浦,北浦を中心に,利根川,鬼怒川,小貝川,桜川を擁する県南・県西部に密に分布する。ことに貝塚は約300ヵ所知られ,千葉県に次いで全国第2位である。しかも多くは明治時代から発掘され,日本石器時代研究史上,大きな役割を果たした。《常陸国風土記》の巨人伝説で有名な前期の大串貝塚(水戸市),E.S.モースに指導を受けた飯島魁と佐々木忠次郎により日本人が初めて発掘した中・後期の陸平(おかだいら)貝塚(稲敷郡美浦村)など,それに椎塚(稲敷市),広畑(同市),福田(同市)など,後・晩期にはとくに大規模な環状・馬蹄形貝塚が発達し,漁労文化の盛行を示す。

 このように縄文文化の伝統の強い土地だけに,弥生文化も極めて縄文的色彩の濃いものが多く,全体的に東北地方との強い関連のもとに県北部に多く分布する。その代表例が中期の女方(おざかた)遺跡(筑西市)で,再葬土壙墓中の土器は縄文・弥生の〈接触式〉とよばれるほど縄文的色彩を強く残し,特異な人面装飾付土器が著名である。

 地方色の濃い弥生式土器文化も,3世紀末~4世紀初めになると南関東と同じ五領式の土師器文化にとってかわられる。須和間遺跡(那珂郡東海村)では,このころの方形周溝墓が調査され,古墳の発生の問題に一石を投じた。4世紀末から5世紀初めには,丸山古墳(石岡市)のような前方後方墳や鏡塚(東茨城郡大洗町)のような古式の前方後円墳が出現する。5世紀後半から6世紀前半には全長186m,東日本で2番目といわれる舟塚山(石岡市)のような大型前方後円墳や金銅製冠を出土した三昧塚古墳(行方市)が造られる。6世紀後半から7世紀前半には前方後円墳は規模が小さくなり,群集墳が多くなる。またこのころ虎塚古墳(ひたちなか市)のような装飾古墳も少なくない。幡横穴墓群(常陸太田市)のような横穴墓も県北を中心に造られる。馬渡(まわたり)遺跡(ひたちなか市)をはじめ埴輪製作址もいくつか調査されている。

 歴史時代の遺跡としては国分寺址(石岡市),新治廃寺・郡衙址(筑西市),常陸国衙址(石岡市)などが古くから知られている。近年では石井台遺跡(笠間市)のような集落址,鹿の子C遺跡(石岡市)のように,鍛冶関係・兵舎関係施設と思われる遺構が明らかにされ,国庁関係かと思われるような遺跡もみられる。尾崎前山遺跡(結城郡八千代町)のように鉄関係の大規模な遺跡も明らかにされつつあって,古代・中世の本県の様子も解明されつつある。
下総国 →常陸国

県内の地形は北部の山地,中央部から南部,西部にかけての関東平野北東部にあたる広大な台地,南東部の霞ヶ浦北浦と利根川およびその支流に沿って樹枝状にのびる低地に三分される。県北地方では阿武隈高地に属する多賀山地,八溝山地が広い面積を占め,また筑波山地が半島状に突出して常陸台地常総台地を分けている。阿武隈高地を多賀・八溝両山地に分断する久慈川は,かつては福島県中通りとの交通路として利用され,水郡線もこの谷に沿っている。この川は大子(だいご)町から常陸大宮市の旧山方町にまたがる個所に峡谷を配し,紅葉と冬の流水凍結で知られる袋田滝に代表される景勝地を核に,観光の対象になっている。多賀山地の東縁は海にせまり,海岸段丘,海食崖を配して風景美を形づくってきた。これらの南に位置する久慈川河口以南では海岸線の様相は一変し,利根川河口まで平滑な海岸線が続く。中でも大洗岬以南の砂浜海岸鹿島浦は,約70kmもつらなり,海水浴の適地である。天然の良港を欠くこの水域では,砂丘を掘りこみ,外洋に突出する大防波堤を建設し,1969年に開港した鹿島港の造成に伴って鹿島臨海工業地域が形成された。古くから水運に利用された那珂川は栃木県境部分で八溝山地を横断し,水戸市街の北縁を流れて鹿島灘に流入するが,河水の汚染が少なく,サケが遡上し,アユ漁も行われる。県南地方には霞ヶ浦(西浦),北浦,外浪逆(そとなさか)浦などの湖沼が分布し,台地と低地が主要部を構成する。日本第2の湖沼である霞ヶ浦では,利根川水域での海水逆流を遮断して水稲の塩害を防除する一方,鹿島臨海工業地域への用水補給を目的に建設された常陸川水門の完成(1963)以来,水質悪化が急速に進んだ。溜池化した霞ヶ浦では,市街地から流出する生活排水,養豚業に起因する屎尿の流入,さらに湖面で行われる大規模な養殖漁業に関わる排出物などによって多方面に悪影響が及んでいる。こうして自然に恵まれた茨城県は高度経済成長期以来,乱開発,工業化偏重の施策によって著しい変化をとげた。

茨城県は北海道に次いで全国2位の農業粗生産額があったが,1994年千葉県に逆転され3位となった。相対的に農業人口が高率である。これは県域の30%(1996)を占める耕地面積に加えて,近世,常陸国の主要部分を占めた水戸藩による農事奨励がその基盤にある。だが水戸藩が財政難に苦しんだ背景には,台地が多いため水田の拡張が難しかったことがあり,稲作を主としながらも水田面積が不足する状況が,地域経済の進展を妨げた。近世以来の特産物には結城市を中心とした結城紬(ゆうきつむぎ),筑西市の旧下館市周辺の木綿,笠間市の窯業,県内各地でのタバコ,西部の猿島(さしま)の茶,水戸の納豆などがある。また奥久慈地区でのコンニャクの生産は,山地の土地利用促進に役立ち,現在も群馬県下仁田地区に次いで特産地として知られる。また台地の畑作では,高度経済成長期までは,夏作のサツマイモ,冬作の麦が代表的な作物で,現在でも茨城県は大麦・小麦(全国5位,1996),サツマイモ(2位,1996)の大産地を形成する。明治以降,サツマイモの栽培と関連して養豚業が増加し,豚の飼養頭数は全国の6%強を占める(全国3位,1996)が,価格の不安定や霞ヶ浦などへの屎尿の流入による汚染などの問題をはらんでいる。近年首都圏の外郭に位置する茨城県の畑作は大きな変化をとげており,市街地拡大に伴って近郊野菜産地が外へ移動しているほか,施設園芸が普及して,気候条件に伴う制約が解消されてきた。県西地方のハクサイ,鹿行(ろつこう)地方(かつての鹿島郡,行方(なめがた)郡)のプリンスメロン,ピーマンなど,集団的な産地が形成されている。このように商品作物への指向が高まる中で,筑波山地とその周辺でもクリ(全国1位,1995),ミカン,カキ,ブドウの栽培面積が増加する一方,県北の渓谷ではリンゴ栽培が行われている。県の農産物の分布には,平地部は太平洋岸暖地気候の北限に位置し,県北の山地は東北地方的な冷涼気候に支配されるという立地条件が大きく影響を及ぼしてきた。また沖合は寒暖二流が合するためイワシサンマなどの好漁場をなし,那珂湊外港(1972完成)は遠洋のカツオ,マグロ漁業の基地となっている。内水面漁業は現在はふるわない。

県内での近代産業は近世末から明治にかけて,多賀山地東麓の常磐炭田南部の開発を契機として展開した。1890年代に常磐線(当時は日本鉄道海岸線)が全通して以来,京浜市場への近さから石炭鉱業は活発化し,エネルギー革命による廃山に至るまで約70年間,県北地方の経済に及ぼした影響は大きかった。また近世初期に開坑された赤沢銅山は江戸時代には十分な成果をあげず,1905年日立鉱山と改称してから発展した。大規模な精錬所が設置されたことが口火となって,1910年代には電気機械工業が発足し,20年日立製作所として独立した。第2次世界大戦時および高度経済成長期における工場拡張はとくにめざましく,日立地区,勝田地区(現,ひたちなか市)の工業化を促進したが,それが巨大企業1社の資本力で推進された点に大きな特色がある(1995年の日立市の工業出荷額は県全体の14%)。一方,日立地区,勝田地区にはさまれる形で展開する東海村の原子力産業は,50年代半ばに国有林で占められる砂丘上に立地した日本原子力研究所を核にしながら,原子力研究,商業的原子力発電における地位を強化した。今日,茨城県の工業出荷額は全国9位(1995)を占めているが,工業化推進に果たす鹿島臨海工業地域(鹿嶋市,神栖市)の役割は大きい(県の製造品出荷額の16%,1995)。鹿島臨海工業地域は,銑鋼一貫製鉄所,大規模火力発電所,石油化学コンビナートが一体となった重化学工業地域で,近世以来開発の遅れていたこの地域の人口流出を防止し,県民1人当り所得の増加をもたらした。だが反面,失われたものもまた多く,大気汚染,水質汚濁に代表される環境破壊,人心荒廃が新たな社会問題を生みだしてきた。

明治中ごろまで県内全域は,水路を介して江戸(東京)と強く結びついていた。とりわけ利根川系の河川・湖沼の果たす役割が大きかった。宝永年間(1704-11),独立した河川系統である那珂川を利根川系に運河で連絡しようと涸(ひ)沼(那珂川系)と巴(ともえ)川(利根川系)を結ぶ勘十郎堀(紅葉(もみじ)運河)が水戸藩によって計画されたが,失敗に帰した史実もある。水戸街道(国道6号線),日光街道(国道4号線)は,東北地方と江戸との文化交流のルートではあったが,多くの貨物を運ぶ動脈とはなりえず,1870年代末に利根川系の河川・湖沼に外輪蒸気船が就航すると,水運がさらに重要になった。97年,東京~平(福島県)間に常磐線が開通すると,旅客貨物の多くはこちらに移ったが,県西地方の主要部では1910年代当初,鹿行地方では20年代まで,内陸水路は主要な交通手段として機能し続けた。霞ヶ浦の場合には,75年まで定期航路が存続していた。

 ところが,1961年に常磐線の取手以遠電化(1963年に平まで延長)が完成すると,県南地方は著しい地域変容をきたした。京浜地方への人口集積現象が県南地方の住宅地化を促す一方,県外への通勤人口を著しく増加させ,土浦市以南の常磐線沿線市町村は,首都圏内のベッドタウンとなった。東北本線が市域を通る古河(こが)市の場合にも,同様の現象が著しい。筑波大学開設(1974)以来,国立試験研究機関の移設があいつぎ,80年代初めに至って輪郭がほぼ定まった筑波研究学園都市も,首都圏内50kmの位置にありながら交通の便が悪く,常磐線,常磐自動車道(三郷~常磐富岡間)の存在に支えられていたが,2005年8月,第三セクター鉄道つくばエクスプレス(正称,首都圏新都市鉄道,秋葉原~つくば間)が開通し期待されている。

茨城県内は自然的条件からみると,広義の県南と,県北,鹿行の3地方に区分されるが,社会・経済的特性,とりわけ都市化を尺度に加えると広義の県南は県南,県西に二分される。

(1)県北地方 水戸藩35万石の城下町から発展した県都水戸を擁する県の中心地域で,水戸以北では山地が卓越する。海岸部でも狭小な海岸段丘をみるにすぎないが,炭田・鉱山の開発,日立地区での近代工業発展を基軸に,県北地方の経済は支えられていた。県都水戸は生産的要素に乏しく,管理機能を介して人口を支えてきたといえよう。県北地方の農業は,今日でも主穀中心の色彩をもっている。

(2)県南地方 常総台地に広がり,畑作農業が卓越する。首都圏内50kmという条件から種々の影響を受けてきた。平地林の存在と結びつくゴルフ場の数多い立地,競走馬トレーニングセンター(かすみがうら市)もその現れである。ベッドタウン化現象が進行し,新住民“茨城都民”の集積が著しい。科学万博EXPO’85の開催地ともなった筑波研究学園都市は,新たな都市プランとして注目される。

(3)県西地方 常総台地西部を占め,畑作農業を基幹とする。利根川をまたぐ境大橋(1964),芽吹(めぶき)大橋(1958)の完成を契機に京浜地方との結びつきが強まり,近郊農村的色彩が濃くなった。県北地方とは筑波山地によって境される。紫峰(しほう)ともよばれ,古歌に著名な筑波山は,県西地方からの眺めが美しいとされてきた。筑波山および千葉県にかけての水郷地方は水郷筑波国定公園に指定されている。中心都市の機能は,大正,昭和以降下妻から,水戸線,真岡鉄道,関東鉄道常総線の分岐点である下館へと移った。

(4)鹿行地方 この地方は霞ヶ浦,北浦に代表される湖沼群によって地域が分断される傾向が今も強く,中心都市を欠き,農村的色彩が強い。利根川をはさんで相対する千葉県側に東京と結ぶ鹿島線(1970)が開通してからは千葉県との結びつきがさらに強まり,〈チバラキ〉の俗称さえ生じたほどである。この地域は1960年代以降,鹿島臨海工業地域の建設によって大きな変貌をみせている。
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茨城[町] (いばらき)

茨城県中央部,東茨城郡の町。人口3万4513(2010)。水戸市の南に接し,東茨城台地の一角を占める。町域の東に涸沼(ひぬま)があり,中央を東西に涸沼川が流れる。長岡,小幡は江戸時代は水戸街道の宿場町で,涸沼川沿いの海老沢には河岸が置かれ,東北諸藩の江戸廻米を陸揚げして下吉影まで駄送する内川廻りの要地であった。宝永年間(1704-11)に松波勘十郎によって巴川と結ぶ紅葉運河が掘られたが,難工事のため失敗した。従来,畑が耕地面積の6割強を占めていたが,涸沼の干拓や陸田の造成,畑の樹園化によって1975年には田の面積が畑を上回るようになった。米作以上に野菜の生産や畜産が盛ん。1960年代後半から国道6号線沿いに金属機械関係の工場が進出している。北関東自動車道のインターチェンジがあり,東関東自動車道が開通した。樹齢500年といわれる大戸の桜は天然記念物,円福寺の阿弥陀如来座像は重要文化財に指定されている。
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