精選版 日本国語大辞典 「茶室」の意味・読み・例文・類語
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茶事専用の施設。室町時代には囲(かこい)、座敷、茶の湯座敷などとよばれた。その後、数寄屋(すきや)とも称された。茶室あるいは茶室建築の呼称が普及するようになったのは近代のことである。なお、茶の湯専用の茶室に対し、茶屋は宴遊など広い用途を含むものである。
茶室とは茶事を行うための施設で、それは茶室という建築と露地(ろじ)とよばれる庭から成り立っている。茶室と露地とは一体となって形成され発展してきた。露地を含めて茶室建築とよばれることもあるゆえんである。
[中村昌生]
茶事専用の施設である茶室は、草庵(そうあん)風茶室の成立に始まるといってよい。村田珠光(じゅこう)(1423―1502)は新しい草庵の茶を確立したと伝えられるが、すでに足利(あしかが)将軍邸では殿中の茶が行われていた。そこでは、茶の湯棚を据えた「茶の湯の間」が設けられ、同朋衆(どうぼうしゅう)が茶を点(た)てて、座敷飾りをした客座敷に運ぶ形式であった。茶の湯棚には唐物(からもの)ずくめの諸道具が飾られ、格式と法式の厳重な構えの茶であった。
これに対し珠光たちの草庵の茶は、六畳、四畳半ほどの小室に、客と亭主が集うというサロンの形式で、茶を点てる亭主の座と客座とが一室に収められていた。それは狭いながらも畳が敷き詰められ、一間床(いっけんとこ)を備えた「座敷」であった。当時の町家(まちや)はまだ畳を敷き詰めていなかったが、茶室だけは床飾りのできる床敷の形式を導入していたのであった。
茶の湯は、客をもてなし「一座建立(いちざこんりゅう)」を楽しむ遊びである。ただし亭主は山中にわび住まいする草庵のあるじであることを前提としている。すなわち、世俗の饗応(きょうおう)でなく、すべて「出世間(しゅっせけん)の法」によって客を迎えもてなすのである。珠光の嗣(し)の宗珠(そうじゅ)が、京都・下京の家に設けていた茶室は「山居之体(さんきょのてい)」を表し、「市中の隠」と評されていた。茶室もまた「山居」の草庵のたたずまいを理想としたのである。
茶室に本格的な茶の湯の空間をまず確立したのは、武野紹鴎(たけのじょうおう)(1502―1555)の四畳半で、多くの茶人がそれを範とした。しかしその四畳半は名物(めいぶつ)持ちの茶室とされ、わび数寄を好む者は、床なしの茶室か、さらに狭い座敷をつくった。そして紹鴎から千利休(せんのりきゅう)(1522―1591)の時代へかけて茶室の草体(そうたい)化がくふうされていった。やがて利休は、名物(唐物)の権威に支配された四畳半の伝統を打破して、もっぱらわび茶のための茶室として二畳敷を完成した。それは待庵(たいあん)(国宝)にみるごとく丸太柱に土壁の完全な草庵の造りであった。簡素な素材による繊細で狭小な空間の中に、緊張感のみなぎる構成とともに深い精神性を漂わせ、わび茶の心意気を満たした。
豊臣(とよとみ)秀吉も二畳の小座敷を好み、大坂城や聚楽第(じゅらくだい)などに建てた。一方彼は黄金の茶室(三畳敷)を組立式でつくり、天下人の数寄を誇示した。また利休は、わび茶にしか使えない四畳半茶室をつくりあげたし、二畳から一畳台目(だいめ)へと小座敷の極小化をも試みた。そして茶の湯の深みは草庵にあり、二畳こそ草庵の茶の理想であると主張した。こうして利休による茶室のわび化が達成され、茶道界に草庵の小座敷が普及した。
利休後の茶道界は武家の茶匠が指導的役割を演じた。彼らは利休の茶をわびすぎたとして、それを緩めるべく、草庵風茶室にも新しいくふうを示した。古田織部(ふるたおりべ)(1544―1615)の好んだ燕庵(えんなん)形式の茶室は、相伴(しょうばん)席を付加し、色紙(しきし)窓や花明(はなあかり)窓などによる斬新(ざんしん)な意匠がくふうされ、そうした新時代の動向をよく反映していた。織部はまた、茶室と書院との間に鎖(くさり)の間を設け、それらを連ねて催す茶会の形式を推進した。これによって茶の湯と書院風な座敷飾りが結ばれた。この傾向は小堀遠州(こぼりえんしゅう)(1579―1647)によってさらに発展をみせ、りっぱな鎖の間が出現した。そして遠州は茶室の書院化を試み、密庵(みったん)や忘筌(ぼうせん)のごとき書院風茶室の名品を残した。貴族社会でも草庵の茶室はつくられたが、むしろ田舎(いなか)家風な茶屋の形式が喜ばれた。そこではくつろいだ構成や、自由で陽気な意匠感覚が、貴族の茶の湯空間を洗練させた。金森宗和(かなもりそうわ)(1584―1656)の作風はそうした貴族社会に歓迎された。遠州と同様の社会的立場を継承した片桐石州(かたぎりせきしゅう)(1605―1673)は、書院風な茶室に向かわず、あくまで草庵を基調にわびの造形の洗練を図り、公武の茶の支持を受けた。慈光院(じこういん)二畳台目茶室に彼の作風が躍如としている。
武家の茶の流行するなかで、千宗旦(せんのそうたん)(1578―1658)は利休のわび茶の側面を深化し、千家の代表的な茶室として床なしの一畳半を建てて不審庵(ふしんあん)とした。隠居後は二畳敷(今日庵(こんにちあん))を、ついで利休四畳半(又隠(ゆういん))を造立した。宗旦と3人の子によって確立された三千家(さんせんけ)は、利休流の茶を継承して現在に至っている。江戸中期には茶道の普及に対応して広間の茶室がくふうされるなど、時流に応じる作風の進展をみせた。
茶道の流派化に伴い、茶室にも自由な創意が失われ、作風が定型化に向かい始めた。このようなとき松平不昧(まつだいらふまい)(治郷(はるさと)、1751―1818)は、「諸流皆わが流」と達観し、古典を尊重しつつ、自由な作意を駆使してその再生を試みた。晩年の別邸大崎園(おおさきえん)(江戸・品川)はその優れた成果であったが、幕府の砲台築造のために破壊された。近代の数寄者たちは、こうした不昧の茶を範としながら、数寄を競ったのである。益田鈍翁(ますだどんおう)(孝(たかし)、1848―1938)の碧雲台や掃雲台は姿を消したが、神奈川県箱根町強羅(ごうら)公園内の白雲洞など近代の数寄者の風流をしのばせる遺構は少なくない。第二次世界大戦後は、伝統を継承する茶室とともに、数寄屋の近代化を目ざした建築家による新しい作風が台頭してきた。また椅子(いす)式(立礼(りゅうれい))の茶室も徐々に広まりつつある。
[中村昌生]
書院は「台子(だいす)」の茶を基本とする格式的な茶の世界をいう。座敷の形式としては広間であり、書院造風の意匠を基調とする。利休はこうした「書院台子」の茶を「栄華結構の式」と位置づけ、それを簡素化して「わび茶」すなわち「草庵」の世界を開いた。草庵の座敷といえば、小間(こま)をさし、書院造を草体化した丸太造りの軽快な普請をいう。
[中村昌生]
茶室の間取りはきわめて多様であるが、方形の四畳半を基準としている。そして四畳半以上の広さを広間、四畳半以下を小間と称する。四畳半はその造り方によっていずれにも属しうる広さである。
[中村昌生]
(1)躙口(にじりぐち) 露地口から中門を経て最後に到達する関門が躙口である。客は踏石の上にかがみ、敷居に手をつかえ一礼して高さ二尺三寸(約70センチメートル)、幅二尺二寸(約67センチメートル)ほどの口から茶室へ躙り入るのである。四畳半以下の狭い座敷も、躙口を隔てると大きな空間に見える。躙口には板戸がたてられる。その板戸は雨戸を切り縮めたような麁相(そそう)な造りで、そこにもわびの気持ちが込められている。最後の客がこの戸を閉めると、室内の明暗は窓だけによって支配される。躙口の板戸は、挟み敷居、挟み鴨居(かもい)という特殊な機構で開閉するようになっている。(2)貴人口(きにんぐち) 躙口に対して腰障子をたてた通常の上り口を貴人口とよんでいる。しかし高さは一般の出入口よりかなり低い。躙口とは別にこの形式を貴人用として開けたことから始まった呼称であろうが、躙口の有無に関係なくこの形式を貴人口と称する。(3)茶道口(さどうぐち) 点前(てまえ)のために亭主の出入りする口。枠をつけた方立(ほうだて)口の形式が多く、ときには壁をアーチ状に塗り回した火灯口(かとうぐち)(花頭口)にする場合もある。また二本襖(ふすま)の口にすることもある。高さは五尺一寸(約155センチメートル)ぐらいを標準とする。(4)給仕口(きゅうじぐち) 亭主が客座へ直接給仕に出る口をいう。間取りによっては給仕口がどうしても必要なことがある。火灯口の形式が用いられ、茶道口より低く四尺二寸(約127センチメートル)前後の高さを標準とする。
[中村昌生]
書院造の座敷では上段の間を「床」とよんだ。そこに押板や棚などがつくられて座敷飾りが行われた。客を迎える茶室にもそのような場所が必要であった。茶室ではそのために「床」だけが設けられた。貴人の座と飾りの場とを兼ねたわけだが、もっぱら飾りの場となった。もとは名物(唐物)だけを飾るところとされていたが、利休のわび茶が確立されるや、床のなかも土壁にかわり、客をもてなす亭主の温かい心入れを託することが床飾りの主題となった。それで客は席入りしてまず床を拝見する。床の飾りを通じて、亭主と客の心が触れ合い、茶事の興趣が高まるのである。
[中村昌生]
草庵風茶室に使われる窓は、下地窓(したじまど)、連子(れんじ)窓そして突上(つきあげ)窓である。
下地窓は壁を塗り残すことによってできる窓で、壁下地が露出している。縦・横の下地にはヨシ(葭)を使用するのが普通である。壁を一部塗り残すために弱まる壁体の補強の意味で、外壁にタケを添え立てる。これが力(ちから)竹である。位置、大きさ、形を自由に決定できる下地窓は、茶室の微妙な明暗の分布をつくりだすのに絶妙の機能を持ち合わせている。
連子窓には普通、竹連子が適当な間隔に打たれ、あふち貫(ぬき)(横桟)が添えられる。化粧屋根裏(掛込(かけこみ)天井)に突上げ式の天窓を開けることがある。朝茶のとき、白みかかる朝の光を導入するなど突上窓の扱いが茶事に風趣を添える。
なお、風炉先(ふろさき)に開ける窓を風炉先窓、床の脇(わき)壁に開ける窓を墨蹟(ぼくせき)窓、点前座の勝手付(かってつき)などに、上下に中心軸をずらして配置する二つの窓が色紙(しきし)窓とよばれる。
[中村昌生]
茶室の天井は一面に平たい天井(平(ひら)天井)の張られることもあるが、高低がつけられたり、化粧屋根裏が組み合わされることもある。一段低い天井を落(おち)天井と称し、多くは点前座に用いる。客座に対し亭主の座を謙虚に演出する。材料も平天井をイネ板張りとすれば、落天井にはマコモやガマなどが用いられる。天井を張らない形式が総屋根裏で、「わび」に徹した表現である。
[中村昌生]
茶室にはかならず炉が切られる。江戸時代以降、炉の大きさは一尺四寸(約42センチメートル)四方に定まっている。炉を切る場所として、点前座の中に切る向切(むこうぎり)と隅炉(すみろ)、外に切る四畳半切と台目切の四通りの方法があり、それぞれ本勝手(ほんがって)と逆勝手があるが、後者の実例は多くない。
[中村昌生]
台目切の場合は、たいてい炉の角に中柱を立て、袖(そで)壁をつけ、その下部を吹き抜き、点前座の袖壁の隅に二重棚をつる。これを台目構えとよんでいる。利休の創始したもので、棚物を使わない草庵独自の茶の構えである。そして中柱を中心とする変化に富む立体的な組立ては、草庵特有の構成美を放つ。なおこの構えは武家茶人も愛好し、書院茶室にまで活用された。
[中村昌生]
茶湯の準備をするところを水屋、勝手とよぶ。ここには簀子(すのこ)流しの上に棚をしつらえた水屋棚がかならず設けられ、必要な諸道具を並べる。このほか一隅に丸炉を切ったり、長炉を備えることもある。水屋で懐石の支度もしなければならないからである。
[中村昌生]
『重森三玲著『茶室茶庭事典』(1973・誠文堂新光社)』▽『井口海仙他監修『原色茶道大辞典』(1975・淡交社)』▽『中村昌生編『座敷と露地(1)(2)』(『茶道聚錦 七、八』1984、1986・小学館)』
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…その推進の役を果たしたのが千利休であった。利休の設計になる妙喜庵の茶室待庵は,利休好みの楽茶碗と相まって〈わび〉の造形の極点に立つものである。
[桃山美術の展開――後期]
いま述べたような永禄~天正年間(1558‐92)は,信長,秀吉による相次ぐ社寺,殿舎の造営に促されて,あらけずりながら桃山美術がその力強い骨格を築き上げた時期と考えられる。…
…饗宴は食事と酒を中心とする主従の固めの儀礼であり,また神を招いて神人共食する聖なる儀礼であって,茶会のなかにこうした要素は十分認められよう。茶道を芸能と考えるとき,芸能たる(1)思想と演出,(2)衣装と道具,(3)所作の型,(4)舞台,を茶道も備えていなければならないが,それぞれ(1)わび茶の思想と趣向,(2)茶道具と室礼,(3)点前(てまえ)と作法,(4)茶室と茶庭,としてすべて備えている。これらの要素を総合する茶道は世俗的な日常世界を脱却して,客と亭主の新たなる紐帯を求める寄合の芸能といえよう。…
…床板の上には香炉,花瓶,燭台からなる三具足(みつぐそく)を置き,床の間の両隣には書院と違棚(ちがいだな)を設けるのが正式である。このような書院造の床の間に対して,茶室や数寄屋にも書画を飾る床の間が設けられるが,この場合は形式はかなり自由に扱われ,樹皮のついた床柱や形の変わった床柱が使われ,内部を壁で塗りまわした室床(むろどこ)や洞床(ほらどこ),落掛から床の上部だけを釣った釣床(つりどこ),入込みにならず壁面の上部に軸掛けの幕板を張っただけの織部床(おりべどこ)など,多様な形式のものがある。江戸時代は庶民の住宅では床の間を作ることを禁じられていたが,18世紀の中ごろ以降になると,多くの家で座敷に数寄屋系の床の間を設けるようになる。…
…のちの住持,住職にあたり,また一般に僧侶の呼称ともなった。坊主衆
[武家の職名]
江戸幕府には同朋頭(若年寄支配)の配下に茶室を管理し,将軍,大名,諸役人に茶を進めることを職務とする奥坊主組頭(50俵持扶持高,役扶持二人扶持,役金27両,御目見以下,土圭間詰,二半場),奥坊主(20俵二人扶持高,役扶持二人扶持,役金23両,御目見以下,土圭間詰,二半場)100人前後,および殿中において大名,諸役人に給事することを職務とする表坊主組頭(40俵二人扶持高,四季施代金4両,御目見以下,躑躅(つつじ)間詰,二半場),表坊主(20俵二人扶持高,御目見以下,焼火間詰,二半場)200人前後があった(この職は大名,諸役人からの報酬が多く,家計は豊かで,そのため奢侈僭越に流れたという)。また茶室に関するいっさいのことをつかさどる数寄屋頭(若年寄支配)の配下に,数寄屋坊主組頭(40俵持扶持高,四季施代金4両,御目見以下,躑躅間詰,二半場),数寄屋坊主(20俵二人扶持高,御目見以下,焼火間詰,二半場)40~100人ほどがあった。…
…点心は軽食であり,小食はおつまみといえる。飲茶の専門店は茶楼,茶居,茶室の三つに分けられるが,一般的には茶館と呼ぶ。茶楼は規模が大きく比較的高級であり,茶居,茶室は規模がやや小さく大衆向きである。…
※「茶室」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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