華岡青洲(読み)ハナオカセイシュウ

デジタル大辞泉 「華岡青洲」の意味・読み・例文・類語

はなおか‐せいしゅう〔はなをかセイシウ〕【華岡青洲】

[1760~1835]江戸後期の外科医紀伊の人。名は震。あざなは伯行。古医方オランダ外科を学び、開業チョウセンアサガオ主剤とする麻酔剤を開発し、日本初の乳癌にゅうがん摘出手術に成功した。

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精選版 日本国語大辞典 「華岡青洲」の意味・読み・例文・類語

はなおか‐せいしゅう【華岡青洲】

  1. 江戸後期の医者。紀伊国和歌山県)の人。本名は震。字(あざな)は伯行。漢方および蘭方を学び、麻酔剤を開発、乳癌(にゅうがん)の手術に成功した。宝暦一〇~天保六年(一七六〇‐一八三五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「華岡青洲」の意味・わかりやすい解説

華岡青洲
はなおかせいしゅう
(1760―1835)

江戸末期の外科医。麻酔剤の開発を行い、麻酔下に日本最初の乳癌(にゅうがん)手術を行うなど積極的治療法を推進した。宝暦(ほうれき)10年10月23日、紀伊国(きいのくに)上那賀(なが)郡名手庄西野山村平山(和歌山県紀の川市西野山)に生まれる。名は震、字(あざな)は伯行、随賢と号し、また居所の名をとって春林軒ともいう。父は村医者であった。23歳で京都に遊学吉益南涯(よしますなんがい)(1750―1813)から古医方を、大和見立(やまとけんりゅう)(1750―1827)にオランダ、カスパル流外科を学び、在洛(ざいらく)3年ののち帰郷し家業を継いだ。古医方派の実証主義をとり、「内外合一、活動究理」、すなわち内科・外科を統一し、生き物の法則性を明らかにすることを信条として、積極的な診療技法を展開した。彼の開発した麻酔薬「通仙散」は、マンダラゲ(チョウセンアサガオ)を主剤とするもので、ヨーロッパの薬方に採用されていることを知ったのがヒントになり、中国医書を参考に改良を加えたものである。成分の配合と麻酔効果の関係を研究するため、たびたび被験者として協力した母は、おそらくその中毒によって死亡、妻も失明した。この麻酔薬を用いて多くの手術を行ったが、1804年(文化1)10月13日、紀州五條(ごじょう)の藍屋(あいや)利兵衛の母、勘に行われた乳癌摘出手術は日本最初である。手術は成功したが、患者は翌1805年2月に死亡している。このほかに乳癌手術だけでも150例ほど行っている。門人録に署名しているもの305人、広く全国から入門が相次いだ。天保(てんぽう)6年10月2日死去。

中川米造

『呉秀三著『華岡青洲先生及其外科』(1923・吐鳳堂書店/複製・1994・大空社)』『松木明知著『華岡青洲と麻沸散――麻沸散をめぐる謎』(2006/改訂版・2008・真興交易医書出版部)』

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改訂新版 世界大百科事典 「華岡青洲」の意味・わかりやすい解説

華岡青洲 (はなおかせいしゅう)
生没年:1760-1835(宝暦10-天保6)

江戸中期の医家で,華岡流外科の創始者。初期の全身麻酔の実施で有名。紀伊国平山(現和歌山県紀の川市,旧那賀町)で生まれる。震(ふるう),伯行,雲平,随賢ともいった。父もオランダ外科を学んだ医師。1782年(天明2),京都に出,吉益南涯(よしますなんがい)に古医方を,大和見立(けんりゆう)にオランダ外科を学んで,85年帰郷,家業を継いだ。のち再び京都に出たが,同地での体験をもとに,マンダラゲ(曼陀羅華)配合の内服全身麻酔剤〈通仙散〉を案出,妻による人体実験で臨床薬理学的検討を加えたうえ,1804年(文化1)10月13日,初の本剤使用による乳癌摘出手術に成功した。これは,モートンらの発案になるエーテル麻酔法に40年ばかり先立つものであった。その後も他の部位の癌,奇形,結石などの手術を行ったが,やはり乳癌の手術できこえ,各地から患者が集まった。そして,この華岡流外科を学ぶためにほぼ全国から入門者があった。弟子第1号は中川修亭だが,ほかに本間棗軒(そうけん)(水戸),難波抱節(備前)らが著名である。学塾を春林軒という。漢・蘭医方を折衷した外科で,〈内外合一・活物窮理〉がモットーであった。臨床記録以外にはみずから著書を残さなかったが,門人たちによる写本が流布した。19年(文政2)紀州藩の小普請医師,さらに33年来奥医師格となる。弟の良平(鹿城)も大坂で医業を行い,青洲のあとは次男の修平が継いだ。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「華岡青洲」の意味・わかりやすい解説

華岡青洲
はなおかせいしゅう

[生]宝暦10(1760).10.23. 紀伊,平山
[没]天保6(1835).10.2. 平山
漢蘭折衷医方の大家で,華岡流外科の創始者。通称随賢,名は震,字は伯行,青洲と号した。医家に生れて京都に遊学,吉益南涯に内科,大和見立に外科を学び,紀州に帰って内外合一,活物窮理,漢蘭折衷を唱え,華岡流外科を樹立したという。 1000人あまりの弟子がおり,文政2 (1819) 年在宅のまま藩侯の医師,次いで侍医となった。弟子の筆録には,鎖肛,鎖陰,乳癌などに外科手術を行なった記録がある。トリカブト,チョウセンアサガオ (マンダラゲ) を主成分とした通仙散という麻酔薬を実用したことは,妻が試験内服して失明した逸話とともに名高い。後世に青洲の著述が多く伝わるが,いずれも写本で,門人が筆記したものばかりである。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「華岡青洲」の解説

華岡青洲 はなおか-せいしゅう

1760-1835 江戸時代後期の医師。
宝暦10年10月23日生まれ。吉益(よします)南涯に古医方,大和見立(けんりゅう)にオランダ流外科をまなぶ。紀伊(きい)那賀郡(和歌山県)西野山村の生家にかえり,医業をつぐ。経口麻酔剤の麻沸湯(まふつとう)(通仙散)を開発し,文化元年日本初の全身麻酔による乳がん摘出手術に成功した。天保(てんぽう)6年10月2日死去。76歳。名は震(ふるう)。字(あざな)は伯行。通称は随賢。著作に「灯下医談」「瘍科鎖言(ようかさげん)」など。
【格言など】内外合一,活物窮理(信条)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「華岡青洲」の解説

華岡青洲
はなおかせいしゅう

1760.10.23~1835.10.2

江戸後期の外科医師。父は医家の直道。名は震(ふるう),通称は随賢,青洲は号。紀伊国西野山村(現,和歌山県紀の川市)平山生れ。京都で吉益南涯(よしますなんがい)に本道(内科一般)を,大和見立(けんりゅう)に紅毛流外科を学ぶ。3年後,帰郷して家業を継ぐ。創意実験のすえ全身麻酔剤の通仙散を作り,1804年(文化元)10月13日全身麻酔下ではじめて乳癌摘出手術を行った。多くの門弟を指導し,近代外科学の基礎を作った。著書はないが,門人の記録した口授本は多い。墓所は紀の川市の華岡家墓地。

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百科事典マイペディア 「華岡青洲」の意味・わかりやすい解説

華岡青洲【はなおかせいしゅう】

江戸後期の外科医。名は震(ふるう),号は随賢。紀伊国平山村の人。青年時代各地で古医方と洋方外科を学び,故郷で父の医業を継ぎ,1804年世界最初の全身麻酔手術(乳癌)に成功した。その他多くの手術法を創案,門人はきわめて多く,一生平山村で診療に従事した。
→関連項目麻酔

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367日誕生日大事典 「華岡青洲」の解説

華岡青洲 (はなおかせいしゅう)

生年月日:1760年10月23日
江戸時代中期;後期の漢蘭折衷外科医
1835年没

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