「華族」「花族」の読みについては、古くから漢音読みの「クヮソク」、「族」を呉音読みした「クヮゾク」の両用が行なわれた。これに加えて、中世から「クヮショク」という読みが現われるが、これはソク(漢音)をショクの直音表記と誤認したことに基づくものである。
華族はもともと清華(せいが)(清華家)の別称だったが,1869年(明治2)の版籍奉還により,従来の公家と諸侯を合わせて華族と称し,士族の上位におかれて,天皇より四民の範となるよう諭された。71年の廃藩置県で華族は政治的特権を失った。また,海外へ洋行する者も多く,同年の岩倉使節団に同行した留学生には多数の華族が含まれていた。この使節団はヨーロッパの貴族制にも関心を払い,これは帰国後の岩倉具視や木戸孝允らの対華族策となった。74年創立の華族会館(当初は当時の全華族427家中の約4分の1が参加。1876年開館)は,華族組織化の第一歩であった。76年,華族は6部に分けられ,正副督部長および部長がおかれ,督部長に岩倉,副督部長に池田慶徳がなった。同年,華族は宮内省所管となり,〈華族類別録〉が編製され,78年完成,刊行された。これでは華族は皇別・神別・外別に分けられている。この間,75年設立の元老院には有功の華族を議官に任じ,また,華族教育のために学習院が77年に開校された。
すでに岩倉具視は,岩倉使節団の米欧回覧時,鉄道敷設に関する意見書を提出していたが,華族を中心に出資された日本鉄道会社が,政府保護下に1881年設立された。また,華族の金禄公債証書を資本とした第十五国立銀行も,77年につくられた。これは国立銀行条例によるものであるが,俗に華族銀行と呼ばれ,特別な保護を政府から受けていた。
1884年7月7日,華族令が出された。当初は10ヵ条だが逐次追加され,1907年に全面改正された(全28条)。華族令は華族を公・侯・伯・子・男の5等の爵位に分けた。公爵は五摂家と徳川旧将軍家のほか維新に勲功のあった公家や旧藩主など11家,侯爵は旧清華家と中山家および15万石以上を原則とし,維新に功のあった旧藩主と旧御三家および大久保・木戸家など24家,伯爵は5万石以上,旧三卿など,子爵は5万石未満の旧藩主と大臣家以下の公家と士族の功臣など,男爵は公家・諸侯の支族分家の特別な者,1868年に諸侯に列せられた者,大社・大寺の神官・僧侶ならびに特別な功臣の子孫などであった。84-87年に華族となった者は,総数で566名,うち旧華族483名(旧華族の分家などを含む),新華族83名で,新華族は薩長出身者が過半を占めた。この華族の創出は,近代天皇制において,これらの華族を皇族の〈藩屛〉にするためであった。したがって,ヨーロッパの貴族が,王権に対して事実上相対的独自性をもっていたのに対し,日本の華族は,維新当初いったん特権を否定され,近代天皇制強化のためあらためて創出された存在だったのである。この華族は〈大日本帝国憲法〉(1889)で貴族院に組み込まれた(34条)。華族には政治的,社会的,経済的特権が与えられたが,そのおもなものは,礼遇,世襲財産,家範の制定などが認められ,また,30歳以上の公・侯爵は全員,伯・子・男爵は互選によって貴族院議員になることが認められていた。また,1910年の韓国併合にあたっては,華族令に準じた〈朝鮮貴族令〉が制定された。これらの華族は敗戦後の〈日本国憲法〉の施行(1947)で消滅した(14条2項)。ちなみに,28年の華族数は956家(公爵18,侯爵40,伯爵108,子爵379,男爵411。《現代華族譜要》による)とされ,戦後の消滅時は,913家が数えられている。
→士族
執筆者:田中 彰
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明治以降の特権的貴族層を主としていう。明治以前は公卿(くぎょう)の摂家に次ぐ家格である清華家(せいがけ)の別称である。1869年(明治2)6月版籍奉還後、従来の公卿、諸侯の称を廃してすべて華族とし、新しい身分階層を設けた。このときの華族数は427家。1871年廃藩によって旧諸侯の藩知事は東京居住の華族となり、武家、公家(くげ)の華族の別がなくなった。そして皇族華族取扱規則を定めるとともに、四民の上にたち、国民の師表たることを諭達され、また家禄(かろく)も政府から支給されることになった。1874年6月には華族内部の団結と交友のため華族会館が創立されたが、廃藩後政治的実権を失った華族層の覚醒(かくせい)を促す意味もあり、子弟教育のために、1877年学習院を開校した。1884年に華族令が制定され、これにより従来の華族に加えて、国家に勲功のあったとされる政治家、軍人、官吏、実業家などが新たに華族の列に加えられた。爵位は、公、侯、伯、子、男の5段階に分かれているが、公家は旧来の家柄、旧諸侯は旧領石高をほぼ基準としてランクづけられ、勲功華族は薩長(さっちょう)など藩閥出身者が多く、しかも高位に叙爵された。華族令の制定には伊藤博文(いとうひろぶみ)らの尽力があったが、国会開設を控えて、華族を貴族院議員とする構想があり、そのためにも勲功新華族の創立が必要とされたのであった。明治憲法と貴族院令の制定により、公侯爵全員、および伯子男爵は互選で貴族院議員となると定められ、新たに政治的特権が付与された。そのほか華族の特権としては、家督相続人の爵位の世襲制、「華族世襲財産法」や華族銀行たる第十五国立銀行の創立による華族財産の特別保護と管理がある。また華族は「皇室の藩屏(はんぺい)」たるべき任にあるとされ、華族とその子弟の婚姻も宮内大臣の許可を要した。なお叙爵や昇爵は、勲功のあるごとに、とくに戦争ごとに行われた。1947年(昭和22)日本国憲法によって華族制度は廃止された。
[佐々木克]
『社団法人霞会館編・刊『華族会館史』(1966)』
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1869~1947年(明治2~昭和22)の身分。版籍奉還後に公卿・諸侯を華族としたのが近代華族のはじめで,当初427家。84年の華族令で五爵制や世襲制などの特権が整備され,皇室を守護する者としての性格が確定。同時に勲功華族として薩長土肥出身者が大きく増加した。明治憲法制定後は貴族院議員の特権もえる。1907年の華族令改訂後,大正・昭和期に改革の動きがあったが,日本国憲法の施行による廃止まで続いた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…維新以後,徳川幕府の下で支配階級であった武士は既得権益としての禄を安価な政府公債と引換えにとりあげられて支配階級の地位を失い,旧藩士はわずかに〈士族〉という戸籍上の称号だけを与えられたが,この名目的称号も1914年には消滅した。旧大名は公卿とともに華族の地位を与えられ,華族には華族令によって一定の世襲財産・特権・貴族院議員たり得る資格が付与されたが,1946年,憲法によってこの華族制度も三分の二世紀ほどの歴史を閉じた。日本において貴族制度がこのように根づかず,貴族文化といったものの発展もなく,またイギリスのパブリック・スクールやオックスフォード,ケンブリッジ両大学のような貴族の子弟のための学校もほとんど発達しなかった事実は,ヨーロッパ社会との対比において特徴的である。…
…伝統的エリートとしての貴族の歴史的意義は,概して,君主政治の衰退,また工業化の進展,技術文明の発達とともに過去のものとなってゆくのである。貴族制爵位【成瀬 治】
【日本】
日本の近代華族制度は,直接的には平安時代の宮廷貴族に由来する。その平安貴族の形成には,四つの要素が考えられる。…
…明治維新期,従来の士農工商などの封建的身分制を廃した政策。しかしこれで身分制はなくならず,華族・士族・平民に再編成され,被差別部落民も残存された。その過程は,1869年(明治2)6月版籍奉還にさいし公卿・諸侯(旧藩主)を華族に,平士以上の藩士などを士族としたことに始まる。…
…三位以上を〈貴〉,四位,五位を〈通貴〉としてこれらに貴族的な特典が与えられ,五位に叙されることを叙爵といった。 日本古代以来の位階制,勲等制は明治以後も存続するが,1869年(明治2)の版籍奉還によって公卿,諸侯の称が廃止されて華族が設けられ,士族の上に置かれた。この貴族の地位を示すものとしての華族は,84年の華族令により,公・侯・伯・子・男の5等の爵位に分けられた。…
…摂関家につぎ,大臣家の上にあって,近衛大将を経て,太政大臣に昇進できる家柄。また,華族,英雄家などともいう。家格は平安時代末から徐々に形成され,鎌倉時代にほぼ固定して七清華といわれた。…
※「華族」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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