江戸後期の学者。名は秀実(ひでざね)、通称は伊三郎、字(あざな)を君蔵または君平といい、修静庵(あん)と号した。下野(しもつけ)国(栃木県)宇都宮の灯油商福田又右衛門正栄の四男。蒲生氏郷(うじさと)の子孫であるという家伝に従い、のちに自ら福田を蒲生と改姓した。14歳のときから同国鹿沼(かぬま)の儒者鈴木石橋(すずきせっきょう)(1754―1815)の門に入り、国史や古典を学び、さらに水戸の藤田幽谷(ふじたゆうこく)と親交を結び、水戸学の影響を受けた。1790年(寛政2)、東北遊歴中の高山彦九郎を慕って石巻(いしのまき)まで行ったが会えず、帰路仙台の林子平(はやししへい)を訪ねて、北辺の防備などの国事を語り合った。1795年には、ロシアの南下に対する海防の薄さを憂えてふたたび東北地方を巡歴し、のち1807年(文化4)ロシア船による北辺侵犯事件が起きた際は、国防策を記した『不恤緯(ふじゅつい)』を幕府に上呈した。これより先の1796年、歴代天皇陵の荒廃を嘆いた彼は、『山陵志(さんりょうし)』の編纂(へんさん)を意図して上京し、のち近畿一帯の山陵を実地に踏査し、1801年(享和1)全2巻を脱稿した。翌1802年大学頭(だいがくのかみ)林述斎(じゅつさい)の門に入り、いっそう学問の道を深めた。
晩年は江戸に居を移して著述に専念し、文化(ぶんか)10年7月5日に病没、江戸谷中(やなか)の臨江寺(りんこうじ)に葬られた。法名は修静院殿文山義章大居士。ほかの著作に時弊を論じた『今書(きんしょ)』(1792ころ)や、日本古来の官職の沿革を記した『職官志』(1811)などがある。とくに『山陵志』は幕末尊王論の先駆として有名。高山彦九郎、林子平とともに、寛政(かんせい)の三奇人とよばれる。
[竹内 誠 2016年5月19日]
『三島吉太郎編『蒲生君平全集』全1巻(1911・東京出版社/増補校訂5版・1938・盛文社)』
(沼田哲)
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江戸後期の尊王論者。名は秀実,通称伊三郎,字は君平。下野宇都宮の商家の四男として生まれ,儒者鈴木石橋のもとに学び,のち藤田幽谷,林子平らと交わり,水戸学の影響を受けた。荒廃した歴代天皇陵を調査し,1808年(文化5)《山陵志》を著したが,これは幕末尊王論に大きな影響をあたえた。また,ロシア軍艦の北辺出現を契機として1807年に《不恤緯(ふじゆつい)》を著し,幕閣に危機意識と海防の必要性を訴えた。林子平,高山彦九郎とともに〈寛政の三奇人〉と呼ばれる。《蒲生君平全集》がある。
執筆者:大石 学
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1768~1813.7.5
江戸後期の思想家。尊王論者として有名。姓は福田のち蒲生。名は秀実,字は君臧・君平,通称は伊三郎。修静庵と号する。下野国生れ。同国鹿沼の鈴木石橋(せっきょう)に儒学を学んだのち藤田幽谷(ゆうこく)・林子平(しへい)と交わり,朱子学の名分論にもとづいて尊王思想を説く。海防をはじめ時世の改革論を唱え,諸国を歴遊。代表的著書「山陵志」は山陵復興運動や尊王論の先駆となる。寛政の三奇人の1人。
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…古くより民間では,その形を身近な器物になぞらえ,車塚(くるまづか),銚子塚(ちようしづか),茶臼山(ちやうすやま),瓢簞山(ひようたんやま),瓢塚(ひさごづか),二子山(ふたごやま)などと呼びならわしてきた。江戸中期の国学者,蒲生君平も《山陵志》(1808)の中で宮車模倣説を唱え,円丘を車蓋に,方丘を轅(ながえ)に見たて,〈前方後円〉と形容したが,それがこの名称の起源となった。そこで便宜上,円丘部を〈後円部〉,方丘部を〈前方部〉,両者の接するところを〈くびれ部〉と呼ぶ。…
※「蒲生君平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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