蔭凉軒日録(読み)いんりょうけんにちろく

精選版 日本国語大辞典 「蔭凉軒日録」の意味・読み・例文・類語

いんりょうけんにちろくインリャウケンニチロク【蔭凉軒日録】

  1. 室町中期、京都、相国寺鹿苑院(ろくおんいん)内の蔭凉軒主が記録した公用日記。永享七年(一四三五)から文正元年(一四六六)までは季瓊真蘂(きけいしんずい)が書き、文明一六年(一四八四)から明応二年(一四九三)までは亀泉集証(きせんしゅうしょう)の手に成る。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「蔭凉軒日録」の意味・わかりやすい解説

蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)
いんりょうけんにちろく

相国(しょうこく)寺鹿苑(ろくおん)院内の蔭凉軒主がしるした公用日記。足利義満(あしかがよしみつ)は禅宗寺院の人事行政を総轄する僧録(そうろく)の職を置き、これを鹿苑院に住まわせ、義持(よしもち)はその南に、参禅聴講のため蔭凉軒を創設した。その蔭凉軒の留守居(るすい)役をやがて蔭凉軒主とよぶようになるが、軒主は鹿苑僧録を補佐し、僧事に関する将軍への披露取次を行い、一時は僧録をもしのぐ勢力を誇った。日記の中心記事は僧職の任免で、現存するのは季瓊真蘂(きけいしんずい)、益之宗箴(えきしそうしん)、亀泉集證(きせんしゅうしょう)の時期、すなわち1435年(永享7)から93年(明応2)までの断続的な記録である。ただし益之の時期の分は亀泉の筆になる。また継之景俊(けいしけいしゅん)の日記が『鹿苑日録』に混入し、1553年(天文22)から72年(元亀3)までの記事が断片的に残されている。原本は関東大震災によって焼失したが、尊経閣(そんけいかく)文庫にその影写本が架蔵されている。『大日本仏教全書』本は多くの錯誤を含むが、『増補続史料大成』本で訂正されている。

[田中博美]

『玉村竹二著「『蔭凉軒日録』考」(『日本禅宗史論集 下之一』所収・1979・思文閣)』『玉村竹二著「蔭凉軒及び蔭凉職考」(『日本禅宗史論集 上』所収・1976・思文閣)』


蔭凉軒日録(おんりょうけんにちろく)
おんりょうけんにちろく

蔭凉軒日録

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