精選版 日本国語大辞典 「藤原基経」の意味・読み・例文・類語
ふじわら‐の‐もとつね【藤原基経】
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平安前期の官僚。藤原長良(ながら)(良房(よしふさ)の兄)の第3子で、母は藤原乙春(おとはる)。藤原良房の養子となり、養父を継いで氏長者(うじのちょうじゃ)となり、いわゆる藤原摂関家隆盛の基礎をつくりあげた。851年(仁寿1)に16歳で文徳(もんとく)天皇から加冠されて元服し、858年(天安2)に即位した清和(せいわ)天皇のもとで蔵人頭(くろうどのとう)となり、864年(貞観6)には29歳で参議となった。2年後の「応天門の変」では源信(まこと)の無実を伝え、伴善男(とものよしお)が失脚したのち、7人を抜いて中納言(ちゅうなごん)となり、872年には正三位(しょうさんみ)右大臣となった。ときに37歳。その政治は良房の先例を法的に整合性をもった体系として位置づけようとした点にあり、後世に先例として尊重された。基経が形式を重んじた理由もこれと無縁ではあるまい。良房の死(872)後、摂政(せっしょう)となったとする史料もあるが、後世の付会であろう。876年陽成(ようぜい)天皇に譲位するにあたって清和天皇は良房の例にならって摂政となるように詔(みことのり)している。
880年(元慶4)太政(だいじょう)大臣に任ぜられたが、その職掌に疑義をもっていたらしく固辞し、基経の出仕しない日も多かったらしい。4年後言動に問題のあった陽成天皇を廃位し、光孝(こうこう)天皇を擁立したが、新天皇は基経に万機をゆだねる旨の詔を出したことにより、実質上の関白となった。887年(仁和3)宇多(うだ)天皇の即位にあたって基経に与えた関白の詔の文字をめぐって起こった阿衡(あこう)事件は基経の政治姿勢を象徴している。890年(寛平2)准三宮(じゅさんぐう)となる。翌年正月13日に没し、正一位・昭宣公が贈られ、越前(えちぜん)に封ぜられた。菅原道真(すがわらのみちざね)らとも交わり、『日本文徳天皇実録』の編纂(へんさん)にも携わった。
[佐藤宗諄]
(瀧浪貞子)
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836~891.1.13
9世紀後半の公卿。長良(ながら)の三男,のち叔父良房(よしふさ)の猶子。母は藤原総継の女乙春(おとはる)。諡は昭宣公。851年(仁寿元)元服,翌年蔵人となり,侍従・少納言・蔵人頭などをへて,864年(貞観6)参議。幼少から才気煥発で父はその才能を見抜き,文徳天皇に寵愛された。866年にはいっきょに従三位中納言に昇進した。大納言をへて872年8月正三位右大臣となり,まもなく没する良房にかわって,以後清和・陽成(ようぜい)・光孝・宇多の4天皇20年間にわたる国政を領導した。この間,陽成天皇の幼少の間の摂政,宇多天皇の関白を勤め,太政大臣従一位まで昇進。関白の職掌をめぐって紛糾した阿衡(あこう)の紛議事件は有名だが,元慶(がんぎょう)官田の設置や元慶の乱の収拾,陽成天皇の廃位など政治的手腕も優れていた。学問・芸術にも造詣が深く,「文徳実録」編纂を行い,笙(しょう)の名人でもあった。891年(寛平3)堀河院の邸宅で没。贈正一位,封越前国。
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…平安前期に起こった,天皇と権臣との政治抗争。北家藤原氏の良房が文徳・清和朝に外戚として政権をとった後を継いだ養子基経は,その妹高子の生んだ幼帝陽成天皇の摂政となっていた。しかししだいに対立を深め,ついに884年(元慶8)天皇を廃し,故仁明天皇の皇子時康親王を擁立し,この55歳の老帝光孝天皇のもとで実権をにぎった。その後,887年(仁和3)基経の妹・尚侍淑子と文章博士橘広相(ひろみ)らの奔走によって,すでに臣籍に降っていた皇子源定省(さだみ)が即位すると,親政の意欲をもつ新帝宇多天皇との間に対立が生じた。…
…執柄(しつぺい),博陸(はくろく),霍光(かくこう)ともいう。中国前漢の宣帝が霍光に対し,〈諸事皆まず関(あずか)り白(もう)すべし〉と命じたのに由来するが,日本では宇多天皇が887年(仁和3)太政大臣藤原基経に対して下した詔に関白の語がみえるのが初例。なお884年(元慶8)に光孝天皇が基経に下した勅に,のちの関白と実質を等しくする語句のあることから,これを関白の起源とする説もある。…
…平安時代,藤原氏出身の摂政,関白が天皇に代わって,あるいは天皇を補佐して行った政治。とくに967年(康保4)冷泉天皇の践祚後まもなく藤原実頼が関白となってから,1068年(治暦4)後三条天皇が皇位につくまでの約100年間の政治形態をいう。 推古天皇のとき聖徳太子が,また斉明天皇のとき中大兄皇子が摂政となって執政したといわれるが,人臣にして摂政となったのは藤原良房に始まり,関白はその養嗣子基経に始まる。…
…君主に代わって万機を執り行う者,または執り行うことをいう。君主が未成年の間,あるいは君主に事故があった場合などに置かれる。
【日本】
[古代~近世]
摂政はその出自より大別して,皇族摂政と人臣摂政に分けられる。《日本書紀》に仲哀天皇没後神功皇后が摂政になったとあるのを摂政の初例とするが,これは摂政というより称制というのにふさわしく,また伝説的要素も多く,信をおきがたい。古代における摂政の確実な例は,推古天皇の皇太子厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子),斉明天皇の皇太子中大兄皇子,天武天皇の皇太子草壁皇子の3例で,いずれも皇太子が天皇に代わって万機を摂行し,皇太子摂政ともいう。…
…文徳天皇代,850年(嘉祥3)から858年(天安2)まで9年間のことを記す。清和天皇の命をうけて藤原基経らが編纂にあたり,陽成天皇の879年(元慶3)完成。実録は中国で皇帝1代ごとに,起居注をもとにその治世を記し,歴史編纂の材料としたもの。…
…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家,二条家,一条家,九条家,鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…
※「藤原基経」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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