精選版 日本国語大辞典 「藤原定子」の意味・読み・例文・類語
ふじわら‐の‐ていし【藤原定子】
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一条(いちじょう)天皇の皇后、藤原道隆(みちたか)の女(むすめ)。母は高階貴子(たかしなのきし)。990年(正暦1)2月女御(にょうご)、10月中宮となる。996年(長徳2)兄伊周(これちか)、隆家が花山(かざん)法皇をおどし射(う)ちする事件によりいったん出家したが、ふたたび参内、脩子(しゅうし)内親王、敦康(あつやす)親王が生まれた。1000年(長保2)道長の女彰子(しょうし)が中宮にたったため皇后となり、一天皇に二后併立の例を開いた。この年12月15日、媄子(びし)内親王を産み、翌日亡くなった。定子皇后には清少納言が仕えており、『枕草子(まくらのそうし)』には定子の身辺について詳しく記している。だが、定子の不遇に関しては、ほとんど触れていないのが特徴である。
[山中 裕]
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976~1000.12.16
一条天皇の中宮・皇后。父は藤原道隆。990年(正暦元)入内し,女御(にょうご)となる。同年,円融天皇の中宮遵子を皇后とし,定子は中宮とされたが,これは皇后・中宮並立の初例。父や兄の伊周(これちか)らの後見を失い,999年(長保元)第1皇子敦康親王を生んだが,道長の世にあって不遇であった。1000年定子を皇后に,彰子を中宮にしたのは1帝2后並立の初例。清少納言らを擁した文芸サロンを形成した。
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…平安中期の女流文学者。父は〈梨壺の五人〉の一人として有名な歌人清原元輔,祖父(曾祖父ともいう)深養父(ふかやぶ)も清少納言自身も中古歌仙三十六人に数えられる和歌重代の家柄。父の友人には源順,大中臣能宣ら漢詩文や和歌に達者な一流人物が多く,元輔の末娘はこれらの人々に愛され,利発で早熟な少女として育った。981年(天元4)ころ,名家橘氏の嫡男則光と結婚,翌年則長を生んだがまもなく離婚,991年(正暦2)ころ,父ほど年の違う藤原棟世(むねよ)と再婚し,小馬命婦(こまのみようぶ)を生んだが別居して,993年冬,一条帝中宮,関白藤原道隆の娘定子に仕えた。…
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