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安土(あづち)桃山時代の儒学者。名は粛(しゅく)、字(あざな)は斂夫(れんぷ)。播磨(はりま)国(兵庫県)の豪族に生まれ、父を戦(いくさ)で失い、京都相国寺(しょうこくじ)の僧となって首座(しゅそ)に上った。室町時代以降臨済(りんざい)禅徒の間では朱子学が学ばれ、〔1〕儒は禅に導く手段、〔2〕儒は禅に蘊(つつま)れている、〔3〕禅と儒は体用不二であるという考えを経て、〔4〕禅は真儒の境地(中庸)に至る捷径(はやみち)と考えられるに至っていた。惺窩はこうした禅儒の流れを承(う)け、中国に渡って明(みん)の新儒教を学ぼうとしたが果たさず、陽明学流で仏老を折衷する林兆恩(りんちょうおん)(1517―1598)の書を読んで、『大学』にいう格物致知を「非心(物欲)を去って自証し得た至善(心)を外界に明徳として顕現する」ことと解し、刑政をもって「乱逆無紀」の世に道徳的秩序を建立すべしと説いて、戦国大名のイデオローグとして赤松広通(あかまつひろみち)(1562―1600)の庇護(ひご)を得た。広通の死と同時に彼は仏教は「仁種を絶ち義理を滅す」と難じて還俗(げんぞく)したが、徳川家康の招きには門人林羅山(はやしらざん)を推薦し、洛北(らくほく)に隠棲(いんせい)した。彼の学は禅儒の域を離れず、彼の親しく交わった慶長(けいちょう)の役の捕虜、朝鮮の朱子学者姜沆(きょうこう)(1567―1618)のいうように「性は剛峭(ごうしょう)で倭(わ)において容(い)れらるるなき」人物であった。惺窩は通常、徳川朱子学の祖とされ、幕初の朱子学者松永尺五(まつながせきご)、那波活所(なわかっしょ)らを門人にもつが、自身は王陽明(おうようめい)、陸象山(りくしょうざん)の学をも折衷し、朱子学一辺倒の羅山から批判されても「異中の同(同理・同心)を見よ」と反論した。惺窩の書には『寸鉄録』(1606)『大学要略』(1630)のほかに『文章達徳録』『文集』がある。『千代もと草(ぐさ)』は彼の作と伝えるがさだかでない。
[石田一良 2016年7月19日]
『石田一良・金谷治編『日本思想大系28 藤原惺窩・林羅山』(1975・岩波書店)』
江戸初期の儒者で,近世儒学の開祖とされる。名は粛,字は斂夫。号はほかに柴立子,北肉山人など。冷泉為純の子として,播磨国細川荘に生まれた。藤原定家12世の孫に当たる。幼時,生国で僧となり,18歳のとき土豪の襲撃によって父兄と家領を一挙に失い,これを機会に上京して相国寺に入った。ここで仏典とともに儒学を学び,しだいに儒学に専念するようになった。1593年(文禄2)徳川家康に《貞観政要》を講じ,96年(慶長1)儒学の師を求めて明国への渡航を企てたが失敗。その2年後,慶長の役の捕虜姜沆(きようこう)(朝鮮の朱子学者)と出会い,姜沆から学問的影響を受け,やがて還俗して儒者になった。99年大名赤松広通と姜沆の援助を得て,初めて宋儒の説に従って四書五経に訓点を施したが,広通の死により和訓本は出版されなかった。晩年は京都北郊の市原山荘に隠棲したが,儒者としての志を失うことはなかった。門下には林羅山,松永尺五(せきご),那波活所,堀杏庵など多数の学者が輩出したが,とりわけ羅山と尺五の門流はそれぞれ近世儒学の伝統を開いた。惺窩の儒学思想は倫理的実践的かつ包摂的折衷的なものであり,朱子学よりも,むしろより多く明の心学の流れの上にあったといわれる。したがって彼を単純に朱子学者と呼ぶことはできない。著書には詩文集のほかに《寸鉄録》《大学要略》《文章達徳録綱領》などがある。
執筆者:石毛 忠
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1561~1619.9.12
織豊期~江戸初期の儒学者。日本近世朱子学の祖。冷泉為純の子。名は粛,字は斂夫(れんぷ)。惺窩は号。北肉山人・柴立子・広胖窩は別号。播磨国生れ。相国寺の僧となり朱子学を学ぶ。中国儒学を直接学ぶために渡明を企図するが失敗。その後朝鮮儒者姜沆(きょうこう)との交流などをへて,学問を体系化し京学派を形成した。朱子学を基調とするが,陽明学も受容するなど包摂力の大きさに特徴がある。林羅山・那波活所(かっしょ)・松永尺五(せきご)・堀杏庵は惺門の四天王とよばれた。和歌や古典の造詣も深い。豊臣秀吉・徳川家康に進講し,家康には仕官を要請されるが辞退,羅山を推挙した。著書「寸鉄録」「文章達徳綱領」「惺窩先生文集」。
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…97年豊臣秀吉の再出兵(慶長の役)のとき,藤堂高虎水軍の捕虜となる。京都伏見で幽閉生活を送り,赤松広通の援護のもとで相国寺の禅僧藤原惺窩と交友し,朝鮮儒学の成果や孔子祭典を伝える。姜沆は1600年に帰国したが,惺窩は後,儒者として仏教とたもとを分かつなど,日本の儒学の展開に大きな影響を与えた。…
…というのも,四書の一つ《大学》の冒頭の〈大学の道は明徳を明らかにするに在り〉の〈明徳〉の意味する内容をどう読解するかということが,儒者たちにとって徳の内容を確定するための必須の作業となったからである。江戸時代の儒学史のはじめにいつも名が挙がる藤原惺窩(せいか)にその典型例が見られる。〈明徳ハ君臣・父子・夫婦・長幼・朋友ノ五倫ノ五典ナリ〉(《大学要略》)と彼はいう。…
…1595年(文禄4)13歳で元服し,京都建仁寺で読書し,97年(慶長2)出家をすすめられたが拒否して家に帰り,独学で経学を修め朱子学に傾倒し,《論語集註(しつちゆう)》を講説し四書の加点を始めた。1604年藤原惺窩(せいか)に会い,多くの学問的影響を受けた。最初の対面時の問答が〈惺窩答問〉である。…
…また本書の〈天道〉観はキリスト教の影響の下に成立したことが指摘されている。2代将軍徳川秀忠の側近を務めた本多正信が秀忠のために書いたとされてきたが,内容上は,通俗訓戒書《仮名性理》(藤原惺窩著といわれる)に手を加え,正信著に仮託したものである。【高木 昭作】。…
※「藤原惺窩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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