江戸後期の水戸藩士、水戸学者。文化(ぶんか)3年3月16日藤田幽谷(ゆうこく)の次男として、水戸上町梅香(ばいこう)に生まれる。幼名武次郎、のち虎之介。諱(いみな)は彪(たけき)、字(あざな)は斌卿(ひんけい)、東湖はその号。父の家塾青藍舎(せいらんしゃ)で儒学などを修め、江戸に出て剣を岡田十松(おかだじゅうまつ)に学んだ。学問は一派に偏せず広く学び、朱子学にはこだわらなかった。1826年(文政9)父の死にあい、22歳で家督を継ぎ家禄(かろく)200石を受け、彰考館(しょうこうかん)編修となった。徳川斉昭(とくがわなりあき)の藩主就任のときには、斉昭を擁立する改革派の先頭にたって活躍した。水戸の天保(てんぽう)の改革では終始斉昭の側近として改革を推進した。1840年(天保11)35歳で側近三役の一つ、側用人(そばようにん)の重職に抜擢(ばってき)され、やがて役料も加え500石を給せられた。父が町家出であるのを思えば、破格の昇進である。藩校弘道館(こうどうかん)の建設では、斉昭の意を受けてもっとも尽力した。建学の方針を示した「弘道館記」は、東湖が成文の中心で、その解説『弘道館記述義』は、会沢正志斎(あいざわせいしさい)の『新論』とともに、水戸学の教典とされ、東湖作の「正気歌」などとともに、幕末の尊攘(そんじょう)運動家に大きな影響を与えた。1844年(弘化1)斉昭の失脚とともに東湖も幕命をもって罷免され、謹慎を命ぜられた。やがて斉昭が幕府の外交に参与するに至り、東湖も中央で活躍する機会に恵まれ、1854年(安政1)には側用人再勤となり、翌1855年9月には学校奉行(ぶぎょう)兼職となり600石を給せられ、安政(あんせい)の改革推進役となったが、同年10月2日江戸大地震のため官舎で50歳の波瀾(はらん)の生涯を閉じた。著書には前述のほか、『回天詩史』『常陸帯(ひたちおび)』(ともに1844成立)『回天必力』など、力のこもった内容のものが多く、東湖流といわれる独特の書風と水戸人としては珍しく度量の広い人柄と相まって、水戸学普及のうえに大きな役割を果たした。
[瀬谷義彦 2016年7月19日]
『菊池謙二郎編『新定 東湖全集』全1巻(1940・博文館/復刻版・1998・国書刊行会)』▽『今井宇三郎・瀬谷義彦・尾藤正英校注・解説『日本思想大系53 水戸学』(1973・岩波書店)』▽『菊池謙二郎著『藤田東湖伝』(1899・金港堂書籍)』▽『中村孝也著『藤田東湖』(1942・地人書館)』
江戸後期の水戸学の代表的な実践活動家。名は彪,東湖は号。幕末水戸学の祖藤田幽谷の子。父の没後に水戸藩の史局彰考館の編修,次いで総裁代理となるが,1829年(文政12)藩主の継嗣問題が起こると,前藩主の弟斉昭擁立に奔走し,斉昭が家督を継ぐと郡奉行,江戸通事,御用調役さらに側用人と累進し,その腹心として機務に参画する。しかし44年(弘化1)斉昭が幕府の忌諱にふれて隠居謹慎に処されると,蟄居(ちつきよ)謹慎を命じられる。53年(嘉永6)のペリー来航とともに斉昭が幕府参与となると,海防係,次いで側用人兼任となって活発な活動を行うが,55年(安政2)10月の江戸大地震の際に圧死する。東湖は理論家肌の父幽谷や幽谷を継いで水戸学を大成した会沢正志斎と比べると,はるかに実践家的であり,斉昭の懐刀として,一方では藩政改革を推進すると同時に,他方では幕府の有司や諸藩の有志と交わり,水戸学の思想を藩外へ普及する役割を演じた。彼は文筆家としても有能であったが,その才能は創造的ないし理論的な面ではなくて,《弘道館記》(斉昭撰,東湖草案),《弘道館記述義》のようないわば実践綱領の起草・解説,あるいは《正気歌》のような,人心を感奮興起させる詩文の面で際だっていた。政治的実践家としての東湖については,幕末の水戸藩で起こったまさに血で血を洗う党争に関して,彼にどれだけの責任があると見るかに応じて,評価が変わることになろう。
執筆者:植手 通有
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(吉田昌彦)
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1806.3.16~55.10.2
江戸後期の常陸国水戸藩士。後期水戸学の創唱者藤田幽谷(ゆうこく)の次男。名は彪(たけし),字は斌卿(ひんげい),幼名武二郎のち虎之助,通称誠之進,東湖は号。1827年(文政10)家督を継ぎ進物番・彰考館編修となる。藩主の後継問題では徳川斉昭(なりあき)の擁立に尽力し,斉昭の藩主就任後は,腹心として藩政の改革を推進して郡奉行など諸役を歴任。44年(弘化元)斉昭が幕府から隠居謹慎を命じられると東湖も蟄居幽閉の処分をうけたが,53年(嘉永6)斉昭が幕政参与となるや側用人として藩政に復帰した。安政の大地震で圧死。主著「弘道館記述義」は水戸学の代表的著作。また幽閉中に執筆した「回天詩史」「常陸帯」「和文天祥正気歌(せいきのうた)」は幕末の志士に愛読された。
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…時代的にも,幕末期を迎える時期にあり,国防のための武器が必要となり,そのための大量の鉄材が要求されるようにもなっていた。 また,53年(嘉永6)藤田東湖らによって水戸藩に反射炉を築造する計画が出されたとき,技術者として積極的に参加し,55年(安政2)その築造を成功させている。そして,鋳造用銑鉄を確保するために,南部藩釜石鉄山の開発を進め,鉄鉱石を原料とする洋式高炉を日本で最初に建設した。…
…藤田東湖の主著の一つ。1847年(弘化4)成稿。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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