鎌倉時代の臨済(りんざい)宗の渡来僧。大覚(だいがく)派の祖。中国蜀(しょく)(四川(しせん)省)涪江(ふうこう)の人。初め教学を学んだが、禅に転じ無準師範(ぶじゅんしはん)、癡絶道冲(ちぜつどうちゅう)(1169―1250)らに参じ、陽山の無明慧性(むみょうえしょう)(1162―1237)の下で契悟(かいご)し法を嗣(つ)いだ。1246年(寛元4)北条時頼(ほうじょうときより)の招聘(しょうへい)を受け、弟子義翁紹仁(ぎおうしょうにん)(1217―1281)らとともに来朝し、博多(はかた)の円覚(えんがく)寺、京都の泉涌(せんにゅう)寺来迎(らいごう)院に寄寓(きぐう)したが、時頼の招きで鎌倉の寿福(じゅふく)寺、ついで常楽(じょうらく)寺に住した。鎌倉の地は寿福寺を中心に葉上(ようじょう)流の兼習禅が主流を占めていたが、蘭渓により宋(そう)朝の純粋禅が鎌倉に定着することになった。1253年(建長5)時頼は径山(きんざん)に模した大禅苑(えん)建長寺を建立し、蘭渓を開山に請(しょう)じた。その後、建仁(けんにん)寺などにも住したが、一時流言によって甲斐(かい)(山梨県)に流され、許されてふたたび寿福寺に住した。北条時宗(ときむね)も禅寺を建てようとしたが、蘭渓はその完成を待つことなく、弘安(こうあん)元年7月24日示寂。大覚禅師の勅号を賜ったが、これが日本における禅師号の最初という。語録3巻、『大覚禅師坐禅(ざぜん)論』の著がある。嗣法(しほう)の弟子も多く、その門流を大覚派と称する。
[石川力山 2017年4月18日]
宋から渡来した鎌倉時代の臨済宗の僧。はじめ無準(ぶしゆん),痴絶(ちぜつ),北礀(ほつかん)らに禅を学び,のち無明慧性(むみようえしよう)に参じて嗣法。1246年(寛元4)泉涌(せんにゆう)寺の月翁智鏡をたよって来日,やがて鎌倉に下り,寿福寺,常楽寺に住した。1253年(建長5)建長寺が完成すると,開山第1祖となり,北条時頼はじめ多くの鎌倉武士に初めて純粋な宋風禅を説いた。彼の渡来は時頼の招聘によるといわれるが,自身の自発的意志もあった。宋の径山(きんざん)にならい,禅林の清規に従った厳しい修禅生活を提唱したが,参徒が雲集して建長寺はたちまち宋風禅の一大淵叢となった。65年(文永2)には建仁寺に住し,京都にも純粋禅を挙揚(こよう)した。のち流言によって甲斐に流されたが,78年(弘安1)建長寺に帰住し,北条時宗とともに円覚寺建立に尽くした。寂後79年大覚禅師と勅諡(ちよくし)された。これは日本の禅師号の初めといわれる。彼の門下を大覚派といい,約翁徳倹など多数の禅傑を輩出した。《大覚禅師語録》3巻がある。
執筆者:藤岡 大拙
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1213~78.7.24
鎌倉中期に来朝した中国南宋の臨済宗の僧。諡号(しごう)は大覚禅師。出自は冉(ぜん)氏。13歳のとき成都の大慈寺で出家,のち無準(ぶじゅん)師範などに参禅。陽山の無明慧性(むみょうえしょう)のもとで悟りを契り法をつぐ。1246年(寛元4)入宋した日本の律僧月翁智鏡(げつおうちきょう)の誘いで来日。以後,筑前国円覚寺,京都泉涌(せんにゅう)寺・来迎院,鎌倉寿福寺に寓居。53年(建長5)北条時頼に招かれて鎌倉建長寺開山となる。のち京都建仁寺に住んだが,再び建長寺に戻る。義翁・竜江のほか多数の弟子を輩出し,この一派を大覚派という。晩年,讒言(ざんげん)により2度甲斐国に流されたが,そのつど赦されて建長寺に戻った。「大覚禅師語録」3巻がある。
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…中世の甲斐は文化の面でも鎌倉と関係が深く,著名な禅僧が入国したり,日蓮が身延山を開いたりした。臨済宗は13世紀の後半,二度にわたって甲斐に流された鎌倉建長寺開山宋僧蘭渓道隆(らんけいどうりゆう)によって基礎が築かれたが,1330年(元徳2)夢窓疎石が笛吹川上流牧荘に恵林寺(塩山市)を,その半世紀後抜隊得勝(ばつすいとくしよう)が塩山のふもとに向嶽寺(同)を建て,ますます繁栄におもむいた。また日蓮は,1274年(文永11)甲斐源氏の一族波木井実長の招きを受けて身延の地に久遠寺(くおんじ)を建てた。…
…禅僧に限って用いる場合は,禅僧に対する敬称とし,また朝廷から勅諡号(ちよくしごう)として禅僧に諡(おくりな)される〈禅師号〉がある。中国における禅師号は,神秀に諡された〈大通禅師〉が最初で,日本最初の禅師号は建長寺の開山蘭渓道隆に対して亀山上皇が諡した〈大覚禅師〉である。【竹貫 元勝】。…
…その政治は術策にとみ独裁的であったが,大番役(おおばんやく)の6ヵ月から3ヵ月への短縮,地頭の一方的在地支配の抑制など土民保護の姿勢から,のち諸国の民政を視察したという回国伝説が生じた。深く禅に帰依し,宋から来朝した蘭渓道隆を鎌倉に迎え,建長寺を建てて開山としたほか,兀庵普寧(ごつたんふねい)にも参禅した。そのほか弁円,忍性,叡尊などとも接触があった。…
※「蘭渓道隆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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