鎌倉幕府の蝦夷管轄上の職名をいう。江戸期作成の故実書《武家名目抄》以来の通説であるが,現存史料でみると,蝦夷管領の名称は,1356年(正平11・延文1)作成の《諏訪大明神絵詞》を初見史料とし,関東管領,奥州管領など室町幕府初期の職制名称を反映した呼称であったとみられる。鎌倉期史料では,蝦夷沙汰または東夷成敗と表記。鎌倉末期作成の法律書《沙汰未練書》では,東夷成敗を幕府の重大政務として位置づけている。そこには,日本国の鬼門に位置する蝦夷地と異民族である蝦夷との管轄が,国家警察的機能の強化および異民族支配と異国交易への関与を意味する,という政治的意図があった。異民族観を強調するほど,特別管轄法も必要となり,蝦夷の子孫という安東氏を蝦夷沙汰代官職に設定するようになった。安東氏は十三湊(とさみなと)や外ヶ浜,秋田湊などに拠点を置き,世襲的に蝦夷管轄を担当。室町期の〈日之本将軍〉はこの職制を継承したとみられる。
執筆者:遠藤 巌
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
鎌倉時代に津軽あるいは北海道の蝦夷(アイヌ)支配のために置かれた職名。鎌倉幕府の三大政務(武家の沙汰(さた))の一つ、東夷(とうい)成敗権を現実に執行するものとして、北条義時(よしとき)のとき「東夷ノ堅(かた)メ」「夷嶋(えぞがしま)ノ押ヘ」に津軽の安藤太(五郎)なる者が北条氏の代官として任じられたのが史料上の初見。津軽地方は鎌倉初期から北条氏の所領で、安東(藤)氏は代々この地方の北条氏所領の地頭代となっていた北条氏被官であったところから、蝦夷管領の正員は北条氏、その代官が安東氏であったとみられる。正中(しょうちゅう)2年(1325)9月11日の安藤宗季(むねすえ)譲状(ゆずりじょう)にみえる「ゑそのさた」(蝦夷の沙汰)というのも、蝦夷管領と同じものであろう。
[榎森 進]
『小林清治・大石直正編『中世奥羽の世界』(1978・東京大学出版会)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…また(3)の場合の両者の権限区分については,(a)葛西は守護,留守は国地頭に相当するという説と,(b)葛西は藤原氏の権限を継承したもので,留守職設置とともに平泉関係のことに権限の限定が行われる,という説がある。幕府設置の職としては,このほかに北辺の津軽に蝦夷管領(えぞかんれい)というものがあった。津軽から北海道に居住する蝦夷(えぞ)(アイヌか)を統轄・支配するもので,津軽に多くの所領をもつ北条氏がその地位にあったが,現地にいる代官は被官の安藤氏(安東氏)であった。…
※「蝦夷管領」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
東海沖から九州沖の海底に延びる溝状の地形(トラフ)沿いで、巨大地震発生の可能性が相対的に高まった場合に気象庁が発表する。2019年に運用が始まった。想定震源域でマグニチュード(M)6・8以上の地震が...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新