街頭で誘客する売春婦。少数ながら男性の街娼がいる。街娼の用語は、欧米の市街地に出没する路上売春婦に似た娼婦が日本にも現れるようになったあと、大正末ごろに使い始められたものだが、特定の形態に限らずに街頭売春婦の総称として使っている。売春の起源形態にあげられる遊行女(うかれめ)は街娼とはいえないが、平安時代に淀(よど)川下流の江口、神崎などで小舟に乗って客を誘った遊女を、街娼の特殊な形態とみることができる。同様の水上売春婦には、琵琶(びわ)湖の朝妻(あさづま)船や、江戸時代には江戸の船饅頭(ふなまんじゅう)、大坂のピンショ、志摩のはしりがね、瀬戸内海のおちょろなどが知られる。いずれも港湾などで停泊中の水路旅人や船員を客にした売春婦である。平安中期の『和名抄(わみょうしょう)』に遊女の別称として夜発(やほち)の語がみえ、後年には街娼の異名に用いられたが、当初から街娼を意味したかは断定できない。夜間の人通りなどを考えると、あまり古くにさかのぼることはなかろう。したがって、陸上の街娼としては、室町時代の京都における立君(たちぎみ)が確認できる古い例であるが(『七十一番職人歌合(うたあわせ)』)、宵から出没したこと以外の詳しいことは不明である。
街娼の活躍は都会が発達してくる近世以後のことで、とくに三都(京都、江戸、大坂)を中心に多くの街娼が出現した。江戸で夜鷹(よたか)、京都で立君、大坂では惣嫁(そうか)または白湯文字(しろゆもじ)とよぶのが代表的名称であった。いずれも、夕刻以後に河岸端(かしばた)や小路に出て、下層労働者らを相手に路上で売春する最下級の売春婦とされた。売春料は、元禄(げんろく)時代(1688~1704)で10文、江戸後期には24~100文であった。明治維新以後は社会経済生活の変化に伴って都市下層民が増大し、需給の両面から底辺の街娼が増える傾向にあった。一方では、開港地横浜に出現した外国人相手の街娼のように、服装も整い、一般の街娼が10~30銭の売春料であるのに3~5円をとるなど、従来の街娼とは違った高級街娼が現れた。同種の街娼は東京・銀座などの繁華街にも出没するようになったが、接客場所は路上でなく待合や旅館を利用した。
第二次世界大戦後、占領軍兵士を対象とする街娼が出現して、その数が多いことや人目をはばからぬ行動などもあって社会問題となった。敗戦による社会的変動と経済的貧困とが街娼の発生を促していたところへ、従前の慰安施設への占領軍兵士の立ち入りを禁じたため、被進駐都市では街娼が急増したものである。これには、諸秩序の崩壊とともに、抑圧された性意識の変革などの精神的要因が敗戦者意識のなかに介在したことが認められる。当初、闇(やみ)の女とよんだのは、非公認を意味する流行語「やみ」の派生語で、戦前に使われた暗黒街の女性という意味の用語との関連性はない。その後、夜の女、パンパンガールなどの名称も用いられた。街娼は、他の私娼が前借金などで拘束されるのに反し、本人の意志でかってに営業できる自由があるようにみえるが、暴力による強制就業が少なからず、また自衛のためもあってヒモと絶縁できぬ例が多い。麻薬や覚醒剤(かくせいざい)の常用者が多いのは暴力組織との関係を示している。1956年(昭和31)9月の全国街娼数は1万3406人と報告されているが(厚生省調査)、その後は取締りの強化や性産業の多様化によって、コールガール、チラシカード、ピンクバーなどが続出したため街娼は減少傾向にみえるが、酒場などを利用した高級街娼が一部に残り、そのなかには外国女性が含まれるに至っている。
[原島陽一]
史的にみると、娼婦は異民族・異部族間の征服・接触・交流・通商などの状況下に生まれており、街娼は娼婦の最下層を形成している。古代社会では、イスラエルで旅行者相手の街娼がいたし、古代ギリシアやローマでも娼家の娼婦以外の街娼がいた。そのなかでもローマの細民街スプウレのリュバナール(「牝狼(ひんろう)の巣」の意)が有名だが、牝狼という名前は夜になると出没するためである。中世では、十字軍の遠征軍の通過する町々に騎士相手の街娼がいた。
中国では、官妓(かんぎ)と街娼を区別し、後者を私窠子(しかし)・暗門子・半開門などとよんでいたが、清(しん)朝のころは上海(シャンハイ)で街娼をあからさまに「野鶏(イエチ)」とさげすんでいた。
街娼は公娼の制度や組織を乱すものとして諸国で取締りの対象であったが、街娼問題がとくに切実になったのは、コロンブスの水夫たちが15世紀のイタリアに持ち帰った梅毒が各地に猛威を振るいだしたためである。梅毒は品行方正な男女にも及ぶ。17世紀にはロンドンに5万人、パリに1万3000人の娼婦がいたといわれるが、そのうちの街娼には性病対策コントロールが及ばない。そのため街娼が社会問題化し、パリでは1785年に売春登録制を設定し、1899年の国際ロンドン会議以来どこの国でも性病防止対策を考え、売春禁止令を出す国々も増えたが、もぐりの街娼は消え去らない。
[深作光貞]
街頭で客を誘う売春婦の総称。他の売春婦がその居住する家に客を迎え,あるいは客の招請に応じて接客場所へ行くのに対し,みずから街頭に出て誘客するのを特色とする。直接誘客せずに媒淫者(ぽん引などという)が仲介する場合にも,街娼自身がその場所に同行しているのを原則とする。接客場所は自家あるいは特定の旅館などを利用するが,最下級のものは野外での接客も珍しくない。
街娼という呼称は大正末期ごろから用いられはじめ,一般化したのは第2次大戦後のことであるが,その同類は古くから存在した。平安時代に江口,神崎などで川に舟を浮かべた売春婦を街娼の一種とみることができるし,室町時代の《七十一番歌合》には路上で客を誘う立君(たちぎみ)が現れている。立君はのちに辻君と呼ぶようになった。ただし,古く辻君というのは小路の娼家にいて客を引く売春婦のことであった。江戸時代になると都市の発達にともない,街娼は三都を中心に数を増していった。江戸の街娼は,本所割下水,四谷鮫ヶ橋などの根拠地から夕暮れになると堀端や河岸や材木置場などの特定の誘客場所へ出かけた。手ぬぐいを吹流しにかぶり,接客用のござ莚(むしろ)を抱える姿が代表的扮装であった。天保改革後には莚小屋を建てて接客場所とした時期もあるが,多くは路上で接客し,最下級の売春婦であった。したがって衣服も粗末であり,50歳以上の女や性病もちも多かったという。売春の代価は24~100文で,客筋はおもに武家の下級奉公人,商家の下男,馬子,車ひきなどであった。他の私娼に比べて取締りは厳しくなかったが,ときに捕らえられて遊廓に強制移住されることがあった。なお,街娼のことを,江戸では夜鷹(よたか),京都では辻君,大坂では惣嫁(そうか)または白湯文字(しろゆもじ)などと呼んだ。また僧形に黒帽子,薄化粧で客を引いた歌比丘尼(うたびくに)や,江戸では小舟に乗って河岸の客を誘った船饅頭(ふなまんじゆう),大坂で停泊船の船員を相手に出没した〈ぴんしょ〉,安芸の大崎下島御手洗(みたらい)の〈おちょろ舟〉などの水上売春婦は,特殊形態の街娼といえよう。
明治以後における都市社会の急速な発展は,街娼の増加を促すとともに質的な多様化をもたらした。横浜に現れた〈引っ張り〉は外国船員相手の街娼で,代価の10銭からテンセン・オーライの異名をとったが,明治末期になると上級船員をねらって身なりもよく代価3~5円の高級街娼が出没した。昭和初年に東京の銀座などに出現した街娼はこれと同系であり,彼女らをストリートガール(これは和製英語で,英語ではstreet-walkerなど)と呼んだのは,多くが洋装していたために,従来のうすぎたない街娼とは別種のものとみられたからである。誘客も路上に限らずカフェーなどを利用し,接客場所も上級施設を用いた。しかし,大量の街娼が出現して社会問題となったのは第2次大戦後のことである。当時は夜の女,闇(やみ)の女と呼ばれ,やがてパンパンガールの呼称が一般化した。大量出現の背景には敗戦による社会的混乱と経済的困窮とに加えて占領軍兵士の駐留があったことは,彼女らの7割が洋パンと呼ばれる外国兵相手であったことに明らかである。1946年1月に連合国最高司令官が〈日本における公娼廃止に関する件〉の覚書を通達したことも影響した。街娼には他の売春婦のような前借金もなく自由に営業できるようにみえるが,出没圏の確保や客の暴力排除などを自衛する必要から,仲間的集団をつくってなわ張りをもち個人的には〈ひも〉をもつことが多かった。田村泰次郎の《肉体の門》など,そうした街娼の生きざまを描いた小説も少なくない。その間に暴力団が介在することも多く,麻薬や覚醒剤との関連も深い。また少数ながら男娼の街娼もおり,1960年ごろからは外国女性も進出してくるなど多様化はさらに進んでいる。
→私娼 →売春
執筆者:原島 陽一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…街娼の別称として,おもに江戸で用いられたことば。当時の街娼は夕暮れ以後に出没したので,夜行性の鳥の名を借りた隠語が通称になったと考えられるが詳細は不明。…
※「街娼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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