オランダおよびフランスの西インド会社がある。
(1)オランダの西インド会社West-Indische Compagnie(略称WIC)は,東インド会社をモデルとして1621年に設立された。すでに17世紀初頭からユセリンクスらによって設立の計画があったが,1609年スペインとのあいだに12年間の休戦条約が結ばれたため実現しなかった。1621年条約期限がきれると,連邦議会は会社設立の特許状を与え,アフリカ西岸,アメリカ,ニューギニア東端以東の南海諸島への航行,貿易の独占権を賦与した。会社はアムステルダム,ゼーラントなど五つの支店(カーメルKamer)に分かれ,19人の取締役が置かれ,貿易よりもスペインの植民地,銀船隊の襲撃など,スペインの海上勢力打破に力を注いだ。会社は急速に発展し,1461年ころその勢力は絶頂に達し,北アメリカのハドソン川河口にニューネーデルラントNieuw-Nederland植民地を築いてそこにニューアムステルダムNieuw-Amsterdam(現,ニューヨーク)を建設した。1580年以降はスペインに併合されていたポルトガルの植民地ブラジルを占領し,ギアナ,アンティル諸島を植民地とし,アフリカ西岸にも勢力を確立した。しかし,植民地の獲得と維持は会社にとって莫大な財政負担となり,そのうえスペインから独立したポルトガルとの10年間の休戦条約(1641),スペインとの講和(1648)により,もっとも利益の多い私奪を行えなくなった。61年ブラジルをポルトガルに売却し,64年ニューネーデルラント植民地をイギリスに奪われ,75年会社は解散した。同年,規模を縮小して設立された新西インド会社は主としてスペイン植民地への奴隷貿易に従事したが,1791年解散し,翌年その領土と負債を政府が引き継いだ。
(2)フランスの西インド会社Compagnie française des Indes occidentalesは,ルイ14世時代の財務総監コルベールによって1664年に設立され,アメリカ植民地とアフリカ西岸との貿易独占権を与えられた。同会社は西インド諸島の砂糖の独占を企てたが成功せず,多額の負債を負い1674年廃止され,西インド貿易については本国貿易商人の自由にまかせられた。
執筆者:栗原 福也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
大航海時代を経て17世紀の重商主義時代に、しだいに明らかになった新大陸、アフリカ西岸およびカリブ海の島々との貿易独占を主たる目的として各国の東インド会社に倣い設立された特許会社。オランダとフランスにあった。
[飯塚一郎]
大航海時代に遅れて登場したオランダは、17世紀に入ってまもなく東インド会社を設立(1602)して重商主義的独占貿易を始めた。しかし、毛織物市場として東インドは不適当であり、かつ会社の専制的運営に反対していたウィレム・ユセリンクスの提案により、1621年スペインとの休戦条約の期限切れを契機に、オランダ工業品(とくに毛織物)の市場開拓のために西インド会社が設立された。この会社は、東インド会社の独占地域以外のアフリカ西岸および南北アメリカ沿岸諸地域での貿易独占権を与えられ、植民地建設、総督をはじめ現地の役員の任免権、立法、行政、軍備、条約の締結に関する権原をオランダ連邦議会から与えられた。しかし設立されると、会社は、ユセリンクスの考えていたような近代的、民主的な株式会社とは異なり、主目的はスペインの建設した植民地体制を打破するために利用され、1630年には西インド会社の艦隊は、スペインに合併されていたポルトガルの植民地ブラジルの砂糖栽培地ペルナンブコを占領、また西インド諸島に根拠地を置いて、スペインの銀船隊に対する私拿捕(しだほ)を繰り返した。またハドソン川の河口ニュー・ネーデルラント植民地にニュー・アムステルダム市を建設した(1626)。しかしスペインとオランダの間に和平が成立(1648年のウェストファリア条約)すると、スペインの銀船隊襲撃も植民地の占領も思うにまかせず、会社の事業も振るわず、1700年、30年、62年と特許は更新されたが、1790年解散のやむなきに至った。
[飯塚一郎]
ルイ14世の財務総監コルベールが重商主義政策を推進するために1664年設立、カナダ、アカディア、西アフリカ沿岸の貿易独占権を賦与された。西インド諸島の砂糖の独占を企図したが、イギリスとの抗争に敗れ、その後西アフリカの奴隷貿易の独占を企図してセネガル会社を設立したが、これもイギリスに敗退した。1719年に東インド、セネガル、西インドの三会社を合併してインド会社と改称した。
[飯塚一郎]
オランダで東インド会社にならって1621年に設立。アフリカ西岸,アメリカ大陸などへの独占的貿易権を与えられて急速に発展し,北アメリカにニューネーデルラント植民地を築き,ポルトガル領であったブラジルを占領した。しかしこれらの植民地の維持のため過大な財政負担を強いられ,またオランダ自体の衰退もあって,ブラジルをポルトガルに売却,ニューネーデルラントはイギリスに奪われた。会社は1791年解散した。また,フランスでは,コルベールのもとで西インド会社が1664年に設立されたが,あまり成功しなかった。
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…他方,中世以来の地中海経由の香料貿易は,急に消滅したのではないが,ポルトガルに代わってオランダがアジア貿易を握る17世紀にはほとんど意味がなくなり,イタリア諸都市も決定的に没落する。 1602年に,これまであった多数の会社を併合して連合東インド会社を設立,圧倒的な資本力によってモルッカ諸島(香料諸島)を含むインドネシアを支配したオランダは,1621年西インド会社をも設立して西半球にも進出した。この結果,17世紀前半には,アントワープに代わってアムステルダムが世界経済の中心となった。…
…熱心なカルバン主義者であった彼は,アメリカにオランダ人プロテスタントの理想の国を築くとともに,新大陸の富をスペインから奪いオランダ独立戦争(八十年戦争)を有利に進めようと考えた。その構想を実現に移そうと,1604年と18年に西インド会社特許状草案を発表したが,スペインに対して徹底抗戦を主張したために,その計画は休戦に傾いていた当時の政府のいれるところとはならなかった。21年に設立されたオランダ西インド会社は彼の意図するところとは異なり,私掠(しりやく)業のための会社であった。…
※「西インド会社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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