西ゴート(読み)にしごーと(その他表記)Visigoths

日本大百科全書(ニッポニカ) 「西ゴート」の意味・わかりやすい解説

西ゴート
にしごーと
Visigoths

民族移動時代に活躍した東ゲルマン系のゴート人の一分派をなす集団。ゴート人は、元来スカンジナビア半島に居住していたが、しだいに南下、2世紀中葉から3世紀にかけて、ドナウ川北岸に定住した西ゴート人と、黒海北岸に定住した東ゴート人とに分離した。4世紀後半、フン人の西進により、376年、西ゴート人の大部分は、フリティゲルンFritigernに率いられてローマ領モエシアに移住。これが民族大移動のきっかけとなった。移住後ローマの圧迫に対して反乱を起こし、アドリアノープルの戦い(378)でローマ皇帝ウァレンスを敗死させたが、次の皇帝テオドシウス1世の和親政策により、ローマの同盟者(フェデラーティ)としてトラキア地方に定住した。テオドシウス1世の死後ふたたびローマと敵対し、アラリックを王に選び(395)、イタリアに侵入、各地を転戦したが、その間にアラリックは戦死(410)し、王位を継いだ義弟アタウルフに率いられて、412年以降南ガリアを征服し、ワリア王(在位415~418)の時代にローマから正式にアキテーヌ地方を譲られ、415年ここに西ゴート王国(トロサ王国)を建てた。王国はエウリコ王(在位466~484)のもとで、南ガリアからスペインの大部分にまで国土を広げ、ローマ文化を積極的に取り入れて西ゴート法典を編纂(へんさん)するなど、その最盛期を迎えたが、507年アラリック2世がフランク王クロービスに敗れたのち、しだいに南ガリア、アキテーヌを失い、王国の重心をスペインに移した(トレド王国)。

 その後、東ローマ(ビザンティン)皇帝ユスティニアヌス1世に南部スペインを奪われ、国内の貴族層の封建化も進んだが、レオウィギルド王は南部スペインを奪回、貴族層を抑えて王国の繁栄を回復した。次王レカレドはアリウス派からカトリック改宗、ローマ系住民との融合を進めていたが、711年アフリカからイスラム教徒が侵入し、西ゴート王国は滅亡した。

[平城照介]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「西ゴート」の解説

西ゴート(にしゴート)
Visigoths

ゴートの一部族。4世紀後半,フンの西進により東ゴートと分かれ,ドナウ川を渡り南下,ローマと接触した(アドリアノープルの戦い)。5世紀初め,アラリック王は再度イタリアに侵入,ローマを劫掠した(410年)。ワリア王(在位415~419)のとき,スペイン(ヴァンダルアラン)の討伐ホノリウス帝との協約により,ロワール川以南のフランスからイベリア半島の大半を含む西ゴート王国が樹立された(418年)。エウリック王法典(475年頃編纂)は最古ゲルマン法として名高い。6世紀以来地方的聖俗豪族勢力が台頭して王国は弱体化し,フランクに南フランスを奪われ(507年,531年),711年イスラームに滅ぼされた。

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百科事典マイペディア 「西ゴート」の意味・わかりやすい解説

西ゴート【にしゴート】

ゴート

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