活劇映画(アクション・ドラマ)の一種。アメリカ映画固有のものであったが、1960年代以降ドイツやイタリアなどでもつくられるようになった。イタリア製の西部劇は俗にスパゲッティ・ウェスタン(日本ではマカロニ・ウェスタン)とよばれる。
[品田雄吉]
エドウィン・S・ポーターの『大列車強盗』(1903)がその始まりといわれ、主として開拓期のアメリカの辺境や西部を物語の舞台としたところからこの名称が冠せられるようになった。1906年ごろから盛んに製作され、トム・ミックスTom Mix(1880―1940)、ウィリアム・S・ハートらの西部劇スターが活躍、ハートは自ら監督をも兼ね、『鬼火ロウドン』(1918)などをつくった。この時代の西部劇は、一般的にいって乗馬と拳銃(けんじゅう)さばきにたけたヒーローが活躍する単純な活劇だったが、セシル・B・デミルの『スコー・マン』(1913)では人種的な問題が取り上げられ、西部劇多様化への第一歩が踏み出された。また、ジェームズ・クルーズJames Cruze(1884―1942)の『幌(ほろ)馬車』(1923)は西部開拓史における叙事ドラマの分野を切り開いた。1930年代から1940年代にかけては、ジョン・ウェインやゲーリー・クーパーなどといった西部劇の大スターが出現し、アメリカ映画の代表的なジャンルに成熟するに至った。この時期のジョン・フォードの『駅馬車』(1939)は西部劇の最高作といわれ、彼はまた第二次世界大戦後も『荒野の決闘』(1946)や、『黄色いリボン』(1949)など多くの騎兵隊ものを発表、西部劇の代表的作家の地位を占めた。
[品田雄吉]
西部劇の基本的な思想は、ピューリタニズムに裏づけられた開拓者精神の賛美と強調であり、勇気と正義と隣人愛が物語の骨格を形づくる。そして、拳銃の撃ち合いや格闘のアクション性とスピード感がもたらす興奮、舞台となる雄大な風土などが映画的な魅力となる。しかし、第二次世界大戦後は、社会状勢の変化を反映して、単なる正義とヒロイズムの賛美にとどまらず、よりリアリスティックに開拓時代をとらえる作品が生まれるようになってきた。フレッド・ジンネマンの『真昼の決斗(ハイ・ヌーン)』(1952)は、ドラマの展開と映画そのものの上映時間とがほぼ同時進行する形でつくられたリアリズム西部劇で、孤立する保安官の姿を通して、従来のヒーローにはみられなかった人間としての弱さを描き、同時に市民たちのエゴイズムを暴いた。また、シェークスピア劇的スケールをもったウィリアム・ワイラーの『大いなる西部』(1958)、流れ者のガンマンに少年を絡ませたジョージ・スティーブンスの『シェーン』(1953)などは西部劇の幅を広げた名作である。その後、男性アクション映画の名匠ハワード・ホークスの傑作『リオ・ブラボー』(1959)や、テレビ畑から出た新しい西部劇作家サム・ペキンパーの異色作『昼下りの決闘』(1962)などもつくられたが、西部開拓の裏面のインディアン大虐殺を描き、騎兵隊をベトナム戦争におけるアメリカ軍の立場になぞらえたラルフ・ネルソンRalph Nelson(1916―1987)の『ソルジャー・ブルー』(1970)や、2人組の強盗を友情や青春の面から描いたジョージ・ロイ・ヒルの『明日に向って撃て!』(1969)などはアンチヒロイズムの西部劇とみなされる。
[品田雄吉]
劇映画における西部劇の盛衰は、テレビとの関係においてとらえるのがわかりやすいだろう。1950年代から1960年代にかけて、テレビで西部劇のシリーズが数多く放送された。それは、日本で時代劇のシリーズがテレビで盛んに放送されたのと照応する。スティーブ・マックィーン(『拳銃(けんじゅう)無宿』1958~1961)やクリント・イーストウッド(『ローハイド』1959~1966)はまずテレビで人気を得た。テレビでの西部劇の隆盛は、映画館で公開されるプログラム・ピクチャーとしての西部劇を衰退させる。
テレビ西部劇シリーズが下降期に入ると、クリント・イーストウッドやバート・レイノルズBurt Reynolds(1936―2018)らの若手俳優たちは、おりから活発化したイタリア製西部劇に出演する。そしてイーストウッドは、黒澤明の『用心棒』(1961)を無断翻案したセルジオ・レオーネの『荒野の用心棒』(1964)で人気を得て、その後アメリカに戻って、ドン・シーゲルのアクション映画や西部劇でスターとしての地歩を固め、やがて自ら監督もするようになる。しかしながら、人権が重視される時代風潮のなかで、アメリカ先住民を敵役とする、いわゆる中級娯楽作としての西部活劇の衰退は歴史的必然だったといえる。かわって、大作としての西部劇、あるいはカルト・ムービー的な西部劇がみられるようになる。
[品田雄吉]
俳優のケビン・コスナーKevin Costner(1955― )が監督・主演した『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(1990)は騎兵隊の将校を主人公にした西部劇で、自然と調和しながら生きるアメリカ先住民に深い共感を寄せた作品だった。この作品は自然環境を大切にするというコンセプトを受けて「エコロジー西部劇」とよばれることになる。この映画では、善玉はアメリカ先住民であり、アメリカ騎兵隊が悪役である。
一方、西部劇の第一人者となったクリント・イーストウッドは、監督・主演した『許されざる者』(1992)で、ガンマンの贖罪(しょくざい)と正義の戦いを描いた。また、サイレント期の映画のリメーク(改作)とされるマイケル・マンMichael Mann(1943― )の『ラスト・オブ・モヒカン』(1992)は、イギリス軍に対するアメリカ先住民の戦いを力強くヒロイックに描き、改めてアメリカ開拓史における先住民の存在に光をあてた。
またアレックス・コックスAlex Cox(1954― )の『ストレート・トゥ・ヘル』(1987)やジム・ジャームッシュJim Jarmusch(1953― )の『デッドマン』(1995)はカルト系の西部劇と位置づけることができよう。いずれにしても、無敵の正義派ガンマンが登場する西部劇は完全に過去のものとなったのである。
[品田雄吉]
『増淵健著『西部劇映画100選』(1976・秋田書店)』▽『児玉数夫著『西部劇大鑑』(1976・明治書院)』▽『フィリップ・フレンチ著、波多野哲朗訳『西部劇・夢の伝説』(1977・フィルムアート社)』▽『ドナルド・シェパード他著、高橋千尋訳『DUKE ジョン・ウェイン』(1989・近代映画社)』▽『ミンティー・クリンチ著、奥村恵美訳『クリント・イーストウッド――強くて寡黙な男の肖像』(1995・近代映画社)』▽『ハリー・ケリー・ジュニア著、高橋千尋訳『ジョン・フォードの旗の下に』(1997・筑摩書房)』▽『中条省平著『クリント・イーストウッド――アメリカ映画史を再生する男』(2001・朝日新聞社)』▽『逢坂剛・川本三郎著『大いなる西部劇』(2001・新書館)』▽『増淵健著『西部劇――その精神と魅力の解剖』(三一新書)』
アメリカ映画独特のジャンルで,果てしない荒野,巨大なサボテンの林立,荒涼たる岩山といった辺境の特異な風景や,開拓時代の無法地帯を舞台に,馬に乗って,つば広の帽子をかぶり,拳銃を腰にさげた男たちが平和のために,あるいは男の意地をかけて決闘に挑むアクション・ドラマというのがもっとも一般的なイメージである。歴史の短いアメリカの〈時代劇〉的ジャンルであり,きびしい気候風土から生まれた独特の生活様式や風俗などがエキゾティックな魅力をかき立て,大衆娯楽映画のもっとも単純明快な一形式として,世界各国で愛されてきた。
西部劇の原点には二つの系譜があり,一つはいわば〈リアリズム〉の方向をめざすもので,映画史の第1ページを飾るトマス・エジソン製作,エドウィン・S.ポーター監督の《大列車強盗》(1903)がそれである。アメリカの劇映画の元祖であり,西部劇の元祖でもあるが,扱われた題材は実は当時の生々しい現実の強盗事件(有名な列車強盗団〈ワイルドバンチ〉のしわざ)であったから,西部劇とはリアルな〈現代劇〉にほかならなかった。もう一つは逆に現実ばなれした〈荒唐無稽〉の方向をめざす西部劇で,《大列車強盗》の端役でデビューしたG.M.アンダーソン(1881-1971)がみずから監督・主演した《ブロンコ・ビリー》シリーズ(1907-16)。正義のヒーローが悪漢どもを倒し,ヒロインを救うという勧善懲悪のパターンで,大人気を博し,やがて〈ホース・オペラhorse opera〉と呼ばれるB級西部劇,トム・ミックスやバック・ジョーンズから〈歌うカウボーイ〉と呼ばれたジーン・オートリーやロイ・ロジャーズに至るお子さま向け西部劇の原型になった。
リアリズム志向の西部劇は,インディアンと白人の混血児の悲劇を描いたセシル・B.デミル監督《スコウマン》(1913),虐げられつつ滅びゆくインディアンの悲哀を描いたモーリス・トゥールヌール監督《モヒカン族の最後》(1920)やジョージ・B.サイツ監督《滅びゆく民族》(1926)といった人種問題に目を向けた作品や,《鬼火ロウドン》(1918)あたりから《曠原の志士》(1925)に至るウィリアム・S.ハート監督の人間味と詩情のあふれる〈ハート西部劇〉や,開拓民のキャラバン隊の大移動を描いたジェームズ・クルーズ監督《幌馬車》(1923)や鉄道建設を描いたジョン・フォード監督《アイアン・ホース》(1924)といった西部開拓史そのものに取材した〈叙事詩〉的大作に受け継がれた。1930年には早くも70ミリ作品に挑んだラオール・ウォルシュ監督《ビッグ・トレイル》,そしてオクラホマ20年の開拓史をつづったウェズリー・ラッグルズ監督《シマロン》(1931)のような大作がつくられている。トーキー時代を迎えて,西部劇は馬のいななきやひづめの音や銃声や西部民謡といった〈音声〉の魅力を加えて発展し,他のジャンルと同様に音にふりまわされるという一時の試行錯誤はあったものの,あくまでも野外のドラマという条件のために室内劇のような台詞過剰に陥ることはなく,ラオール・ウォルシュ監督《懐しのアリゾナ》(1929)やキング・ビダー監督《ビリー・ザ・キッド》(1930)で効果的に使われたギターやピアノを使った音楽場面,銃撃戦,野宿のフライパンの中でベーコンの焼ける音といった音の使い方はその後の西部劇にも不可欠の要素となった。
西部劇の全盛時代は,ジョン・フォード監督《駅馬車》(1939)からハワード・ホークス監督《リオ・ブラボー》(1959)に至る20年間であるというのがほぼ定説になっている。〈アメリカ自身が迷わなかった〉時代であり,映画をつくる側も見る側も迷わず〈フロンティア・スピリット(開拓者精神)〉を信じて夢を描くことができた時代であり,またサイレント時代からたたき上げてきた特色ある監督や俳優が円熟あるいは絶頂を極めた時期でもあった。とくに1940-50年代はハリウッドの〈赤狩り〉の時期で,あたりさわりのない娯楽映画づくりが歓迎され,それには西部劇が絶好の素材であったという見方もなされている。デミル(《大平原》1939),ウィリアム・ワイラー(《西部の男》1940),フリッツ・ラング(《西部魂》1941)といった巨匠や異色監督が西部劇を撮りはじめるのもこの時期だが,一貫して西部劇を撮り続けたのは〈西部劇の神様〉,ジョン・フォード監督である。
50年代は西部劇の曲り角といわれるように(この時期は西部劇以外の分野の監督が初めて西部劇をつくるのが特徴である),かつてない屈折した人間ドラマが西部劇の中心になり,おおらかな西部魂や豪快な活劇性を喪失する。その前ぶれはすでに戦時中につくられた群衆心理による私刑とその当事者たちの内面の苦悩を描くウィリアム・A.ウェルマン監督の《オックス・ボウ事件》(1943)にあったが,デルマー・デービス監督のインディアンの側から見たヒューマニズム西部劇《折れた矢》(1950),殺し屋に狙われた保安官が町中の人々に助力を乞うという西部劇の定石からは想像もできない〈ふつうの人のふつうの話〉を描いたフレッド・ジンネマン監督の《真昼の決闘》(1952),ホームドラマと恋愛映画をミックスして貧しい開拓農民としがないガンマンの〈実像〉を描いたジョージ・スティーブンス監督の《シェーン》(1953)に至って,その心理ドラマの傾向は決定的になった。西部劇が西部劇を疑いはじめ,西部開拓史の洗い直しがはじまり,伝説が崩れていく。この傾向に対してハワード・ホークス監督は《真昼の決闘》を裏返しにした《リオ・ブラボー》(1959)をつくり,ジョン・フォード監督はインディアンへの憎しみに生きる男の執念を描いた《捜索者》(1956)をへて,〈事実よりも伝説〉こそが美しかった古きよき西部の終焉(しゆうえん)を描いた《リバティ・バランスを射った男》(1962)をつくり,そしてサム・ペキンパー監督は《昼下りの決闘》(1962)で老ガンマンたちの最後の決闘を描く。古きよき西部へのノスタルジーにあふれたペキンパー監督《ワイルドバンチ》(1969)やジョージ・ロイ・ヒル監督《明日に向って撃て!》(1969)がつづくかたわら,イタリアから〈マカロニウェスタン〉(欧米では〈スパゲッティウェスタン〉)と呼ばれる残酷描写を売物にした変種の西部劇が跋扈(ばつこ)するのも,はるかなる西部の伝説が崩壊してしまった60年代である。だが,この変種もあまりに濫作されすぎて短期間で終息したものの,そこからセルジオ・レオーネ監督(《ウエスタン》1969,《夕陽のギャングたち》1970)のような逸材も生まれた。
西部劇の盛衰はアメリカの政治的な力のあり方に左右されるといわれる。例えば,1960年,ジョン・F.ケネディが大統領に就任し,〈ニューフロンティア宣言〉がなされると,それに応じ,フロンティア・スピリットの復活をめざしてシネラマによる超大作《西部開拓史》(1962)がつくられ,テキサス独立のおりの玉砕戦史を描いて国威発揚をうたった70ミリ大作《アラモ》(1960)がつくられる。しかし,そのケネディ大統領が63年に凶弾に倒れ,アメリカがベトナム戦争の泥沼に踏み込んでいき,〈ブラックパワー〉や〈レッドパワー〉が大きく台頭してくるにつれて,西部劇は沈滞し,あるいは暗い内容におちこみ,ジョン・フォード監督はその最後の西部劇《シャイアン》(1964)でインディアン迫害の歴史を追悼し,70年代に入るや,ベトナム戦争のイメージでインディアン大虐殺を主題にした《ソルジャーブルー》(1970),《小さな巨人》(1970)などがつくられる等々。いずれにせよ,西部劇はかつての単純明快な,アクション中心の娯楽映画の系列からは遠く離れたものになり,そして,最後まで豪快な西部劇の定石を守り続けたハワード・ホークス監督も《エル・ドラド》(1967)と《リオ・ロボ》(1970)を最後に現役を退き,さらに79年,〈西部の巨人〉として西部劇の象徴であった大スター,ジョン・ウェインが自分自身を主人公にしたような癌に苦しむ老ガンマンの最期を描いた《ラスト・シューティスト》(1975)を遺作にこの世を去り,アメリカ西部劇の歴史は閉じられたという感慨がある。
執筆者:岡田 英美子+広岡 勉
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…1956年製作のジョン・フォード監督の西部劇。《荒野の決闘》(1946)から《シャイアン》(1964)に至るフォードの戦後の西部劇の頂点とみなされ,フォード自身のことばによれば〈家族の一員になることができなかった1人の孤独な男の悲劇〉を描いた詩情あふれるフォード西部劇の集大成でもあり,また,人種偏見と憎しみに生きる孤独な男の心のなかに突如愛とヒューマニズムがよみがえる瞬間をみごとに感動的に演じてジョン・ウェインの最高作ともみなされる作品である。…
…〈犯罪〉〈暴力〉〈正邪の対決〉といったすぐれてアメリカ映画的な要素をはらんだストーリーを,初めて映画的な話法で表現することに成功して〈アメリカ映画の最初の古典〉とみなされている。〈最初の物語映画(story film,またはnarrative film)〉,そして〈最初の西部劇〉としても知られる。当時の社会的関心事であった列車強盗を題材に,強盗団が郵便車から大金のはいっている郵便袋を盗んで,逃走するが,追跡隊によって銃撃戦の末,全滅させられるまでが14のシーン(=カット)によって構成されている(長さは586フィート,当時の上映スピードで約9分というのが通説である)。…
…イタリア製西部劇の日本での俗称で,ときに〈マカロニ西部劇〉とも呼ばれる。また,英語国では〈スパゲッティ・ウェスタンspaghetti western〉と呼んでいる。…
…フレッド・ジンネマン(1907‐97)監督作品。〈リアリズム西部劇〉の傑作として知られる。日曜日,自分自身の結婚式の当日にもかかわらず,保安官は復讐にくる殺し屋とその一味を迎えて決闘しなければならないという,西部劇としてはごくありきたりの物語を,緻密(ちみつ)な心理描写(花嫁や町の人々から協力を得られぬ孤立無援の保安官の焦躁,苦悩など)や時間的なリアリズム(殺し屋が乗ってやってくる列車が町に到着する正午までの1時間20分を,たえず時計を画面に見せながら,正確に〈同時進行形〉で描く,等々)で構成し,ホームドラマと恋愛映画を西部劇のなかにもちこんだジョージ・スティーブンズ監督《シェーン》(1953)などとともに,西部劇を子ども向けの活劇からおとなの映画に変えた画期的な作品である。…
…1959年製作のアメリカ映画。《赤い河》(1948)に次ぐハワード・ホークス監督,ジョン・ウェイン主演の西部劇で,このあと同工異曲のプロットと人物配置をもつ同じコンビの西部劇《エル・ドラド》(1966),《リオ・ロボ》(1970)と合わせて〈リオ・ブラボー三部作Rio Bravo Trilogy〉とよばれる。 ウィル・ライト著《六連発銃と社会》(1975)によれば,開拓民の共同体を〈悪〉から守るヒーローの活躍を描いた〈古典的なプロット〉の西部劇に対して,まずジョン・フォード監督の《駅馬車》(1939)が個人の執念に生きるヒーローを描く〈復讐のテーマ〉の西部劇のはじまりとなり,次いで《リオ・ブラボー》がプロのガンファイターたちのプロとしての誇りと責任や腕の競い合いを興味の中心とする〈プロフェッショナルのテーマ〉を開いた西部劇として,トーキー以後の西部劇の流れを変えたという。…
※「西部劇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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