精選版 日本国語大辞典 「読売新聞」の意味・読み・例文・類語
よみうり‐しんぶん【読売新聞】
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日本の代表的な全国紙の一つで、世界最大の発行部数を誇る。
1874年(明治7)11月2日、子安峻(たかし)(1836―1898)らが東京で創刊。当初は小(こ)新聞として、俗談平話、振り仮名つきの隔日刊紙だったが、たちまち庶民の人気を集め、新聞界第一の発行部数を獲得、翌年5月1日から日刊紙となった。1890年1月本野盛亨(もとのもりみち)が社長となり、高田早苗(さなえ)(主筆)、坪内逍遙(つぼうちしょうよう)が入社すると文芸新聞としての色彩が強くなり、幸田露伴(こうだろはん)、尾崎紅葉(こうよう)(『金色夜叉(こんじきやしゃ)』など主要作のほとんどを紙上で発表)ほか多くの文人が入社、紙面を飾った。明治末期には、社員正宗白鳥(まさむねはくちょう)の人脈から自然主義作家が『読売新聞』を舞台に活躍した。
[春原昭彦]
しかしこの間、報道新聞化への動きに取り残され、しだいに経営は苦境に陥ってきたため、1919年(大正8)9月、本野家の経営を離れ、松山忠二郎(元『東京朝日新聞』編集局長)が社長になった。松山は編集の人材を入社させるとともに通信網の充実を図り、紙面を刷新したため、世間の人気は急速に高まった。しかし松山の挽回(ばんかい)策も、1923年9月1日に起こった関東大震災で、落成したばかりの新社屋が被災したため挫折(ざせつ)、翌1924年2月25日、虎の門事件(とらのもんじけん)の責任で警視庁警務部長を免官になった正力(しょうりき)松太郎が買収してから発展の途をたどることになる。正力は、経営に乗り出すと、紙面を改革するとともに、1925年11月15日いち早くラジオ版を新設、翌年には日曜夕刊を発行するなどの新機軸を打ち出す一方、本因坊・雁金(かりがね)戦をはじめとする数々の囲碁・将棋対局、空前の日本名宝展開催、職業野球の創始など、次々に独創的企画を打ち出し、紙面に掲載、人気を集めた。
[春原昭彦]
1931年(昭和6)9月満州事変が起こると、11月25日から夕刊を発行、従来の併読紙から報道重視の主読紙として、『朝日新聞』『毎日新聞』に対抗する途を歩み始める。1929年8月には務台光雄(むたいみつお)(1896―1991)が入社、販売面を一手に引き受け、以後、正力・務台のコンビで関東、東北に部数を伸ばし、第二次世界大戦前すでに東京第1位の部数を誇った。1942年8月、戦時新聞統合で『報知新聞』を合併、『読売報知』と改題した。
第二次世界大戦後は、1945年(昭和20)10月から1946年にかけての2次にわたる争議(読売新聞争議)、正力社長の戦犯容疑者指名・追放などの危機を、新社長馬場恒吾(つねご)の下で切り抜けた。1946年5月『読売新聞』に復題し、1952年11月には『大阪読売新聞』を発刊(1953年『読売新聞』に題字統一)、以後、専売制復帰とともに全国に紙数を伸ばした。1959年札幌で印刷発行を開始したのに続き、1961年高岡、1964年北九州に進出、1975年3月には『中部読売新聞』を名古屋の傍系社から発行(1988年合併、『読売新聞』に題字統一)、青森でも印刷と、全国に発行地を広げた。1977年には日本の新聞界で初めてアメリカに進出、ニューヨークで現地印刷を開始した(2003年10月休刊)。
[春原昭彦]
1990年代以降は、国際衛星版を東南アジア(バンコク)、ヨーロッパ、香港(ホンコン)で発行、国内では、1997年(平成9)に東京、大阪、西部の3本社、北海道、中部、北陸の3支社、二十数か所の分散印刷工場を結ぶ新しい情報処理システムを構築した。紙面では、政治、行政や日本の進路などに数々の提言を発表して話題をよんでいるほか、「医療・教育のルネサンス」を唱えた長期連載などが注目されている。1999年には経営難に陥った中央公論社を傘下に収めるなど業務を拡大、最近ではインターネット上でのウェブサイトの開設にも意欲を燃やしている。現在、アメリカ(ワシントン)、欧州(ロンドン)、アジア(バンコク)、中国(北京(ペキン))の4総局、世界30か所に支局を置いているほか、AP(アメリカ)、ロイター(イギリス)、AFP(フランス)、朝鮮通信などの通信社、世界の有力紙誌と特約を結び、取材網の充実を図っている。発行部数朝刊1001万部、夕刊355万部(2010)。
[春原昭彦]
『読売新聞百年史編集委員会編『読売新聞百年史』(1976・読売新聞社)』▽『読売新聞社社史編集室編『読売新聞発展史』(1987・読売新聞社)』▽『読売新聞社編『読売新聞百二十年史』(1994・読売新聞社)』
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1874年(明治7)11月2日,東京で創刊された小新聞(こしんぶん)の始祖。総振り仮名付きの談話に近い文体と雑報中心の紙面,紙名の由来である街頭での呼売りで人気を獲得,発行部数で大新聞を抜き去った。89年本野盛亨(もとのもりみち)が初代経営者子安峻(こやすたかし)の後を継ぎ,坪内逍遥・尾崎紅葉らが入社すると,硯友社の作家が活躍,文学新聞として名高くなった。1924年(大正13)3月正力松太郎が社長に就任,部数を伸ばした。42年(昭和17)8月,新聞統合により「報知新聞」を合併し「読売報知」となったが,戦後旧名に復帰。「朝日」「毎日」と激しい販売合戦を展開し,日本最大の発行部数を誇る新聞に成長した。販売部数約926万部(2014)。
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…1892年黒岩涙香の創刊した《万朝報》が〈娯楽的毒舌新聞〉(正岡芸陽の言葉)として売り出したのがその最初で,同紙が淡紅色の用紙だったことからこの名が生まれたともいう。昭和の初め《読売新聞》が正力松太郎新社長のもとで部数を増していったころにも,新聞界の一部にこれと似たセンセーショナリズムの傾向が見られた。イェロー・ジャーナリズム【荒瀬 豊】。…
…小新聞の世界では大新聞ほどはっきりした政党色はなかったが,自由民権運動が高揚するとともにその色彩が多少とも現れる。《読売新聞》《仮名読新聞》《東京絵入新聞》《絵入自由新聞》などが主要な小新聞である。なお,大阪では大新聞として《大阪日報》,小新聞として《浪花新聞》《朝日新聞》が代表格である。…
…明治期の新聞・出版経営者。《読売新聞》の初代社長。岐阜大垣藩士として生まれる。…
…内務省に入り累進して警視庁警務部長になったが,1923年(大正12)12月虎の門事件で引責辞職。翌24年2月,経営難で不振の〈《読売新聞》〉を買い受け社長に就任,新聞界に転じた。意表をつく新企画の連発と積極経営で社勢拡大に成功,41年(昭和16),読売は発行部数で〈《朝日新聞》〉〈《毎日新聞》〉をおさえ東日本最大の新聞に成長した。…
…敗戦直後の1945年10月,読売新聞社の従業員は正力松太郎社長以下幹部の戦争責任を追及し,社内機構の民主化,待遇改善など5項目の要求を掲げて新聞の編集・製作・発送を自主管理する生産管理闘争に立ち上がった。この争議は同年暮れ,組合側が勝利を収め,経営協議会を設けて労働者が経営に参加,編集を資本から分離して,《読売新聞》が〈民衆の友となり……人民の機関紙たること〉を宣言した。…
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