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江戸末期に幕府が設けた武術修練所。1854年(安政1)開国前後の情勢緊迫化を背景に,老中阿部正弘のもとで設立準備が開始され,まず講武場を設置,翌年2月総裁,頭取などの役員の任命,56年3月築地鉄砲洲の施設完成の後,同年4月講武所として正式に開所された。剣・槍・砲術の各術科の師範役と教授方が置かれ,主として旗本御家人やその子弟の中の有志者に修練を施し,弓術・柔術・水練の教習も併せて行われた。1858年1月深川越中島に講武所付属の銃隊調練場が開設され,60年(万延1)2月講武所は神田小川町の新施設へ移転した。しかし62年(文久2)および67年(慶応3)を画期とする洋式軍隊建設を目ざす軍事改革により,講武所は深刻な影響を受けた。62年弓術,柔術などの教習が廃され,66年11月には陸軍所と改称されてもっぱら砲術修業が行われることになった。さらに67年6月陸軍所における三兵士官学校の設立が決定され,講武所は名実ともに廃された。ただし,幕府の洋式軍隊の指揮官の中には講武所の砲術指導者から転じた者が多く見られる。
執筆者:梅沢 ふみ子
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幕末期、江戸幕府が軍制改革の一環として設置した軍事の訓練機関。外圧に対する軍制改革を進めるなかで、幕府は1855年(安政2)講武場を創設して、旗本以下の面々に武芸・砲術をはじめとする軍事訓練を行うことを布告したが、その後、この講武場を講武所と改め、翌56年、築地(つきじ)鉄砲洲(てっぽうず)に講武所を竣工(しゅんこう)させた(のち深川越中島(えっちゅうじま)にも調練場を設置)。開業は同年4月13日。講武所規則覚書を公示し、入所手続などを定め、将来は陪臣や浪人にも開放するとした。開業には将軍徳川家定(いえさだ)が老中以下を率いて臨み、以後、幕府の武芸・洋式訓練・砲術などが盛んになった。のち鉄砲洲の構内に軍艦操錬所が設けられたため、講武所は60年(万延1)神田小川町に移され、66年(慶応2)11月陸軍所と改称された。教授として、剣術の男谷(おだに)精一郎・伊庭(いば)軍兵衛・榊原鍵吉(さかきばらけんきち)・桃井(もものい)春蔵、槍術(そうじゅつ)の高橋泥舟(でいしゅう)、砲術の下曽根(しもそね)金三郎・高島秋帆(しゅうはん)・勝海舟(かいしゅう)ら当代の大家が選ばれた。
[田中 彰]
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幕末期に設けられた幕府の武術調練機関。1856年(安政3)4月,老中阿部正弘の命で江戸築地に開場。剣術・槍術・砲術と水泳をおもな科目とする武術の総合的な練習場で,砲術方は西洋砲術(銃隊調練)を採用,その後の洋式軍制化の中核機関となる。60年(万延元)に小川町に移転。長州戦争時には大坂に玉造講武所が設置され,旗本や大名軍の実地調練が行われた。66年(慶応2)11月,幕府軍制改革により陸軍所と改称。
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