出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
安土(あづち)桃山時代の武将。小者から身をおこし、織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を確立した。尾張(おわり)中村(名古屋市中村区)の百姓弥右衛門(やえもん)の子。母は尾張御器所(ごきそ)村(名古屋市昭和区)の生まれで、名はなか(後の大政所(おおまんどころ))。秀吉の生年については2説あり、土屋知貞(ともさだ)の『太閤素生記(たいこうすじょうき)』などには天文(てんぶん)5年申歳(さるどし)(1536)の正月元日生まれとし、秀吉が右筆(ゆうひつ)の大村由己(ゆうこ)に命じて書かせた『関白任官記』などには天文6年酉(とり)歳の2月6日とし、判然としないが、申歳生まれ説は、幼名の日吉丸(ひよしまる)説、日吉大権現(だいごんげん)の申し子説やその容貌(ようぼう)とも深く結び付いて生じたもののようで、今日では後者が有力視されている。なお、その容貌からであろう、幼時にはあだ名を小猿(こざる)、長じてからは猿とか、はげ鼠(ねずみ)と称された。
[橋本政宣]
秀吉7歳のとき、父弥右衛門が病死し、母なかは織田信秀の茶同朋(ちゃどうぼう)筑阿弥(ちくあみ)に再嫁したので、秀吉も養父のもとで一時期を過ごしたが、やがて武家奉公を志して家を出て、遠江(とおとうみ)久能(くのう)の城主松平元綱に仕え、ついで1554年(天文23)18歳のとき、尾張清洲(きよす)の城主であった織田信長に小者として仕えた。その忠勤ぶりは、信長の草履(ぞうり)を懐中で温めていたというエピソードに象徴されるように抜群のものがあった。1561年(永禄4)、弓の衆浅野長勝の養女おね(杉原定利の女(むすめ)、後の北政所(きたのまんどころ))を娶(めと)り、このころから木下藤吉郎(とうきちろう)秀吉を名のり、その機敏な行動と才覚によっていよいよ頭角を現し、1566年には濃尾(のうび)国境に位置する墨俣(すのまた)(岐阜県大垣(おおがき)市)に築城し、美濃(みの)攻略の拠点を確保した功により部将に取り立てられ、1568年信長が足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛(じょうらく)すると、京都の奉行(ぶぎょう)の一人として活動した。1570年(元亀1)から始まる越前(えちぜん)朝倉氏、近江(おうみ)浅井氏との戦いでは、姉川の戦い、小谷(おだに)城の攻略などで戦功をたて、1573年(天正1)、浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となり、この年7月には、木下を改め羽柴(はしば)藤吉郎秀吉と名のる。
これより領主として北近江支配にあたり、今浜に居城を築き長浜と改めるとともに、信長の部将として各地に転戦し、1575年の越前一向一揆(いっこういっき)攻めには大いに活躍し、この年12月には筑前守(ちくぜんのかみ)に任じられた。やがて織田政権の本願寺との対決が重要課題となって中国経略が緊急性を帯びてくると、秀吉はその総大将に抜擢(ばってき)され、1577年播磨(はりま)に出陣して姫路城に本拠を置き、これより約5年の歳月を要して播磨・備前(びぜん)・美作(みまさか)・但馬(たじま)・因幡(いなば)の経略を行う。1582年備中(びっちゅう)に出兵し、清水宗治(しみずむねはる)の拠(よ)る高松城に迫って水攻めにし、毛利勢と対決すべく、信長の出馬を待ったが、信長はその西下の途中、明智光秀(あけちみつひで)のために本能寺の変で横死した。秀吉は変報に接するや、急遽(きゅうきょ)毛利氏と講和することに成功し、宗治の切腹を見届け、すさまじい強行軍で姫路城に帰着し、軍勢を整えて亡君の弔(とむらい)合戦に挑み、光秀を山崎の戦いで破った。本能寺の変後わずか11日目のことである。
[橋本政宣]
信長死後の事態の収拾策を織田家の重臣が協議した清洲会議において、秀吉は丹羽長秀(にわながひで)・池田恒興(つねおき)などを味方につけ宿老柴田(しばた)勝家の主張を抑え、実質的な信長後継者としての道を踏み出す。1583年、秀吉打倒を策する信長の三男信孝(のぶたか)、滝川一益(かずます)に対し、その機先を制して美濃・伊勢(いせ)に出兵して攻め、ついでこれに呼応して越前より近江に出兵してきた勝家を賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで破り、越前に攻め入って北庄(きたのしょう)城(福井市)の柴田氏を滅ぼし、さらに加賀・越中(えっちゅう)を平定し、ついで信長の次男信雄(のぶかつ)に働きかけて信孝を自殺させるとともに、一益を降(くだ)して尾張・伊勢を支配下に入れる。中国の雄毛利氏もまた好(よしみ)を通じてくる。このように信長の後を受けて全国覇者となる確固たる道を歩むなかで、それにふさわしい城として、商品流通・水陸交通の要地でもある大坂に築城の工を起こした。翌1584年、信雄・徳川家康の連合軍と争った小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いでは、軍事的には手痛い打撃を受けたものの、政治的手段を弄(ろう)して信雄を懐柔し、有利な条件で和議を結び、1585年、信雄・家康に呼応して蜂起(ほうき)した紀伊根来(ねごろ)・雑賀(さいか)の一揆を討伐し、ついで四国征伐を行って長宗我部(ちょうそがべ)氏を降した。そして家康に対しては、実妹(旭(あさひ)姫)を嫁がせるなどの種々の方策をとって上洛を促し、1586年、家康を臣従させた。この間、1584年11月、従三位(じゅさんみ)・権大納言(ごんだいなごん)となり、1585年3月、正二位・内大臣となり、同年7月、摂家間で関白職をめぐって争っていたのに乗じ、近衛龍山(このえりゅうざん)の猶子(ゆうし)として関白・従一位となり、古代的な権威を借りて身分制社会の頂点にたち、1586年12月には太政(だいじょう)大臣となり、豊臣の姓を賜った。関白となった秀吉は、1588年、関白政権の政庁として京都内野に新築なった聚楽第(じゅらくだい)に後陽成(ごようぜい)天皇の行幸を仰ぎ、徳川家康をはじめとする列席の諸大名に天皇への忠誠とともに秀吉への忠誠を誓わせ、朝廷の伝統的権威を背景にして天下に号令することを示した。国内平定においても、まず勅諚(ちょくじょう)をかざして停戦や講和を命じ、これに応じないときには勅命に背くとして征伐した。1587年には九州征伐を行って島津氏を降し、九州の国割りを行うとともに、博多(はかた)・長崎を直轄化し、キリシタン禁令を発し、貿易の独占を図った。1590年、小田原征伐を行って北条氏を滅ぼし、さらに奥州を平定して、ここに天下統一を成し遂げた。
この統一事業に並行して、秀吉は連年のごとく検地を実施してきたが、文禄(ぶんろく)年間(1592~1596)にもっとも盛んに行い全国的に及ぼした。天正(てんしょう)の石直(こくなお)しとも、太閤検地ともいい、中世の複雑に重層した土地関係を整理し、一地一作人制を確立し石高(こくだか)制を実施し、兵農分離を促進した。太閤検地と並ぶ秀吉の重要施策に刀狩(かたながり)がある。農民から武器を没収することは、1576年(天正4)に柴田勝家が加賀国で行った例があるが、秀吉はまず1585年になお根強い力をもっていた寺院の武装を解除するため、高野山(こうやさん)、多武峰(とうのみね)などの刀狩を行い、ついで西日本を平定した時機をねらって、1588年には全国的に刀狩令を出した。諸国の百姓が刀・脇差(わきざし)・弓・鑓(やり)・鉄炮(てっぽう)その他の武器をもつことを禁じ、これを没収することを命じたこの法令は、農村の武器廃絶令ではなく百姓の武具所持禁令というべきもので、身分制的な規制であって、兵農分離の促進を意図したものであった。なお、この刀狩と同時に、海賊禁止令を出している。ついで小田原征伐の翌年、3か条の定書(さだめがき)を出し、侍身分の者が町人や百姓になること、百姓が町人や職人になることを禁じ、武士・百姓・町人・職人の身分の固定化を図った。江戸時代の士農工商の身分秩序は実にこの定書に濫觴(らんしょう)している。
[橋本政宣]
天下統一を成し遂げた翌1591年(天正19)、側室淀殿(よどどの)との間にもうけた愛児鶴丸(つるまる)を喪(うしな)った秀吉は、血縁による政権の維持を図るため、関白職を甥(おい)の秀次(ひでつぐ)に譲り、自らは太閤と称し、豊臣政権の総力をあげて国内統一の延長線上に朝鮮出兵を敢行していく。当時「唐(から)入り」と称されたごとく、まず朝鮮を従え明(みん)国を服属させるという「仮道入明(かどうにゅうみん)」を目的としたものであるが、秀吉がこの計画を明らかにしたのは、関白任官の直後にあたる1585年9月であった。その動機については諸説があり、中国・朝鮮との貿易回復をねらったもの、「佳名を三国にのこす」考えから出たもの、などといわれているが、唐入りは国内統一の過程のなかで標榜(ひょうぼう)され、戦争意欲をあおり領主層の領土拡張の欲望を大陸に向け放出させることに大きな意味をもたされてきた以上、天下統一が唐入りに連ならざるをえなかった。
出兵にあたり秀吉は、これを支える物質的基盤を調査するため、1591年全国に御前帳を作成して提出することを命じて、国ごとの石高の把握をなし、1592年(文禄1)、関白秀次により人掃(ひとばらい)令が出され、全国の家数・人数の調査が行われた。そして秀吉は全国の諸大名に朝鮮出兵の軍令を下して征明軍16万人を編成し、自らも肥前名護屋(なごや)の本陣に赴いて、総指揮にあたった。小西行長・加藤清正を先鋒(せんぽう)とする大軍は釜山(ふざん)に上陸し、わずか20日のうちに朝鮮の首都を陥落させ、この緒戦の勝利に気をよくした秀吉は、日本、中国、朝鮮にまたがる三国国割り計画を打ち出し、秀吉自身は、まず北京(ペキン)に入り、ついで寧波(ニンポー)に居所を定め、進んで天竺(てんじく)(インド)を征服するという遠大な構想をも吐露している。これはまさに大局的判断を欠いた空想にすぎないものであったが、これをまじめに考えていたところに秀吉の悲劇があった。やがて明の大軍の到着、朝鮮兵の立ち直り、義兵民の蜂起(ほうき)などによって、戦局は進展せず、明との和議交渉に入ったが、互いの思惑は相いれるはずもなく、やがて決裂し、1596年(慶長1)ふたたび朝鮮出兵となるが、戦意も盛り上がらず、秀吉の病死によって撤兵命令が出されるまで、延々と戦争が続けられた。これを文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役というが、これは豊臣政権にとって大きな痛手となり命取りとなった。
しかも、政権内部においても、太閤と関白秀次との間に統治権的なあり方からの矛盾が顕在化し、これは淀殿所生の秀頼(ひでより)の継嗣(けいし)問題とも絡んで、秀次事件へと発展し、秀次を切腹させることで秀頼の将来の安泰を図ったが、諸大名に豊臣家の行く末と政権の維持を依頼しなければならない状況を招いた。五奉行・五大老の制が整備されるのは秀吉晩年に至ってのことで、1598年の春に盛大に醍醐(だいご)の花見を行ったのが最後の豪遊となり、死期の迫るのを悟った秀吉は、8月5日五大老に幼い秀頼の将来のことをせつせつと訴えた遺言状を認(したた)め、同18日に波瀾(はらん)に富んだ62歳の生涯を閉じた。「つゆとをちつゆときへにしわがみかな 難波(なにわ)の事もゆめの又ゆめ」が辞世の和歌であった。
[橋本政宣]
『田中義成著『豊臣時代史』(1925・明治書院)』▽『桑田忠親著『豊臣秀吉研究』(1941・角川書店)』▽『藤木久志著『豊臣平和令と戦国社会』(1985・東京大学出版会)』
安土桃山時代の武将。天文6年出生説もある。織田信秀に仕えた足軽木下弥右衛門を父として尾張中村に生まれた。はじめ木下藤吉郎を名のる。
秀吉は遠江の松下之綱(ゆきつな)に仕えたのち織田信長の家臣となり,戦功と才覚によって頭角をあらわした。1573年浅井氏の滅亡後に近江を与えられ,長浜に居城して領域的支配をつよめた。このころ筑前守に任ぜられ羽柴姓を称し,奉行人としての地歩を固めた。77年の中国征伐には明智光秀とともに先鋒をつとめ,播磨三木城の別所長治を討ち,81年には吉川(きつかわ)経家が守備する因幡鳥取城を陥落させ,翌年備中高松城を包囲し毛利氏との決戦を目前にしていた。このおりに信長暗殺の報に接し,直ちに毛利氏と講和を結んで兵をかえし,山崎の戦で明智光秀を破った。その直後に清須会議で信忠(信長の長男)の遺児三法師(秀信)を織田家の跡目に据え,みずから後見人となった。この強引な措置に反対する宿老の柴田勝家と83年近江賤ヶ岳に戦い,越前北ノ庄で滅ぼした。また織田信孝(信長の三男)を尾張内海に自殺させ,主導権を握った。同年かつての石山本願寺跡に大坂城を築き,畿内先進地帯を権力的に掌握し,全国制覇にのり出した。翌年織田信雄(のぶかつ)(信長の次男)・徳川家康の連合軍と小牧・長久手に戦い,外交的手段で家康を臣従させた。85年関白に任官し,古代的な権威をかりて身分制社会の頂点に立ち,翌年太政大臣となり豊臣姓をうけた。みずから京都に造営した聚楽第(じゆらくだい)に88年後陽成天皇を迎えるなど朝廷に接近し,延暦寺や春日社の復興に力をかして仏法の庇護者を自認する態度をとった。他方では紀伊の根来(ねごろ),雑賀(さいか)一揆を鎮圧し僧侶の武器を没収し,公家・寺社の荘園を改めて所領の確認を行った。四国の長宗我部氏を下したのち,87年九州の島津氏を平定し,新たな国分(くにわけ)を行った。90年小田原の後北条氏を滅亡させ,さらに奥羽の諸大名も服属させ,全国統一を達成した。
秀吉の全国統一は武力による征服であることはもちろんだが,綸旨(りんじ)による停戦命令など天皇の権威を十分に利用する点に特徴がみられる。また主要都市や鉱山を直轄下におき貨幣を鋳造し,諸国の座や関を整理するなど商工業の把握につとめた。方広寺大仏殿の造営のため職人を動員し,百姓から武具を取り上げる刀狩令の口実とするなど,新たな身分編成につとめている。九州征伐の直後にキリシタン宣教師の追放を指令し(伴天連(バテレン)追放令),布教の手段となっていた南蛮貿易を自己の統制下におき,武具など先進技術や生糸輸入の独占をはかった。山崎の戦の直後から始まった太閤検地は,征服地を拡大するにつれて全国に及び,石高制に基づいた年貢収取体制の確立により兵農分離を促進させた。91年の身分統制令によって武家奉公人がかってに百姓町人に戻ることは禁止され,身分の固定化をもたらした。
検地の竿と鉄砲隊の威力によって進められてきた秀吉の全国支配は,天下統一によって新たに獲得すべき領地がなくなり,家臣へ恩賞として与えることが不可能となった。1592年(文禄1)かねてから服属を求めていた明国を討つため朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を令し,全国の大名を肥前名護屋(なごや)に集結させた。すでに関白職は甥の秀次に譲り,みずからは太閤として外征に専念し朝鮮へも渡るつもりでいた。緒戦の勝利に気をよくした秀吉は,後陽成天皇を北京に移し,その関白職に秀次をつけ,日本の帝位は若宮(皇子良仁親王)か八条宮(皇弟智仁(としひと)親王)に継がせ,その関白には羽柴秀保か宇喜多秀家をあてるといった,日本・中国・朝鮮にまたがる三国国割(くにわり)計画を呈示した。これは大局的判断を欠いた空想にすぎないものであるが,秀吉の描いた構想を如実に物語っており,やがてインドまでを含めたものに発展していく。しかしこの計画は朝鮮民衆の義兵組織によって砕かれ,明の援軍の到着によって補給路が絶たれた。明との和議交渉に際し,秀吉は朝鮮の南半分の割譲や勘合貿易復活,明の皇女を天皇の后とすることなどを要求した。この交渉は決裂し,97年(慶長2)再び朝鮮へ兵を送った。この間,秀吉に実子秀頼が誕生したことなどから秀次との関係が不和となり,95年秀次は高野山で切腹させられた。戦局の膠着化にともない大名間の対立は深刻化し,農民は兵粮米調達のため過重な負担を強いられるなど,国内は重苦しい雰囲気につつまれた。98年醍醐で華やかな花見が催されたが,秀吉は心身の衰えが激しくなり,8月に幼少の秀頼の前途を案じながら,五大老,五奉行に遺言を残して世を去った。
秀吉の出生はなぞにつつまれており,自己宣伝的要素と重なって忠実を無視した物語が作られた。すなわち,秀吉の母(大政所,天瑞院)は萩中納言という貴族の娘で,尾張に配流されていたが,許されて上洛して宮中に仕え,再び尾張に帰ってすぐに秀吉を生んだと,天皇の落胤であることを暗示するものである。これは大村由己(ゆうこ)の《関白任官記》にも記され,ひろく流布した。同じような趣旨は外交文書にも盛られ,1590年(天正18)の朝鮮,93年(文禄2)の高山国(台湾)へ送った国書では,自分が生まれるとき母は太陽が懐中に入る夢を見,その夜は日光が室中に輝いたと述べている。自己を神秘化し天皇との関係を強調する,まったく虚妄の物語が作られることは,一面では豊臣政権の性格を暗示するものといえよう。
秀吉の出自が無名の名主百姓層であることは,専制権力者という面を見失わせ,江戸時代においても庶民の間に〈豊太閤(ほうたいこう)出世物語〉として素朴な共感を抱かせるもととなったが,明治以後はそれが増幅して作り変えられ,英雄崇拝の観念と結びついていった。とくに戦前では〈大東亜共栄圏の先駆者〉として賞賛するような風潮もあったことを考える必要があろう。
執筆者:三鬼 清一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(林屋辰三郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1537.2.6~98.8.18
織豊期の天下を統一した武将。尾張国愛智郡中村生れ。百姓弥右衛門の子。母はなか(天瑞院)。尾張を出,松下之綱に仕えた後,織田信長に仕える。はじめ木下藤吉郎。信長入京後は京都の民政にあたり,1573年(天正元)北近江の長浜城主となる。この頃から羽柴姓を用い,77年10月からは中国攻めに従事。82年6月本能寺の変に接し毛利輝元と急ぎ和睦して,山崎の戦で明智光秀を倒す。83年4月,柴田勝家を賤ケ岳(しずがたけ)の戦で破って信長の後継者の地位を固め,大坂城を本拠とした。84年,小牧・長久手の戦をへて徳川家康を臣従させ,85年関白,翌年太政大臣となり,豊臣姓を受けた。四国・九州に続き,90年,関東・奥羽を服属させ,全国統一を完成。92年(文禄元)からは「征明」を意図して朝鮮に出兵(文禄・慶長の役)したが,朝鮮水軍の抵抗などに苦戦するなか,98年(慶長3)8月死去。秀吉は,ほぼ全国に行った太閤検地と刀狩によって兵農分離を完成させ,近世社会の基礎を築いた。また九州攻めの後,バテレン追放令を出しキリスト教の布教を禁じたが,ポルトガルとの貿易は継続したので徹底しなかった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
1537~98
日本の安土桃山時代の武将。尾張国中村の人。織田信長に仕え,頭角を現す。本能寺の変に接し,明智光秀を討ち,続いて柴田勝家を破って信長の後継者となる。1590年全国統一を果たす。92年,明の征服を目的に朝鮮に侵攻(文禄の役,壬辰(じんしん)の倭乱)。平壌(へいじょう)の役で明軍に敗れ撤退。その後の日明交渉は難航し,97年に戦闘が再開され(慶長の役,丁酉(ていゆう)の倭乱),翌年8月の秀吉の死によって終了した。日本では立身出世の人物として人気があるが,朝鮮では国土を荒廃させた侵略者である。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…信長の単独政権として全国制覇をめざして展開されるが,その過程で最も強く抵抗した一向一揆勢力の鎮圧に成功した石山本願寺陥落(石山本願寺一揆)が,さらに一つの区切りになる。(3)豊臣政権前期 本能寺の変の直後,豊臣秀吉が明智光秀を破って信長の後継者としての地位を獲得した82年から,小田原征伐についで奥州の鎮定に成功した91年まで。1587年に九州の島津氏を降伏(九州征伐)させて全国統一への確信を深め,朝鮮出兵を具体的日程にのぼせたことが,さらに一つの区切りになる。…
…戦国時代の武家文書の一つ。花押のある文書を判物(はんもつ)というのに対し,印章をおした文書をいう。印判状にはおもに朱印,黒印の2種があり,朱印状,黒印状と呼ぶ。日本の伝統的な思想として朱印は正,黒印は副との考え方があり,朱印は黒印に優るとされた。書札礼の上からは黒印は薄礼との考え方である。印判状の初見は長享1年(1487)10月20日付の駿河今川氏親印判状(黒印)である。鎌倉時代の武家文書は全く無印であったが,戦国の世の印判状の出現は禅林印章の強い影響によるもので,戦国武将が禅林に接近してその風習に感化されたことが要因となっている。…
…旧国名。江州。現在の滋賀県にあたる。
【古代】
東山道に属する大国(《延喜式》)。〈淡海〉〈近淡海(ちかつおうみ)〉とも表記される。滋賀,栗太,甲賀,野洲,蒲生,神崎,愛智,犬上,坂田,浅井,伊香,高島の12郡からなる。《延喜式》のほか738年(天平10)の〈上階官人歴名〉(《正倉院文書》)によって当時も大国であったことが判明する。国衙跡が大津市瀬田神領町の三大寺丘陵で発掘され,国府域は方8町の四周に半町の外縁がめぐっていたと考えられている。…
…またこの政権は土地の一職支配に基礎を置く過渡的存在であるといわれるが,一向一揆の鎮圧以後は大和や和泉に指出(さしだし)を徴して複雑な土地所有関係を固定明確化し,播磨では事実上の太閤検地といわれる検地が,柴田氏領内では刀駈(かたながり)が,大和では城破り(しろわり)が実施され,そして楽市・楽座,関所撤廃などの政策がとられた。もっとも最近では楽市・楽座令を都市振興政策の一環として限定的に理解するむきもあるが,これらの政策は豊臣秀吉により近世的統一政権の基礎として実現してゆくものである。また信長は律令制的支配を象徴する朝廷を保護し,内裏の修造,廷臣門跡の窮乏を救済する徳政の実施,皇大神宮・石清水八幡宮の保護など国家的支配に関与し,朝廷でも太政大臣か将軍の地位を贈る意向があった。…
…1590年(天正18)豊臣秀吉が関東最大の戦国大名後北条氏を滅ぼして全国統一を完成させた戦い。九州征伐後秀吉は,北条氏政・氏直父子にも上洛を促したが,彼らは関東制覇の実績にもたれて秀吉の力を評価できず,上洛に応じなかった。…
…領主側も一揆鎮圧の過程で百姓からの武具没収につとめ,1576年(天正4)柴田勝家が加賀で実施した例などが知られている。85年豊臣秀吉が根来(ねごろ)・雑賀(さいか)一揆を攻略した際,百姓は鋤・鍬など農具をたしなみ,耕作をもっぱらにすべきことを命じている。同年秀吉が高野山を焼き打ちしようとした際,寺側が武具をことごとく差し出してわびごとを述べ,今後は国家安全の懇祈に専心する旨を誓約して赦免をうけている。…
…関白の補任は,摂政の場合と異なり,天皇の外戚であることは資格にならないが,(1)藤原氏北家の出身,(2)大臣または前大臣であるのを資格とした。なお豊臣秀吉・秀次が関白になったのは(1)の原則に合わないが,秀吉は関白補任に際しては近衛前久の猶子となり,平姓を改めて藤原姓を称している。1867年(慶応3)に摂政・内覧とともに廃された。…
…北野の大茶会ともいう。1587年(天正15)10月1日,豊臣秀吉が京都北野神社の神域と松原において,広く人々を集めて催した開放的な大茶会。秀吉は宮中,名護屋の陣中などにしばしば茶会を開いたが,中でもこれはとくに盛大で,史上最も有名な茶会でもある。…
…1587年(天正15)豊臣秀吉が薩摩島津氏の服属を主目的に九州統一をするため,みずから行った戦役。島津氏は1578年大友氏を下して以降,その勢力を肥後,肥前,筑後に及ぼし九州を手中にする勢力に拡大した。…
…近世における京都・大坂間の街道。豊臣秀吉が大坂・淀・伏見に築城の後,1594年(文禄3)に淀川左岸に文禄堤を築造し,堤防上を道路として伏見・大坂間の近道としたのが起源である。江戸幕府は道路をさらに整備し,京街道に伏見・淀・枚方・守口の4宿駅を設定し,品川から大津までのいわゆる東海道五十三次のほかにその延長上の宿とみなし,道中奉行の管轄下に置いた。…
…畿内の布教は1559年日本人イルマンのロレンソ了西を伴ったビレラにより着手され,翌年将軍足利義輝から布教を許された。畿内の諸領主と庶民は救霊を第一とした熱心な信者が多く,結城山城守忠正,高山父子,池田丹後守,小西父子等の武将が受洗し,彼らは畿内キリシタンの中核として教会を支え,70年(元亀1)以降の織田信長・豊臣秀吉時代に至るキリシタン興隆の礎となった。70年来日した布教長カブラルはオルガンティーノを畿内に配し,同年および74年(天正2)に畿内巡察を行い信長に謁した。…
…近世の豊臣政権,江戸幕府が諸大名らに命じて作成・提出させた一国単位の絵図。1591年(天正19)豊臣秀吉が禁裏に献納するという名目で,日本全国の国絵図と御前帳(検地帳)を諸大名らに命じて作成・提出させたことに始まる。それは日本全土を国郡制の枠組みによって掌握する手段であり,同時にきたるべき〈唐(から)入り(朝鮮侵略)〉に向けての国内総動員体制づくりの一環であった。…
…たとえば毛利氏の場合,旧大内氏の領国であった周防・長門では石高が,その他の地域では貫高が用いられたが,便宜上これを1貫=1石に換算することで等質とみなしていた事実が報告されている。 石高制の成立過程を考えるうえで,永禄(1558‐70)末年から天正(1573‐92)初年に近江で出された織田信長の領中方目録,豊臣秀吉の知行宛行状,寺社への寄進状は重要な手がかりとなろう。この場合,表示された石高が年貢高か生産高かが判然としない面もあるが,形態上は後者の,天正10年代以降の秀吉発給文書と同一である。…
…豊臣政権の職制。豊臣秀吉の遺言状案では〈おとな五人〉といわれ,1598年(慶長3)9月の起請文写しでは五奉行と合わせて十人の衆と呼ばれている。豊臣政権最高の施政機関で,構成は徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,上杉景勝からなり,家康と利家とが上首であった。…
…後世ではたとえば清制の貴妃や親王,郡王,貝勒(ベイレ),公主,夫人等の任命をこの語でよんだように,封侯身分と観念されるものの叙任を意味した。冊封の対象は内臣にとどまらず外族にも及び,倭の女王卑弥呼が曹魏朝から〈親魏倭王〉に封ぜられたり,足利義満,豊臣秀吉が明朝から〈日本国王〉に封ぜられたのも冊封の例になる。冊書は本来は竹簡を編綴した竹冊であったが,後世は玉冊や綾錦の類も使用された。…
…当初,織田信長はこれを黙認していたが,82年5月,三好三人衆の康長(笑岩)を先鋒軍として阿波に入れ,三男の織田信孝と丹羽長秀を将とする四国討伐動員令を下した。しかし,これは6月の本能寺の変によって途絶し,以後,元親は柴田勝家,徳川家康と通じ,豊臣(羽柴)秀吉を牽制しながら軍を進め,85年春,念願の四国統一を成し遂げた。ところがこのとき,秀吉は家康と和睦し天下人としての地歩を固めており(7月,関白就任),6月,弟秀長・甥秀次を畿内から阿波へ,宇喜多秀家・蜂須賀家政・黒田孝高らを備前・播磨から讃岐へ,また毛利輝元・小早川隆景を安芸・備後から伊予へと三方から進攻させ,各地で四国勢を撃破した。…
…1583年(天正11)4月近江国賤ヶ岳付近でおこなわれた羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家の戦い。織田信長の死後,秀吉と勝家の勢力争いに信長の遺子信雄(のぶかつ)と信孝の争いが加わったものである。1582年12月秀吉は越前北ノ庄の勝家が雪で兵を出せないのに乗じて,勝家の属城近江長浜城を攻略,勝家と結んだ岐阜城の信孝を下した。翌年正月勝家と結んだ滝川一益が伊勢で挙兵したので,秀吉は信雄と結んで攻撃した。勝家は雪どけを待って佐久間盛政を先発させ,北国街道の柳ヶ瀬に陣した。…
…また家臣の城下集住,楽市楽座制,関所撤廃などの政策により広域的な流通支配をめざした。本能寺の変後,信長を引き継いだ豊臣秀吉は全国統一を成し遂げ,さらに朝鮮出兵を断行した。この間,刀狩令,身分法令を出して兵農分離を推進するとともに,統一的な太閤検地を全国的に実施して,荘園制に終止符を打ち,石高制に基づく土地制度を確立した。…
…ほぼこのころには利休は信長に茶頭として仕えていたのであろう。82年の本能寺の変後,信長政権を継承した豊臣秀吉も茶の湯を好み,利休を重用して3000石の知行を与えたという。85年10月7日秀吉は関白就任のお礼に禁中で茶会を開き,正親町天皇に献茶した。…
…豊臣政権の私戦禁令。16世紀末の豊臣秀吉による戦国社会の統一を武力征服の成功としてとらえる通説に対し,平和令の展開こそ統一策の基調とみる立場から提唱された概念。一揆の時代といわれる中世社会の性格を特徴づけていた,紛争解決における私戦・喧嘩つまり自力救済の慣習は,分国内の紛争解決権を独占しようとする戦国大名の喧嘩両成敗法などによってつよく規制されるにいたる。…
…江戸時代の有職書では,摂家の者で関白を他家へ譲った者を前関白,子息に譲った者を太閤と称するが,いったん他家へ譲った後でも子息が関白となれば太閤と称すると解している。太閤として最も著名な人物は豊臣秀吉であるが,それは1585年(天正13)関白の宣旨を受け,91年養子秀次に関白を譲ったので太閤と称することができたのである。なお古くは関白在職中の者をも太閤と称したらしく,関白左大臣藤原頼通を〈関白太閤〉と称した例がある。…
…豊臣秀吉の伝記物語。小瀬甫庵(おせほあん)作。…
…豊臣秀吉が全国的に実施した検地の総称。1582年(天正10)秀吉が明智光秀を山崎に破った直後,山城の寺社から土地台帳を徴集し,現実の土地所有・保有関係の確認を行ったことに始まるが,その2年前に,秀吉は織田信長の奉行人として播磨検地の実務を担当し,家臣に石高表示の知行宛行状(ちぎようあてがいじよう)を発給し,家役・諸公事の免許を行っているから,これが事実上の太閤検地の始期とみなされている。…
…1598年(慶長3)3月15日,京都の醍醐寺三宝院で豊臣秀吉が催した花見の宴。秀吉は吉野など各地に花を見,三宝院にも何度か足を運んでいるが,このときの花見はとくに豪華で,この年8月に秀吉が病死したため,その最後の豪遊として有名である。…
…1577‐82年(天正5‐10)羽柴(豊臣)秀吉が織田信長の指示によって行った播磨,但馬,因幡,備前,備中の平定戦。中国征伐が開始されたのは明智光秀の丹波・丹後侵入と同じく,石山本願寺の攻防をめぐって織田氏と毛利氏とが戦火をまじえるに至った年である。秀吉は小寺氏の播磨姫路城を根拠として播磨を平定し,但馬に侵入しようとした。1578年毛利氏のため上月城が陥落して盟友尼子一族が滅び,翌年には秀吉自身が信長に専断を叱責されるという困難に遭遇したが,80年正月には別所長治を三木城に自殺させて播磨を制圧し,11月には備前岡山の宇喜多直家を誘降して山陽における毛利氏の抵抗線を崩し,翌年因幡鳥取城を落として毛利氏の山陰の拠点を奪い,そして82年備中に侵入して高松城を囲み,毛利氏の援軍と全面的に対決することになった。…
…熊本藩ではこの土免について〈御土免は田畑共に地味之位をよく見届け,反別相応に相極め申したく候〉としており,また土佐藩でも〈土地の厚薄にしたがい,何村の免は何ッ成と大抵は定め置き,なおまた,五年三年を限り,その村の豊凶を見合せて春のうち免究め仕り候,これを土免と唱え申し候〉としている。土地生産性の向上によって増収を図る小農民経営の展開に対応して,作柄に基づいた年貢徴収を方針とした豊臣秀吉は,1586年(天正14)土地善悪による土免を禁じた。しかし作柄に基づく徴収は,検見役人の派遣,徴収額の不定性などの難点をもっていたため,近世前期から,この土免を基本にその他の要素を盛り込んだ土免制が,畿内に比べ土壌善悪と作柄とが相対的に対応していたと思われる西国を中心に実施された(熊本藩,土佐藩のほか小浜,岡山,広島,鳥取,大洲,久留米,臼杵などの諸藩)。…
…江戸幕府初代将軍。1542年12月26日,三河国岡崎城内で生まれる。幼名は竹千代。父は岡崎城主松平広忠,母は刈谷城主水野忠政の娘(於大の方(おだいのかた),法号伝通院(でんづういん))。広忠は駿河の大名今川義元の勢力下で尾張古渡(ふるわたり)城主織田信秀と対立していたが,その渦中で於大の方の兄水野信元が今川氏に背いて織田氏と結んだので,於大の方は3歳の竹千代を残して離別され,まもなく尾張阿古居城主久松俊勝に再嫁し,竹千代19歳のときまで会うことがなかった。…
…一般には〈ほうこくさん〉と呼ばれている。1598年(慶長3)8月18日に死去した豊臣秀吉は東山の阿弥陀ヶ峰に埋葬されたが,彼をまつるため山麓に創建され,翌年〈豊国大明神〉の神号と正一位の神位が宣下された。豊臣秀頼は吉田兼見を社務に,兼見の弟神竜院梵舜を社僧に,孫の萩原兼従(かねより)を神主に任命した。…
…旧国名。播州。現在の兵庫県西南部。
【古代】
山陽道に属する大国(《延喜式》)で,その東端に位置した。明石,賀古,印南(いなみ),飾磨(しかま),揖保(いいぼ),赤穂,佐用,宍粟(しさわ),神崎,多可,賀茂,美囊(みなき)の12郡よりなる。国司四等官のうち大国にのみ置かれる大目(だいさかん)が712年(和銅5)に播磨国にいるので(《続日本紀》),8世紀初めより大国であったことがわかる。国府は《和名抄》によれば飾磨郡にあり,所在地はいまの姫路市で,姫路城の東または南東部と推定される。…
…1592年(文禄1)3月ごろ,関白豊臣秀次の指令によって全国一斉に行われた家数・人数の調査。1591年(天正19)3月に豊臣秀吉によって行われたという旧説は誤りである。一村ごとに家数・人数・男女・老若を区別し,奉公人・町人・百姓・職人・僧侶・神官などの身分にも注意が払われている。…
…桓武天皇陵が807年(大同2)この地に移され,《江家次第》《拾芥抄》には〈伏見山に在り〉とされている。伏見山は木幡(こはた)山ともいい,この地がのちに豊臣秀吉の伏見城となり,さらに明治天皇陵となった。その南麓に延久年間(1069‐74)藤原頼通の子,橘俊綱が造営した伏見山荘は1093年(寛治7)焼失したが,高陽(かや)院,石田殿とともに三名勝とされていた。…
…豊臣秀吉が1592‐98年(文禄1‐慶長3)に2度にわたって企てた朝鮮に対する侵略戦争。朝鮮側では〈壬辰・丁酉倭乱〉または〈壬辰倭乱〉とよぶ。…
…中世社会には侍・凡下(ぼんげ)・下人という身分制があるが,これが近世の士・農・工・商に直ちに結びつくものではなく,たとえば中世の侍が近世の武士階級に移行するのではないことに注意する必要があろう。 織田信長・豊臣秀吉をはじめ,近世封建社会の組織化に成功した有力武士階級の出自が,かつての土豪・名主百姓など中世社会にあってはほとんど無名の存在であったことは,支配階級である武士が,中世と近世とでは大きく変化したことを示している。中世の荘園体制を支えていた室町幕府・守護大名など由緒ある家柄はもちろん,下剋上の過程で大きく浮かび上がった戦国大名の多くはすでに没落していた。…
…大仏殿とも呼ぶ。豊臣秀吉の創建で1595年(文禄4)完工。6丈(約18m)木製金漆塗座像大仏が安置されたが96年(慶長1)地震のため大破し,98年秀吉の死後,秀頼は復興を命じ,1612年銅像大仏が落成。…
…尾張愛知郡荒子に生まれ織田信長に近侍し,1551年(天文20)以来諸征服戦に従軍,59年(永禄2)信長の勘気を受けて蟄居(ちつきよ)したが69年許されて家督を継いだ。赤母衣衆となり,75年(天正3)越前平定後武主(ものぬし)柴田勝家のもとで佐々成政,不破光治と府中三人衆として施政に当たり,81年能登に転封,翌年本能寺の変の後,越中の前線から撤退して石動山天平寺の僧徒や温井,三宅等の反乱を討伐し,翌年賤ヶ岳の戦に従軍したが豊臣秀吉に下った。柴田氏の滅亡後,加賀金沢城主となって越前北ノ庄の丹羽長秀とともに北陸を制する大大名となった。…
…歴史上の英雄伝説や高僧伝のなかにその例がみられる。豊臣秀吉は,母がその胎内に日輪が入った夢を見て生まれた子といわれ,日吉山王の申し子である。高僧伝の例としては,良弁(ろうべん)僧正の話が名高く,伊豆三島大明神の縁起によると,伊予国三島郡の長者清政が,初瀬(長谷)の十一面観音に願って授けてもらった子が後にワシに取られ,杉の梢に置かれていたのを助けられてさまざまな曲折を経て高僧となったとある。…
…室町期に観世の芸風を〈京がかり〉,金春のそれを〈大和がかり〉と呼んでいるのも,それぞれの活動の場を反映したものである。応仁の乱(1467‐77)から戦国時代という混乱期には大和猿楽も窮乏するが,金春座を贔屓(ひいき)にしていた豊臣秀吉の保護があって危機を脱する。秀吉は宇治猿楽や丹波猿楽の役者を大和猿楽四座にツレや囃子方として所属させたため,それらの諸座は解体の運命をたどり,結果的に大和猿楽のみが命脈を保つこととなったが,江戸幕府も秀吉の政策を継承し,四座の役者に知行・扶持・配当米を与えて保護した。…
※「豊臣秀吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
7/22 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新