豊里(読み)とよさと

百科事典マイペディア 「豊里」の意味・わかりやすい解説

豊里[町]【とよさと】

宮城県中北部,登米(とめ)郡の旧町。北上川迫(はさま)川合流点に位置する。江戸時代伊達氏による数次の開拓が行われ,水田広い気仙沼線が通じる。2005年4月登米郡町,登米町,東和町,中田町,米山町,石越町,南方町,本吉郡津山町と合併し市制登米市となる。32.85km2。7395人(2003)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「豊里」の意味・わかりやすい解説

豊里(宮城県)
とよさと

宮城県北東部、登米郡(とめぐん)にあった旧町名(豊里町(ちょう))。現在は登米市南部を占める地域。旧豊里町は、1950年(昭和25)町制施行。2005年(平成17)迫(はさま)、登米(とよま)、東和(とうわ)、中田(なかだ)、米山(よねやま)、石越(いしこし)、南方(みなみかた)、津山(つやま)の8町と合併して市制施行し、登米市となった。旧北上(きたかみ)川西岸に位置する。北東部は丘陵、中部・南西部は低地。南西部を新迫(しんはさま)川が流れる。JR気仙沼(けせんぬま)線が通じる。近世には大部分が仙台藩伊達(だて)家の一門登米伊達家の知行(ちぎょう)地。低湿地の新田開発により、上町、中町、下町などの新田村もつくられたが、北上、迫両河川による洪水被害も続いた。水田単作地帯であったが、近年では畜産との複合経営が拡大し、施設園芸も行われ、また工場誘致も積極的に行われている。赤生津(あこうつ)の香林(こうりん)寺山門は県指定文化財。北東部の笑沢(えみさわ)自然公園には遊歩道があり、眺望がよい。

[後藤雄二]

『『豊里町史』上下(1974・豊里町)』


豊里(茨城県)
とよさと

茨城県つくば市西部の地区。旧豊里町。1987年(昭和62)大穂(おおほ)町、谷田部(やたべ)町、桜村と合併、市制施行してつくば市となった。筑波(つくば)台地と東谷田(ひがしやた)川、西谷田川の沿岸低地よりなる。古くは下総国(しもうさのくに)豊田(とよだ)郡に属し台豊田(だいとよだ)と称した。近世は天領が多く上郷(かみごう)に代官陣屋が置かれた。平地林が広く、かつては薪炭生産、養蚕などが盛んであった。筑波研究学園都市区域に指定され、東端に国立研究開発法人土木研究所がある。領主豊田氏創建(931)の金村別雷(かなむらわけいかづち)神社は例祭と景勝地で有名。

[櫻井明俊]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「豊里」の意味・わかりやすい解説

豊里
とよさと

宮城県北東部,登米市南部の旧町域。仙北平野の南東部にある。 1950年町制。 2005年町,登米町,東和町,中田町,米山町,石越町,南方町,津山町の8町と合体して登米市となった。南部で旧北上川 (→北上川 ) と迫川合流,水田地帯を形成。米作のほか,養豚が行なわれる。中心地区の赤生津 (あこうつ) は寛文7 (1667) 年から天和3 (1683) 年まで開墾によってできた集落で,当時は奉公人屋敷 150戸,足軽屋敷 50戸があった。

豊里
とよさと

茨城県南西部,筑波山 (877m) の南西麓,つくば市の一地区。旧町名。 1987年近隣町村と合体してつくば市となる。畑作農業が行われ,東部は筑波研究学園都市。

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改訂新版 世界大百科事典 「豊里」の意味・わかりやすい解説

豊里 (とよさと)

茨城県南西部,筑波郡の旧町。1987年,桜村,谷田部町,大穂町と合体,つくば市となる。筑波台地上にあり,西境を小貝川が南流する。畑地,平地林が多く,水田は谷津田がほとんどである。芝の栽培が多く,養豚も行われる。東縁部の筑波研究学園都市地区には各種の研究所がある。近年,住宅団地をセットした工業団地の造成が行われ,工場の誘致を図っている。雨乞いの神として知られる金村別雷(わけいかずち)神社がある。
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豊里(宮城) (とよさと)

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