精選版 日本国語大辞典 「財閥」の意味・読み・例文・類語
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
財閥は学閥、藩閥などと同様に明治時代に造成されたジャーナリズム用語で、当初、出身地を同じくする財界人グループの共同的事業活動をさすことばとして使用されたが、その後、時代を経るにつれて、三井、岩崎(三菱(みつびし))、住友などの大富豪、あるいは彼らの支配下で営まれる事業体を、財閥とよぶようになった。そして、さらに第二次世界大戦後は、「特定の家族あるいは同族の封鎖的な所有・支配体制の下で展開された多角的事業経営体」と理解されるようになり、今日では学術用語としても定着してきている。
[宇田川勝]
財閥は、その発展期、業態、活動範囲などによって、次のように分類することができる。
〔1〕発展期による分類
(1)その起源を江戸時代・明治初期に求めることができ、明治年間を通じて経営基盤を確立した既成財閥ないし旧財閥とよばれるグループ――三井、三菱、住友、安田、古河(ふるかわ)、浅野、川崎(八右衛門(はちえもん))、藤田など。
(2)明治中ごろに出発し、大正時代、とくに第一次世界大戦期の大戦景気のなかで急膨張を遂げた「大正財閥」とよばれるグループ――鈴木、久原(くはら)、川崎(正蔵)=松方、渋沢、岩井、野村、村井など。
(3)明治末年・大正時代にスタートし、満州事変前後から日中戦争期にかけて台頭した新興財閥あるいは新興コンツェルンとよばれるグループ――日産、日窒(にっちつ)、森、日曹(にっそう)、理研など。
〔2〕業態による分類
(1)総合財閥。金融、商事、海運、各種製造事業分野にわたって事業経営を展開していたもの――三井、三菱、住友。
(2)金融財閥。主として銀行、信託、保険などの金融分野に事業経営を集中したもの――安田、川崎(八右衛門)、野村など。
(3)産業財閥。製造業分野を中心に多角的事業経営を展開したもの――浅野、古河、大倉、新興財閥グループなど。
〔3〕活動範囲による分類
(1)中央財閥。本社が東京、大阪といった大都市にあり、かつ事業活動を全国的範囲で展開していたもの――既成財閥、「大正財閥」、新興財閥グループ。
(2)地方財閥。特定地域の地場産業を中心に多角的経営を追求したもの――福岡県の安川=松本、貝島、麻生(あそう)(炭鉱業)、千葉県の茂木(もぎ)(醸造業)、新潟県の中野(石油業)など。
[宇田川勝]
このようにひと口に財閥といっても、その発展過程・形態はバラエティーに富んでいたが、そこには共通する側面もまたあった。第一に、いずれも多角化志向が旺盛(おうせい)で、その傘下事業はそれぞれの産業部門、あるいは特定地域において支配的地位を占めていた。第二に、発展過程に相応して、傘下事業を順次、株式会社に改組し、それら会社の株式を、財閥家族が排他的に出資する本社が所有するコンツェルン管理を採用していった。第三に、財閥家族の資産は共有資産として集中・管理されており、家族の恣意(しい)的行動は抑制されていた。第四に、専門経営者が事業経営の実権を握っている場合が多く、彼らは一般に財閥の富を近代的ビジネス分野に投下し、それらを育成・強化すべきであるという意識をもって経営にあたっていた。ただし、新興財閥の場合は、創業者が陣頭指揮をしており、事業経営の封鎖的支配も希薄であった。
[宇田川勝]
財閥はけっして日本特有の企業形態ではなかった。私有財産制度が確立しており、しかも富豪が特定事業の経営に満足することなく、その資産を多角的事業分野へ投下する意欲をもつ場合は、どこの国でも財閥は誕生した。とくに工業化の初期段階において、経営資源が限定され、一方、展開すべき事業分野が広範に存在する場合には、財閥あるいはそれに類似する企業集団が出現しやすかった。
明治維新後、後発国として工業化をスタートさせた日本においてもその例外ではなく、前記のような多数の財閥がさまざまな形態をとりながら群生した。ただ、日本の財閥は諸外国のそれに比べて、多角化志向が旺盛で、異種多彩な事業を経営する企業集団の形成を目ざす傾向が強かった。日本が西欧諸国に遅れて工業化を開始したという事情に加えて、近代的ビジネスを早期に育成・確立したいという意識を強くもつ専門経営者が財閥のトップ・マネジメントの中枢を占め、財閥家族を説得しつつ、彼らの富を近代的事業分野へ次々に投下していったからである。そして、そうした企業行動を通じて、財閥は、明治維新後の国家目標であった工業化と経済発展の有力な担い手となり、その面で大きな役割を果たした。
しかし、そうした財閥の役割も第一次世界大戦後の産業構造の高度化のなかでしだいに後退し始める。財閥固有のシステムたる家族の封鎖的持株支配体制に固執する限り、巨額の投資資金を要する重化学工業経営に財閥は十分に対応することができず、それに伴い財閥の企業行動も保守的色彩を強めていったからである。さらに昭和初年の相次ぐ恐慌のなかで財閥の富の集中に対する社会的批判が高まり、1932年(昭和7)3月には最大財閥・三井合名の理事長団琢磨(だんたくま)が右翼の手によって暗殺されるという事態を招いてしまった。それゆえ、財閥、とくに三井、三菱、住友の三大財閥は、社会的批判を回避するため、「財閥の転向」という形で、傘下企業の株式を公開し始め、さらに戦時体制の進展に伴う重税負担・重化学工業進出要請にこたえるため、本社の株式会社化とその一部株式公開などの処置をとらなければならなかった。
このように、工業化の初期過程で大きな役割を果たした財閥も、産業構造の高度化とともにその積極的存在意義を減じていき、第二次世界大戦後、財閥は連合国最高司令部(GHQ)から軍国主義と封建主義の経済的支柱とみなされ、解体された。
[宇田川勝]
『持株会社整理委員会編・刊『日本財閥とその解体』上下(1951)』▽『森川英正著『財閥の経営史的研究』(1980・東洋経済新報社)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
明治中期以降,出身地を同じくする資本家が協力して株式投資をし会社を支配する場合,甲州財閥などのようにそのグループを財閥とよび,明治末~昭和前期には三井・三菱など個々の富豪の経営体を財閥とよぶようになった。これらはジャーナリズム用語で,第2次大戦後の学術用語では,(1)同族が封鎖的に所有する,(2)多角的事業経営体で,(3)各事業がそれぞれの産業で寡占的な地位を占めるもの,と定義するのが一般的である。経営史学では(3)を含めない見解も有力。(1)~(3)を厳格に適用すると三井・三菱・住友のみとなるが,安田・古河など多角化が不十分なもの,新興財閥の日産など封鎖的でないものを含めることもある。第2次大戦後の財閥解体によって解散した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…アメリカでは,すでに19世紀初頭にコンツェルンが形成されていたが,一般化したのはやはり第1次大戦後である。モルガン(モルガン財閥)やロックフェラー・グループ(ロックフェラー財閥)などが代表的なコンツェルンである。なおアメリカでは,コンツェルンという表現はあまり用いられず,同様の内容を示す用語として利益集団interest groupがある。…
…和紙問屋が洋紙問屋になったり,菜種油問屋が石油問屋になったりした。もっとも大きく変貌したのは,旧来の大商人が財閥になったケースである。呉服・両替業の三井家は貿易と鉱山を兼営するようになって,銀行,貿易,鉱山,呉服(1904分離独立)の財閥となった。…
…USスチール社は1901年に設立された代表的な持株会社であった。第2次大戦前の日本の財閥は,持株会社である財閥本社を根幹とした巨大コンツェルンであった。財閥本社の特徴は,証券代位を行わなかった点にある。…
※「財閥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
送り状。船荷証券,海上保険証券などとともに重要な船積み書類の一つで,売買契約の条件を履行したことを売主が買主に証明した書類。取引貨物の明細書ならびに計算書で,手形金額,保険価額算定の基礎となり,輸入貨...
9/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新