貨幣(読み)かへい(英語表記)money 英語

精選版 日本国語大辞典 「貨幣」の意味・読み・例文・類語

か‐へい クヮ‥【貨幣】

〘名〙
商品交換流通を円滑にする一般的な媒介物。計算尺度価値尺度、支払い手段価値貯蔵手段、貸借目的物などの機能がある。現在では、金貨銀貨銅貨紙幣などが流通している。〔和蘭字彙(1855‐58)〕〔後漢書‐光武紀・下〕
② (紙幣に対して特に) 金属製の通貨
小学読本(1873)〈田中義廉〉一「右五品の貨幣を、銀貨幣と云ふ」

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デジタル大辞泉 「貨幣」の意味・読み・例文・類語

か‐へい〔クワ‐〕【貨幣】

商品の価値尺度や交換手段として社会に流通し、またそれ自体が富として価値蓄蔵を図られるもの。鋳貨・紙幣のほかに、当座預金などの信用貨幣を含めていう場合が多い。
[類語]金銭通貨おあし外貨硬貨金貨銀貨マネーコイン

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「貨幣」の意味・わかりやすい解説

貨幣
かへい
money 英語
Geld ドイツ語
monnaie フランス語

近代資本主義経済は、分業私有財産制とを基礎とする結果、無数の個別経済(経済主体、単位経済)に分裂している。したがって近代経済は、この分裂した無数の個別経済をもって構成される一つの総合経済であるといえる。経済主体には生産の主体と消費の主体とがあり、相互に依存しあい、結び付いて、流通経済、市場経済を形成する。そしてそこに貨幣が介在する。このように近代経済における貨幣は、財貨=商品とともに各個別経済を結び付ける連鎖であるが、この場合の貨幣には、媒介的存在のものと目的的存在のものとがある。前者は商品を購入した対価として支払われる貨幣の流れで、貨幣は購買手段あるいは流通手段として機能する。後者では貨幣だけが一方的に流れ、より多くの貨幣となって(利子を付して)ふたたび還流してくることが期待されている。ここでは貨幣それ自体があたかも商品のごとく、需要供給、すなわち取引の対象となっているのである。

[原 司郎]

貨幣に関する学説・理論

金属主義と名目主義

このような役割をもつ貨幣の本質がなんであるかに関する学説には、今日、金属主義と名目主義の二つがある。広義では、前者に商品学説、素材主義が含まれ、後者には国定学説、指図証券説、職能学説、抽象学説などが入れられる。

 金属主義によれば、貨幣はもっとも広く一般的に受領される商品となる。この結果、貨幣は他の商品と同じく、それ自体が素材価値をもたなくてはならない。すなわち、商品と貨幣との交換過程において、貨幣はそれ自身が価値ある商品としてそれ自体価値ある商品と交換されることとなる。かくて貨幣の本質は価値をもった素材に求められ、貨幣は商品あるいは価値ある財貨、とくに貴金属でなくてはならないと考える。この理論に従えば、素材価値をもたない貨幣の存在は認められないから、紙幣は貨幣たりえぬこととなる。紙幣が流通している場合でも、それが政府紙幣を意味している限り、流通手段としての貨幣の機能から生じた価値章標である。つまり紙幣は貨幣の使用を節約する代用物にすぎないこととなる。

 金属主義においては、貨幣がそれ自身一つの商品として価値をもっていることから、価値尺度として他の商品の価値を測定しうる機能を果たしうるものと説明されている。そこで貨幣の本質的機能を価値尺度に求め、そこから流通手段、価値保蔵、支払い手段、世界貨幣といった諸機能を導いてくるのである。この学説は、イギリスの古典派経済学やマルクス経済学によって展開されてきた。主たる学者としては、リカード、クニース、ヒルデブラント、マルクスなどがあげられるが、とくにマルクスによって労働価値説に立脚した貨幣学説として確立されるに至った。これは商品学説ともいわれている。

 これに対して名目主義では、金属主義の主張する素材価値たる商品性による一般的価値尺度機能を否定して、貨幣の本質を抽象的機能――一般的交換ないし流通手段――に求める。名目主義の立場をとる代表的学説にF・クナップの国定学説がある。貨幣は素材には関係なく国家の法制だけによって通用力を有するとし、貨幣の本質を流通手段に求めるのがこれである。名目主義は、さらに、貨幣は商品に対する一般的参加票券であるとするF・ベンディクセン、K・エルスターの票券説(指図証券説)、貨幣は貨幣としての機能を営むいっさいのものであるとするL・F・ミーゼス、K・ヘルフェリッヒの職能学説、さらに貨幣は商品価値の比率を表す抽象的計算単位であるとするR・リーフマンの抽象学説に発展した。このように名目主義は、20世紀に入ってからドイツを中心に盛んになったものであるといえる。

 20世紀前半を代表する近代経済学者ケインズも、『貨幣論』(1930)において名目主義の立場にたって、貨幣を単なる購買手段の機能をもつものと考えて、計算貨幣という概念を使っている。ケインズの計算貨幣は、債務、諸価格、一般購買力がそれにおいて表現されるもので、金属主義でいう価値尺度としての貨幣の機能に相当するものである。

 以下、名目主義の流れをくむ近代経済学における貨幣理論と金属主義を代表しているマルクス経済学における貨幣理論について解説することとしたい。

[原 司郎]

近代経済学における貨幣
2種の貨幣――計算貨幣と現実の貨幣

貨幣とは、取引の完結に際し生ずる債権・債務関係の決済のために用いられる手段、もしくは社会制度をいう。計算貨幣と現実の貨幣の2種がある。

 計算貨幣は、国民所得の大きさを示したり、鉄1キログラムの値うちと綿(わた)1キログラムの値うちを比べたりする場合のように、経済的価値の集計や比較を行う際に一般に用いられる単位である。円、ドル、ユーロなどの称呼(となえ)がそれにあたり、おおむね国ごとに異なる。計算貨幣の多くは重量の単位でもあるが、これはかつて決済の多くが、それに使用する金属の重量をそのつど量る習慣があったことの名残(なごり)にすぎない。日本の計算貨幣である「円」が単に丸いことを表して、重量とはまったく無関係であることからもわかるように、計算貨幣は度量衡や時間などの単位とは切り離され、もっぱら経済計算のためにのみ用いられる抽象的単位であって、実体をもたない。「貨幣」とは、こうした計算貨幣で計ったとき、その価格(表された値)が固定かつ不変のものである。計算貨幣との関係をより明確にするために、貨幣を「現実の貨幣」とよぶこともあるが、両者の関係は、たとえば1万円札という「通貨」は、昨日も今日も明日も、「計算貨幣・円」の1万単位によって表されて変わらないという事実によっていっそう明らかになるであろう。

 もっとも、通貨を計算貨幣で表した値は不変でも、通貨を通貨以外の財やサービスによって計った値は日々変動する。しかし一般に人は、たとえば100円の缶コーヒーが1000円になったとき、通貨で計った缶コーヒーの価格が10倍に上がったとはいっても、通貨の(缶コーヒーで計った)値うちが10分の1に下がったとはいわない。このように計算貨幣と通貨は経済生活の基準になっている。ただし通貨は、計算貨幣が抽象的単位であるのに対して、現実の経済的取引に伴って生ずる債務の最終的決済手段として働く実体でもある。

[堀家文吉郎]

2種の通貨――国家貨幣(あるいは現金通貨)と銀行貨幣(あるいは預金通貨)

特定の実質・形式のものを貨幣であると宣言する力を「貨幣高権(こうけん)」とよぶが、これを近代国家の確立とともに国家がもつことになった。国家は通貨の偽造に重刑を科し、納税を通貨によるべきものとし、また民間の通貨による取引決済を最終的なものと公認することで、貨幣高権を確実なものとした。法貨の成立である。その後、鋳貨の製造技術が発達し、偽造がむずかしくなるにつれて、鋳貨に打ってある額面価値と鋳貨をつぶしたときの素材価値とは離れていった。素材の財としての価値を問うことなく、鋳貨が流通したからである。鋳貨は財・サービスとはまったく別の、その素材を財として利用することを予定しない、貨幣という一つの資産となった。

 その後、鋳貨は年を経るにつれて額面価値に対して素材価値を低下させていき、その極限に今日の補助貨や政府紙幣が位置するまでになっている。この系列の貨幣は、国家の権力が根拠となって機能する貨幣なので国家貨幣といわれ、それの現実の受け渡しによって流通する貨幣なので「現金通貨」ともよばれる。

 国家貨幣とは別に、のちに銀行貨幣が生まれた。これは、民間の金融機関である銀行が、要求がありしだい即時に現金(国家貨幣)を引き渡すと約束した自己あて債務のことである。銀行貨幣は初め銀行券(銀行振出しの持参人要求払いの約束手形)の形をとっていたが、各種の銀行券が発行されて混乱を招いたので、銀行券の発行は中央銀行が独占することとなった。この場合でも、初めは中央銀行は銀行券の金兌換(だかん)を義務づけられ(銀行券と金の交換比率、すなわち金平価を国家が法定する金本位制度の下で)、人々は銀行券を金に交換できるもの(兌換銀行券)として信頼し、中央銀行はそのゆえに銀行券発行残高に対して一定の金準備(保証準備)を保有しなくてはならなかった。この意味で銀行券は金本位制度の下では信用貨幣(銀行に対する信用によって流通する貨幣)であったが、管理通貨制度となって金兌換が停止されるに至って(不換銀行券化)、国家が銀行券に強制通用力を与えることが、銀行券に対する信頼の基礎となった。この段階で銀行券は国家貨幣に編入され、銀行貨幣であることをやめた。日本の日本銀行券は国家貨幣である。

 銀行券の発行ができなくなった銀行は、要求払預金を銀行貨幣とした。これは銀行券と違って形がなく、即時に現金にかえうるが現金ではなく、単なる銀行の帳簿上の数字で、預金者の小切手(銀行あてに振り出した要求払いの為替(かわせ)手形)や口座振替の指図によっても移動して債務の決済に用いうる銀行の債務である。銀行貨幣は、法的に債務を最終的に決済する国家貨幣とは異なり、銀行という民間の機関の債務への社会的信認を成立の根拠とするから、厳密な意味でこれを貨幣といえるかということについては議論がある。

 しかし、要求払預金は、もともと不足がちの国家貨幣の使用を節約し、補充する意味で世に受け入れられたもので、(小切手の振出人を含めた)関係者がそれを即時に国家貨幣に取り替えることができないような状態にした場合については、厳しい自主的な制裁があり、また行政上の規制も厳重であるために、実際には現金化されないままに債務の決済に用いられているものである。したがって、制度的にはともかく、機能的には十分に貨幣の働きをしているといってよい。

 このように、銀行の要求払預金は、預金のままに移動して貨幣として機能するために、他の金融機関の預貯金で前記と同じ性質の働きをするものをあわせて「預金通貨」とよばれ、統計的には現金通貨(国家貨幣)と並んで一国の貨幣量を構成する部分をなすこととなった。

[堀家文吉郎]

貨幣の機能――交換媒介と価値貯蔵

国家貨幣にせよ銀行貨幣にせよ、それが貨幣として働くということは、第一に経済的「価値の尺度」として働くということである。しかし、貨幣を計算貨幣で計った値が不変であるために、あたかも貨幣が価値尺度のようにみえるのであるから、これはむしろ現実の貨幣の機能ではなく、計算貨幣の機能というべきであろう。第二に貨幣は財やサービスを買うのに使われる。そしてその貨幣は財やサービスを売って得るのであるから、結局は貨幣は財やサービスの「交換の媒介」をしていることになる。しかし、貨幣が媒介をする交換は、財・サービスと貨幣を交換する段階と、貨幣と財・サービスを交換する段階の二つからなっており、二つの段階の間には通常時間的な隔たりがある。この二つの時点の間、貨幣は動くことがなく、1か所にとどまっているのであるが、その間貨幣は「価値貯蔵」の働きをしているのである。

 しかし、交換の媒介と価値貯蔵の二つの機能は切り離すことができない。というのは、貨幣を手放す者は相手が価値貯蔵に役だてることを知るから手放すのであるし、貨幣を受け取る者は将来交換の媒介に用いうることを知るから保有するのである。人は、しかるべき財やサービスをしかるべき条件で提供する者に巡り会うまでの時間と煩労(すなわち情報コスト)と、受け取った貨幣を次に支払いに用いるときに被る減価などの損失(取引コスト)が、できるだけ少なくなるように試みて貨幣にたどり着いたのであった。けれども、これら二つのコストを可能な限り小さくし、交換媒介と価値貯蔵の二つの機能を貨幣が十分に果たすためには、貨幣を財・サービス一般で計った価格、すなわち貨幣が他財を支配する力、つまり「購買力」が不変で(あると少なくとも思われてい)なければならない。

 幸いにして、貨幣を計算貨幣で計った価格が不変なので、今日1000円札で買えたものは明日は1000円札で買えないかもしれないが、今日も明日も1000円の正札がついたものは確実に買えるために、あたかも貨幣の購買力は不変だと思い込む「貨幣錯覚」が生じやすく、それが大きな支えとなってきたことは事実である。

[堀家文吉郎]

貨幣の需要と動機

貨幣が動く姿をみることはむずかしい。現金ならどうかというと、それも一瞬のことであるし、そのうえに貨幣には形のないものがある。それで、貨幣の量をとらえるには残高(ある一時点の量)によることになった。残高ならば、いつにせよ、すべてがだれかの手中にあるわけである。

 貨幣を保有する動機には次の三つが考えられる。第一に、たとえだれにしてもある人の、ある期間中の貨幣の受け払いの累計額が等しくなっていても、期間中のすべての時点において受け払いの額が等しいということではない。他方で、債務には約束した時点でかならず債務を履行するという、若干の罰則を伴う誠実の原則があるので、債務は約束された時点でかならず決済されなければならない。このために若干の残高の保有が必要である(取引動機)。第二に、期待がそのとおりに実現するとは限らない。貨幣を使いたい財・サービスが思いがけず出てくることもあろう。その場合でも誠実の原則は働く。このためにも若干の残高が保有される(予備的動機)。第三に、貨幣はだれにでもいつでも受け取れるので、いまも将来も使う気はないものを売買してその差益を手にする機会をねらう目的でも、人は貨幣を手元に保有する(投機的動機)。このように貨幣保有の動機は三つあるけれども、その貨幣残高のどの部分がどの動機によるものかは具体的には示せない。しかし、一括して「流動性選好」ということはできる。

 一般に資産の流動性には二つの要素がある。一つは他の財・サービスにかえやすいという性質、つまり市場性で、他は貨幣で計った価格が安定しているという性質、すなわち市場価値の安定性である。これら二つの要素は、どの資産にも多かれ少なかれある。しかし貨幣はこれら二つの要素において、他のどの資産よりも優れている(もっとも、貨幣にも他の財・サービスで計った価格(購買力)が変動するという難点はある。しかしそれは貨幣錯覚によって覆われている)。

[堀家文吉郎]

貨幣の供給――抽象化

19世紀と20世紀の変わり目ごろに、貨幣がなにゆえに貨幣たりうるかを問う貨幣本質論争が、素材の価値に根拠を置く金属主義と、それに反対する名目主義との間で争われた。しかしその後、現金(国家貨幣)さえも、紙というほとんどまったく無価値に近い素材でつくられるようになり、預金(銀行貨幣)が残高においても圧倒的に多くなったので、今日では結局、貨幣の働きをするものが貨幣だという考え(職能主義)が支配的になってきている。

 このように貨幣が素材を問題としなくなる無体化の過程のなかで、貨幣を貨幣として使用させうる者の範囲が政府・中央銀行のほかに、民間金融機関一般(たとえば信用組合)へとしだいに広がってきた。そのうえ現今では、金融機関ではない企業・個人にも(預金担保や当座貸越の形で)あらかじめ信用枠が与えられていて、彼らはその枠を随時購買力となしうるから、一国の貨幣の供給可能量を残高としてはとらええない。それに、貨幣が人手をかえる早さは、近年の電子的な技術進歩の結果、著しく増大してきているので、一期間中に動いた、あるいは動くであろう本当の購買力の大きさ(延べ量)はとらえにくくなった。このため、政府・中央銀行の各種の試みにもかかわらず、貨幣供給量変動の効果の把握はますます困難になってきている。

 それにもかかわらず、通貨当局(政府・日本銀行)は、物価安定・雇用安定などの目標達成の手段としての貨幣供給量全体を、常時正確に把握していなければならない。ところがこれはまったく不可能である。

[堀家文吉郎]

電子商取引における貨幣

インターネットによる電子商取引はバーチャル(仮想的)、ないしデジタル社会のものであるが、近年では著しく流行し、その重みを増してきている。ただし、この場合に機能しているのは計算貨幣であって、現実の貨幣ではない。この場合、計算貨幣の単位は、本来無国籍である当事者間の仮想的社会においては、取引当事者間の合意さえあれば、自国内で一般に広く使われている単位にとらわれる必要はまったくなく、外国の単位でも、あるいはそれらとさえまったく無関係な単なる「音」でもよい。しかし、財・サービスの取引が、取引として決済されるためには、現在では国家の法制が必要である。このことから将来、現実に世界国家に相応する組織が、現在の各国のように徴税権を確立し、治安の維持をまっとうしうるに至るのであればとにかく、それまでの間は仮想社会に、現在諸国にあるものに匹敵する現実の貨幣は存在しえない。

 世界が国境を越えたグローバリゼーションの結果、インターネット社会をも包括する取引決済に用いうる貨幣をもつためには、世界国家(少なくとも世界連合)が成立し、それが機能していなければならず、この意味で貨幣は、現在のところ各国がもつ「貨幣高権」に支えられているのである。

[堀家文吉郎]

マルクス経済学における貨幣
貨幣の本質

商品の価値の実体は抽象的・人間的労働であり、価値の大きさは商品を生産するのに社会的に必要な労働時間によって度量されるが、商品価値は社会的なものであり、それ自体では表現されず、他の商品との価値関係においてのみ現象しうる。この価値の現象形態を価値形態という。この価値形態のもっとも単純な形態は、「x量の商品A=y量の商品B」である。この価値等式においては、両商品はまったく異なった役割を演じている。すなわち、A商品の価値だけが表現されており、B商品はA商品の価値表現の材料として役だっているにすぎない。A商品の価値はB商品の使用価値(商品体)そのものによって表現されているのである。この価値等式においては、x量のA商品はy量のB商品に等しいということによって、A商品はB商品に交換を申し出ているのであり、これによってB商品はA商品との直接的交換可能性を与えられる。他の商品の価値表現の材料として役だっている商品を等価形態という。上記の単純な価値形態が発展して、すべての商品が左辺に立ち、ただ一つの商品金(きん)が商品世界から排除されて右辺(等価形態)に置かれ、この金がすべての商品の価値を表現する一般的等価形態となり、すべての商品との直接的交換可能性をもつようになったとき、金は貨幣となる。この貨幣は次の3機能を果たしている。

[二瓶 敏]

価値尺度

貨幣=金の第一の機能である価値尺度機能は、商品世界に対して価値表現の材料を提供するということである。諸商品の価値が金という同一商品で表現されることによって、諸商品が価値としては質的に均等であり、したがって、諸商品の価値を量的に比較することが可能となる。労働時間が価値の内在的価値尺度であるのに対して、貨幣はその外在的価値尺度ということができる。「米10キログラム=金0.75グラム」というように、商品の価値を金の一定量で表現したものが価格である。すべての商品価値をさまざまな金分量で表現するためには、金そのものの分量を度量する基準を確定しておかねばならない。これを価格の度量基準という。価格の度量基準は根源的には重量の度量基準と一致していたが、一般的妥当性が必要なので、やがて法律によって調整される。日本の場合、1897年(明治30)の貨幣法第2条で、純金2分(750ミリグラム)をもって価格の単位となし、これを円と称すると定められていた。これによって商品の価格は、「米10キログラム=金1円」という法律上有効な貨幣称呼で表現されるようになる。商品にこのような貨幣称呼を付与する場合、現実の貨幣がそこに存在する必要はなく、価値尺度機能においては貨幣は観念的な存在にすぎない。しかし交換過程では商品は現実の貨幣に転化される。

[二瓶 敏]

流通手段

価格を付与されて流通過程に投ぜられた商品は次のような運動を行う。W(商品)―G(貨幣)―W(商品)である。これが商品の姿態変換である。このうちW―Gが販売であり、G―Wが購買である。商品の姿態変換W―G―Wのうち、困難なのは商品の販売W―Gである。というのは、無政府性的な商品生産のもとでは販売の成功はまったく偶然的だからである。商品の販売が行われて貨幣に転化することに成功したならば、貨幣はすべての商品との交換可能性を有しているので、次の購買に困難は存在しない。


から明らかなように、A生産者にとっての購買G―W1は、B生産者にとっては商品の販売W1―Gである。このように商品の販売と購買は絡み合っているので、A生産者の商品の姿態変換W0―G―W1は、B生産者のそれW1―G―W2と絡み合っている。こうした諸商品の姿態変換の絡み合いを商品流通といい、それを媒介する貨幣を流通手段という。

 商品は、生産されて流通に投ぜられ、そこでの持ち手変換ののち消費されて流通から脱落していくのに対して、貨幣は、出発点から遠ざかりながら絶えず流通にとどまっている。ある一定期間における商品流通を媒介するのに必要な貨幣量Mは、MPT/VP=商品の価格、T=商品総量、V=貨幣の平均流通速度)で求めることができる。これが流通貨幣量に関する法則であり、この法則の眼目は、流通必要貨幣量Mは、貨幣の平均流通速度Vを一定とした場合、流通諸商品の価格総額(PT)によって規定されるということである。貨幣の流通手段機能は、商品流通を媒介する一時的、瞬間的なものであるから、この機能に限って、銀や銅で鋳造された補助貨幣や、相対的に無価値な政府紙幣も、金の代理としてこの機能を果たすことができる。政府紙幣は政府が法的に強制通用力を与えるものであるから、流通必要金量を超えて発行しうるが、この場合には紙幣の代表する金量は低下し、商品価格は名目的に騰貴する。これがインフレーションである。

[二瓶 敏]

貨幣としての貨幣

価値尺度機能においては貨幣は観念的な存在であり、流通手段機能においては象徴によって代表可能であるのに対して、金が現身で現れ、価値の自立的存在として固定化される場合の機能を貨幣としての貨幣という。これは蓄蔵貨幣、支払い手段、世界貨幣という三つの存在形態をもつ。(1)蓄蔵貨幣は、商品流通がW―Gで中断されて流通から引き上げられ、流通手段としての機能が否定された貨幣である。蓄蔵貨幣の大部分は銀行に集積され、流通貨幣量を調節する機能を果たす。(2)支払い手段は、商品が信用で販売され、そこで取り結ばれた債権債務関係を、あとで貨幣が自立的に決済する場合の貨幣である。(3)貨幣は国内流通部面から歩み出て、世界市場に登場するとともに世界貨幣に転化する。貨幣はそこでは金の地金形態で表れる。世界貨幣は、国際収支の決済等の一般的支払い手段、一般的な購買手段として機能し、賠償金支払いのように富を他国に移譲する場合、富一般の絶対的物質化としても機能する。

[二瓶 敏]

貨幣の歴史

原始貨幣の生成

原始社会において物々交換が盛んに行われるようになると、物資の交換に伴う不便を取り除くために、交換の媒介物として物品貨幣(自然貨幣)が用いられるに至った。これが原始貨幣とよばれるもので、比較的処分の容易な物が利用された。その代表的なものとして、穀物(中部アメリカ、フィリピン、中国、日本)、布帛(ふはく)(中国、日本)、家畜(ギリシア、ローマ、南アフリカ)、農具(中国)、塩(エチオピア)、武器(古代イギリス)、毛皮(シベリア)などがあげられる。そのほか、子安貝、赤貝、羽毛、亀甲(きっこう)、鯨歯など、装飾品や儀礼的、呪術(じゅじゅつ)的な物もみられ、その生成には宗教的意義をもつ場合が少なくない。

 その後、金属が用いられるようになると、原始貨幣をかたどった鋳造貨幣(鋳貨coin)が現れるに至った。金属は、保存性、等質性、分割性、運搬性など、貨幣の必要な条件をよく満たすことができたからである。中国の布貨、刀貨、魚貨などはその典型的な例である。

 また、『旧約聖書』によれば、すでに紀元前2000年ごろに、エジプトやバビロニアにおいて金銀が秤量(ひょうりょう)貨幣として使用されていたとある。このようなものにはほかに、アッシリアの金銀、ペルシアやスパルタの鉄、アラビアの銅、メキシコの錫(すず)などがあった。

[作道洋太郎]

ヨーロッパの貨幣
ギリシアの貨幣

ヨーロッパにおける最古の鋳貨は、前7世紀にリディア王国で鋳造されたエレクトロン貨とされている。エレクトロン貨は金と銀との天然の合金であって、銀がおよそ30%含まれていた。これは鋳貨として一定の形状、品位、量目が定められてつくられた最初の貨幣であった。リディア王国の王侯ギゲスはエレクトロン貨にその価値を保証する刻印を打ち、価値の一様な金属の小片として使用した。その後、ギゲスの後継者クロイソスは、エレクトロン貨にリディア王国の証印を打ち、スタテル貨を鋳造させた。これは近東の各地において流通した。

 リディア王国は前6世紀にペルシアによって征服されたが、ペルシア人は貨幣の使用を踏襲した。ペルシア帝国のダリウス(ダレイオス)1世(在位前522~前486)は金シェケルと銀ドラクマとを貨幣単位となし、金銀複本位制度を採用し、ダレイコス金貨ならびにシグロス銀貨を鋳造した。金銀比価は1:131/3と定められた。この比率は以後約2000年にわたって世界各地において用いられるところとなった。

 ギリシアでは前6世紀にアイギナ銀貨を鋳造し、のちにアテネにおいても銀貨をつくった。後者の貨幣表面にはアテナ女神の顔、裏面にフクロウとオリーブの絵が刻み込まれている。これは良質の銀貨で、地中海沿岸の国際貨幣となった。前5世紀には、アテネのほかギリシアの都市国家はほとんど独自の貨幣をつくり、それがしだいに南イタリア、小アジア、シチリアの諸都市に及び、ヘレニズム時代にはオリエントにも波及した。前3世紀ごろには古代インドもギリシアの影響を受け、王やアポロンの像を取り入れた貨幣を鋳造した。

[作道洋太郎]

ローマの貨幣

ローマでは前3世紀に大型の青銅貨(アエス・グラウェ)および銀貨(デナリウス)が鋳造され、さらに前1世紀には金貨(アウレウス)がつくられた。アエス青銅貨には貨幣単位(アス)が刻印されており、その表面には両面神のヤヌスの神、裏面には船首の絵が取り入れられている。デナリウス銀貨にも青銅貨10アエスに相当する貨幣単位が刻印されており、その表面にはローマの神、裏面には通商の神であるカストルとポリデウケスの双生神の像とROMAという文字が刻まれている。デナリウス銀貨はローマの造幣所のほか各地で多量につくられ、地中海の西部から中部にかけて主要な通貨となった。また、アウレウス金貨はオリエントの造幣所において鋳造され、その表面にビーナスの像、裏面にインペラトールimperator(軍司令官)という文言や戦利品の模様などが配されている。カエサル(シーザー、前100―前44)の時代には、貨幣にCAESARの文字やカエサルの家紋であるゾウの絵などが刻み込まれている。

 カエサルの死後、アントニウス(前82ころ―前30)は、初めガリアで、のちにはオリエントの造幣所で貨幣をつくったが、そのうち小アジアで鋳造された貨幣のなかには、クレオパトラとアントニウスの肖像をいっしょに刻印したものや、軍艦および軍旗のデザインを取り入れたものがみられる。また、アウグストゥス皇帝(在位前27~後14)は本位貨幣としてアウレウス金貨を採用した。この金貨は25デナリウス銀貨と等価とされ、1デナリウスは16アエス青銅貨と等価とされた。アウグストゥス皇帝までは、貨幣のデザインは一定していなかったが、同皇帝以後、貨幣には皇帝の肖像が入れられることになり、皇帝の人格を強調することによって貨幣を神聖なものとし、幣制の統一を実現しようとした。しかし、ネロ皇帝(在位54~68)からカラカラ皇帝(在位211~217)にかけて、ローマ帝国の財政は窮乏化し、金・銀貨ともに数度にわたって、品位、量目を落として改鋳された。コンスタンティヌス大帝(在位306~337)は幣制の改善に努め、アウレウス金貨にかえてソリドゥス金貨を鋳造したが、これは良質の貨幣で、のちに西方にも流布し、1000年以上にわたって通用した。

[作道洋太郎]

ビザンティン帝国の貨幣

ローマ帝国の再建を図り、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)を建設したユスティニアヌス皇帝(在位527~565)は、皇帝の肖像を配したソリドゥス金貨をつくり、これを本位貨幣とした。ビザンティン時代には、金貨のほかに銀貨、銅貨も鋳造された。銀貨、銅貨には皇帝の肖像、キリストの胸像、十字架などの模様が取り入れられている。これらの金・銀・銅貨はビザンティン帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)でつくられたが、ローマ、カルタゴ、ラベンナ、アレクサンドリアなどにおいても鋳造された。ビザンティン貨幣のうち、とくに金貨は地中海沿岸諸国において広く用いられ、6世紀から7世紀にかけて現在のフランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、スカンジナビア、ロシア、バルカン、レバント、北アフリカなどにおいても通用した。

[作道洋太郎]

中世ヨーロッパの貨幣

ゲルマン諸国の幣制は古代地中海文明の遺産のうえに成り立っていた。当時、ゲルマン諸国ではローマ時代の貨幣が一般に慣れ親しまれており、ゲルマン人が占領地域をローマ皇帝の名において支配していた政治的理由もあり、ゲルマン人の首長たちはローマ皇帝の肖像を配した貨幣を鋳造した。しかし、その後しだいにゲルマンの支配者は、ローマ皇帝の名にかえて自分の名を刻印した貨幣に切り替えていった。

 ローマ帝国では造幣権は皇帝すなわち国家にあったが、ゲルマン国家の場合、造幣権は国家の独占ではなくなっていた。メロビング朝時代には、王室の造幣所で鋳造された貨幣のほかに、教会、司教、荘園(しょうえん)領主の名においてつくられた貨幣もみられる。また各地の鋳造師によってつくられた放浪貨幣とよばれたものがあったが、品質は粗悪で、権威をもたぬ貨幣であった。

 ゲルマン諸国のなかで、フランク系のサリ人だけはメロビング朝時代に独自の幣制を設け、サリカ法典のなかで1ソリドゥス(金貨)=40デナリウス(銀貨)と定め、ローマ時代に実体貨幣であったデナリウス銀貨を計算貨幣としてとらえた。しかし、この新しい体系は不便であったため、カロリング朝時代にはふたたび実体貨幣としてデナリウス銀貨が鋳造された。これはカロリング家の宮宰カール・マルテルの子ピピン3世(在位751~768)とその子カール大帝(在位768~814)によって行われ、新デナリウス銀貨は中世ヨーロッパの本位貨幣となるに至った。カール大帝の子ルイ(ルードウィヒ)1世(敬虔(けいけん)王、在位813~840)はソリドゥス金貨を鋳造したが、これには十字架と「神への贈り物」という文字とが刻印されている。

 12世紀になると、十字軍の影響によってオリエントの金がヨーロッパにもたらされ、13世紀には各地で金貨が鋳造された。1251年にフィレンツェでつくられたフロリン金貨はとくに有名で、ヨーロッパの各地に流布し、各国において金貨を新鋳する場合のモデルとなった。フロリン金貨には聖ヨハネの立像とフィレンツェの紋章であるユリの花が刻印されている。

 イギリスは、ローマに支配されていた時代にはローマ金貨のソリドゥスを用いていたが、ヘンリー3世(在位1216~72)が1257年に鋳造したペニー金貨によって最初の自国通貨をもつようになった。1344年にはエドワード3世(在位1327~77)によってフロリン金貨が導入され、その後ヘンリー7世(在位1485~1509)治下の1487年にはソブリン金貨が鋳造された。この金貨は、表面には王冠をかぶった国王の坐像(ざぞう)、裏面には軍隊の盾とチューダー家のバラの紋章が刻印されている。

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近世の貨幣

16世紀に入って、アメリカ大陸から多量の銀がヨーロッパ諸国に流入し、そのため各国の金銀比価は激しく変動し、価格革命を引き起こした。これに伴ってヨーロッパの貨幣制度も大きな変化を示し、スペインのペソ貨は国際的に有力な貿易用の貨幣となった。ドイツでは1520年から大型のターレル銀貨が鋳造された。ターレル銀貨は、表面には肖像、裏面には紋章が配されており、やがてクラウン、ドル、ドゥカートン、エキュ・ダルジャン、パタコン、ピアストル、ルーブルといった各種の名称でヨーロッパ諸国の造幣所においてつくられるようになった。またイギリスでは、チューダー家のエドワード6世(在位1547~53)のとき、それまでのソブリン金貨のほかに、ローマの幣制に倣った貨幣面に通用価格を表示したシリング貨やペニー貨が鋳造された。

 近世になると、貨幣の鋳造に際して中央集権国家が造幣権を封建諸侯から奪い取り、幣制の割拠体制を打破して統一を図ろうとした点に特徴がみられる。貨幣の模様もキリスト、教会、城、都市、封建領主などにかわって絶対君主の肖像が取り入れられることが多くなった。

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近代の貨幣

産業革命の結果、造幣機械の導入によって、均一な貨幣が大量に製造されるようになり、貨幣の製造費も低廉となった。18世紀の末期から19世紀の初めにかけて、マルク、フラン、リラ、ペセタなどの貨幣単位が現れるに至った。また19世紀のなかばごろから鋳貨と並んで紙幣が一般化するようになった。さらに19世紀後半から20世紀にかけて各国において金本位制度が採用され、世界的な規模で貨幣金融制度の統一基盤が形づくられた。

 産業革命を最初に行ったイギリスでは、チャールズ2世(在位1660~85)治下の1662年に造幣局に新設された工場で近代貨幣のギニー金貨を製造し、従来の金貨と取り替え、ついで銀貨と銅貨も製造した。その後ビクトリア女王(在位1837~1901)治下の1848年には2シリング金貨(フロリン)がつくられ、人々の人気をよんだ。

 アメリカにおける最初の貨幣は、ボストン造幣局で1652年から1682年にかけてつくられたシリング銀貨、6ペンス銀貨、3ペンス銀貨であった。それまでにイギリス、スペインなどの貨幣が流入していたが、その数量は少なかった。独立戦争が終結し、アメリカの独立が承認された1783年には銅貨がつくられ、初代大統領ワシントンの肖像が刻印された。1785年には連邦会議において新しい幣制が採用され、ドルは正式にアメリカの貨幣単位となった。さらに1792年には通貨法と貨幣製造法が制定され、金銀複本位制度を採用することとなり、フィラデルフィア造幣局が開設された。同年10月に5セント貨幣、翌1793年に1セント、1/2セントの貨幣が製造され、1794年には有名な彫金家のロバート・スコットにより銀貨がつくられ、ついで1795年から金貨が製造された。

 世界における紙幣の始まりは、1392年ロンドンに設立された金匠会社発行の金銀預り証「ゴールドスミス・ノート」であった。その後、イギリスでは1694年にイングランド銀行が創設され、最初の銀行券が発行された。この制度は、その後しだいに世界諸国に広がっていった。アメリカで最初の紙幣は、植民地時代の1690年にマサチューセッツで発行されたもので、その後18世紀初めまでにコネティカット、ニュー・ハンプシャー、ロード・アイランド、ニューヨーク、ニュー・ジャージーなどの諸州で相次いで発行された。

 なお、戦争や革命など国家の変動期には、当面の経費をまかなうために政府紙幣が発行されたことがある。もっとも有名なものは、1789年のフランス革命に際して革命政府が発行したアッシニア紙幣と、アメリカで南北戦争(1861~65)当時に発行されたグリーン・バック(緑背紙幣)とよばれる政府紙幣である。明治維新に際して維新政府が1868年(慶応4)5月に発行した太政官札(だじょうかんさつ)もこの系列に属するものといえよう。

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中国の貨幣

殷(いん)から周時代の初めにかけては、貝殻、亀甲(きっこう)、真珠、宝石などが交換手段として用いられた。周の時代にはやがて布貨(布幣)、刀貨(刀幣)、魚貨(魚幣)が用いられるようになった。これらは物品貨幣の名残(なごり)をとどめたもので、円形の鋳貨が出現する以前における鋳貨の一種であったとみられる。布貨は農具として使われてきた鍬(くわ)や鋤(すき)の原型である鎛(ふ)から進化したもので、その形状から空首布(くうしゅふ)、尖足布(せんそくふ)、方足布(ほうそくふ)、円足布などに類別される。刀貨は家庭用の小刀から発展したもので、形態のうえから尖首刀、円首刀、反首刀に大別される。魚貨は内陸地方の生活必需品であった干魚が物品貨幣として用いられていたことに端を発して、これが交換用の鋳貨となるに至った。これらの布貨、刀貨、魚貨に次いで、周の時代には、垣銭(えんせん)または垣字銭(えんじせん)とよばれた円形の鋳貨がつくられた。これは環幣(かんぺい)ともとなえられ、丸い鋳貨に丸い穴があけられている。それが周の両甾銭(りょうしせん)になると、鋳貨の穴が四角になっている。

 秦(しん)の始皇帝(在位前247~前210)は円形方孔銭(ほうこうせん)をつくり、銅銭による貨幣の統一を図り、旧来の布貨、刀貨などの使用を禁止し、造幣権を国家の手に収めた。これは漢代にも引き継がれ、漢の武帝(在位前141~前87)は五銖銭(ごしゅせん)を発行した。これはその後約800年にわたり中国の貨幣として存続した。漢を滅亡させた新(しん)の王莽(おうもう)(在位9~23)は大泉五十、契刀(けいとう)、貨布などの王莽銭を鋳造したが、新は15年で崩壊したので、王莽銭も一時的なものにすぎなかった。唐の高祖(在位618~626)は開元通宝を新鋳した。これは国内のみならず広くアジアの諸国において使用された。日本においては、7世紀後半に鋳造された銅貨である富本銭(ふほんせん)と8世紀初頭の和同開珎(わどうかいちん)(「わどうかいほう」ともよぶ)が、これをモデルとしてつくられたものである。さらに宋(そう)、元(げん)、明(みん)の銅銭も日本に流入し、鎌倉時代から室町時代にかけて、日本の貨幣の大部分を占めた。とくに明の成祖永楽帝(在位1402~24)の永楽通宝はその代表的なもので、江戸初期まで通用した。

 紙幣は宋代から発行され、金、元、明、清(しん)代へと引き継がれていった。元の世祖フビライ(在位1260~94)の治世下には鋳貨を廃して紙幣を使用させたことが、マルコ・ポーロの『東方見聞録』にみられる。

 明代にはスペイン銀、清代にはメキシコ銀やヨーロッパの洋銀が中国に流入し、全土に広まっていった。これに対抗するために、清代後期には新しい造幣所が設立され、ヨーロッパ型の銀貨や銅貨が大量に鋳造されるようになった。

 辛亥(しんがい)革命の結果、1912年に中華民国が成立すると、国幣条例によって銀元が本位貨幣と定められ、孫文や袁世凱(えんせいがい)の肖像を刻印した貨幣が発行された。しかし、主要国はすでに19世紀後半から相次いで金本位制度に移行しており、銀価の変動は激しくなっていた。中国は最後まで銀本位国として残っていたが、1935年にはついに金本位制度の一つである金為替(かわせ)本位制度へと移行した。

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日本の貨幣
古代の貨幣

日本における最初の官銭は、7世紀後半に鋳造された富本銭とされ、唐の制度を模倣して鋳銭事業が開始された。その後、奈良・平安時代には、708年(和銅1)に鋳造された和同開珎、万年通宝(760創鋳)、神功(じんぐう)開宝(765)、隆平永宝(796)、富寿神宝(818)、承和昌宝(じょうわしょうほう)(835)、長年大宝(848)、饒益(じょうえき/にょうやく)神宝(859)、貞観(じょうがん)永宝(870)、寛平(かんぴょう)大宝(890)、延喜(えんぎ)通宝(907)、乾元(けんげん)大宝(958)が引き続いて発行された。これらのうち富本銭を除く12の官銭を総称して皇朝十二銭または本朝十二銭と呼び習わしてきた。和同開珎には銀銭と銅銭とがあったが、そのほかの皇朝銭はすべて銅銭であった。皇朝銭のほかに760年(天平宝字4)には日本で最初の金銭である開基勝宝がつくられ、また同年に銀銭の太平元宝も鋳造された。

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中世の貨幣

律令(りつりょう)国家における政治力の弱体化により、乾元大宝を最後として鋳銭事業は停止され、平安末期には唐の銭貨が日本に流入し、鎌倉時代には宋銭、室町時代には明銭が輸入され、日本においても通用した。洪武通宝、永楽通宝、宣徳通宝などは代表的な明銭であった。中世の貨幣には、このような中国における官鋳制銭のほかに、日本製の模造銭や私鋳銭がみられ、精銭(せいせん)と鐚銭(びたせん)とが並んで用いられたので、撰銭(えりぜに)の現象が発生した。室町時代には銭貨のほかに金貨や銀貨も鋳造され、さらに戦国時代になると諸国の金山、銀山が開発され、戦国諸侯により金・銀貨が盛んにつくられるようになった。これは領内の流通市場において必要とした貨幣というよりも、軍用金としてつくられたものであった。

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近世の貨幣

安土(あづち)桃山時代には、豊臣(とよとみ)秀吉が各種の金・銀貨を鋳造し、これを軍資金とした。とくに、世界最大の金貨とさえいわれる天正(てんしょう)大判は有名である。天正大判には天正菱(ひし)大判と天正長大判とがあり、菱大判は1588年(天正16)に後藤徳乗に命じてつくらせたものと伝えられている。

 江戸時代には幣制が統一され、金座、銀座、銭座(ぜにざ)において金貨、銀貨、銭貨の三貨を鋳造し、幕府は全国通用の正貨とした。金貨には大判(十両)、五両判、小判(一両)、二分判、一分判、二朱判、一朱判があり、銀貨には秤量(ひょうりょう)貨幣の丁銀、小玉銀(小粒(こつぶ)銀、豆板銀ともいう)のほか、定位銀貨として五匁銀、一分銀、二朱銀、一朱銀がつくられた。銭貨には慶長(けいちょう)通宝、元和(げんな)通宝、寛永(かんえい)通宝、宝永(ほうえい)通宝、天保(てんぽう)通宝、文久(ぶんきゅう)永宝があった。三貨のうち金貨と銀貨はしばしば改鋳され、幕府は財政窮乏を打開するために改鋳益金を収得した場合が多い。金貨のうち大判には、慶長大判(1601創鋳)、元禄(げんろく)大判(1695)、享保(きょうほう)大判(1725)、天保大判(1838)、万延(まんえん)大判(1860)の5種類があり、また小判には、慶長小判(1601)、元禄小判(1695)、宝永小判(1710)、正徳(しょうとく)小判(1714)、享保小判(1716)、元文(げんぶん)小判(1736)、文政(ぶんせい)小判(1819)、天保小判(1837)、安政(あんせい)小判(1859)、万延小判(1860)の10種類があった。小判は大判に比べて改鋳の機会が多く、それだけ小判には日常的な通貨の性格が比較的強かったとみられている。銀貨の丁銀および小玉銀は小判とほとんど同じように幕府によって改鋳が繰り返され、慶長丁銀・小玉銀(1601)、元禄丁銀・小玉銀(1695)、宝永二ツ宝丁銀・小玉銀(1706)、宝永永字丁銀・小玉銀(1710)、宝永三ツ宝丁銀・小玉銀(1710)、宝永四ツ宝丁銀・小玉銀(1711)、正徳丁銀・小玉銀(1714)、元文丁銀・小玉銀(1736)、文政丁銀・小玉銀(1820)、天保丁銀・小玉銀(1837)、安政丁銀・小玉銀(1859)の11種類に達した。これらの三貨の交換割合は幕府により1609年(慶長14)に金1両=銀50匁=銭4貫文と定められたが、1700年(元禄13)には金1両=銀60匁=銭4貫文と改定された。この法定相場は市中では絶えず変動しており、実際には変動相場制が長く維持された。

 幕府貨幣の三貨のほかに、大名領国では藩札とよばれる紙幣が発行された。最初の藩札は1661年(寛文1)発行の福井藩札であった。明治政府により藩札処分令が発せられた1871年(明治4)の調査によれば244藩で藩札が発行されていた。

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近代の貨幣

明治新政府は、1871年に新貨条例を制定するとともに、幣制改革のために造幣寮(現在の独立行政法人造幣局)と紙幣寮(現在の独立行政法人国立印刷局)を開設した。新貨条例において、日本の貨幣の単位は正式に円とされ、円の価値は純金1.5グラムと定められた。また、補助単位として銭、厘が設けられ、十進法が採用された。本位貨幣として20円、10円、5円、2円、1円の金貨、補助貨幣として50銭、20銭、10銭、5銭の銀貨、2銭、1銭、半銭、1厘の銅貨が鋳造されることとなったが、銀本位国に囲まれた日本の実情から、貿易の便宜上、1円銀貨の発行を定め、事実上無制限の通貨として認めた。そのため、新貨条例が金本位制度をとったとはいえ、現実には金銀複本位制度の性格をもつものとなった。このような金銀複本位制度を維持するにあたってもっとも重要なことは、金銀比価がつねに一定していることである。しかし、新貨条例による金銀比価は1対16であったが、その後銀価が低落を続けたため、金銀比価は上昇し、グレシャムの法則が働いて、金貨はまもなく流通界から姿を消してしまった。すなわち、実質的には銀本位制度になってしまったわけである。

 明治政府は、このように新貨条例を定めて近代的貨幣制度を確立したが、これに前後して、当面の経費をまかなうために、太政官札(金札)、民部省札、大蔵省兌換(だかん)証券、開拓使兌換証券などを発行した。しかし、これらの紙幣は印刷技術が幼稚で、偽造されることも多かったため、政府は新紙幣に統一することとし、1872年2月から新紙幣を発行した。この紙幣は正式には明治通宝というが、ドイツで印刷されたため、一般にはゲルマン紙幣とよばれた。1881年からは、この新紙幣にかわって神功(じんぐう)皇后像の改造紙幣が国内で印刷され、発行された。

 このような政府紙幣のほかに、殖産興業政策の一環として1869年に東京など8か所に設置された為替(かわせ)会社も紙幣を発行し、また、国立銀行条例に基づいて1873年から設立された国立銀行も、当初は金貨兌換紙幣を、1876年の同条例改定後は政府紙幣との兌換紙幣を大量に発行した。

 これら各種の紙幣の整理は、1881年に大蔵卿(きょう)に就任した松方正義(まつかたまさよし)によって推進されることになった。1882年には中央銀行として日本銀行が設立され、国立銀行紙幣を新たに発行することは禁止された。1884年には兌換銀行券条例が制定され、翌1885年から日本銀行の銀貨兌換銀行券が発行された。この最初の日本銀行券には大黒天の像が印刷されており、100円、10円、5円、1円の4種類があった。1888年からはこれにかわって改造券が発行されることとなり、100円券には藤原鎌足(ふじわらのかまたり)、10円券には和気清麻呂(わけのきよまろ)、5円券には菅原道真(すがわらのみちざね)、1円券には武内宿禰(たけしうちのすくね)の肖像が採用された。なお、このころまでにつくられた紙幣の下絵および原版製作は、当時印刷局に招聘(しょうへい)されていたイタリア人エドアルド・キヨソーネによるものがほとんどである。

 19世紀の後半に入ると、イギリスをはじめとして、欧米の先進諸国は相次いで金本位制度に移行し、その影響もあって銀価はますます低落の度を強め、銀本位国の経済を圧迫していた。日本も1897年に至り、ようやく金本位制度を基幹とする貨幣法を制定、公布した。これは日清(にっしん)戦争(1894~95)の賠償金を準備金に設定したもので、円の価値を従前の純金1.5グラムから0.75グラムへと平価の半減を行い、本位貨幣として20円、10円、5円の金貨、補助貨幣として50銭、20銭、10銭の銀貨、5銭の白銅貨、1銭、5厘の青銅貨を鋳造するというものであった。また、日本銀行の銀貨兌換銀行券は金貨兌換銀行券に改定された。

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現代の貨幣

第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると、日本も大戦の影響を受けて1917年(大正6)に金輸出を禁止し、金本位制度を停止した。大戦後、主要国はただちに金本位制度に復帰したが、日本は戦後恐慌(1920)、関東大震災(1923)、金融恐慌(1927)などのため復帰が遅れ、ようやく1930年(昭和5)1月に金輸出を解禁した。しかし、たまたまアメリカに端を発した大恐慌が進行していた時期に旧平価で解禁したため、金の流出をもたらし、また、金本位制度維持のための緊縮政策は、大恐慌による海外からの打撃と相まって、国民生活に深刻な影響を及ぼし、翌1931年12月には金輸出再禁止が実施された。ここに日本における金本位制度は終わりを告げ、管理通貨制度へと移行したのである。

 1931年9月の満州事変勃発後、日本では日増しに戦時体制が強化され、それとともに貨幣素材はしだいに悪化と軽量化の道をたどっていった。すなわち、1933年には補助貨幣の10銭、5銭が白銅貨からニッケル貨にかわり、1937年7月に日中戦争が勃発すると、翌1938年5月には臨時通貨法が制定され、ニッケル貨はアルミニウム貨に、「50銭ギザ」として親しまれていた銀貨は、富士山に梅花を配した50銭政府紙幣に切り替えられた。その後第二次世界大戦に入ると、1944年3月には10銭、5銭は錫(すず)貨に、1銭は錫亜鉛貨になり、同年8月には10銭と5銭の錫貨にかわって八紘一宇(はっこういちう)の塔のデザインのある10銭、楠木正成(くすのきまさしげ)像の5銭の日本銀行券が発行された。さらに戦争末期の1945年になると陶器製の10銭、5銭、1銭貨幣の製造さえ進められていたが、発行されないうちに終戦を迎えた。

 第二次世界大戦後、インフレの異常な高進に対処するために、1946年(昭和21)2月には金融緊急措置令に基づいて旧円から新円への切り替えが行われ、新円として聖徳太子の肖像の100円券、国会議事堂の10円券、唐草(からくさ)模様を配した5円券、二宮尊徳の1円券が発行された。また、新しく菊紋と稲穂の10銭アルミニウム貨、菊紋と鳩(はと)の5銭錫貨、および産業立国を象徴する鍬(くわ)、つるはし、稲、麦、魚、歯車を配した50銭黄銅貨が発行された。このうち50銭黄銅貨は翌1947年には直径・量目を縮小し、図案も菊紋と桜花に改められた。1948年5月には小額紙幣整理法が制定されて、50銭以下の紙幣は同年8月末日をもって通用禁止とされ、回収が進められた。また同年9月には国会議事堂の5円黄銅貨、橘(たちばな)の模様のある1円黄銅貨が発行された。なお、1946年5月に連合国最高司令部(GHQ)から郵便切手ならびに貨幣に軍国主義的なものや超国家主義的なものを標榜(ひょうぼう)する図案を使用することを禁止する旨の覚書が出され、これらの新しい貨幣の図案を決定するに際してはGHQの規制を受けた。

 1949年には1ドル=360円の単一為替レートが設定され、翌1950年からの民間貿易の全面再開への体制が整えられた。1949年には稲穂の模様の穴あきの5円黄銅貨が発行され、翌1950年にはアメリカのドル紙幣に似た横長の1000円券がつくられた。これには聖徳太子の肖像が用いられた。翌1951年には岩倉具視(ともみ)の500円券、高橋是清(これきよ)の50円券、宇治平等院の鳳凰(ほうおう)堂の10円青銅貨が発行された。

 1953年7月には「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」が制定され、1円未満の小額通貨の廃止・整理が行われることになった。戦後のインフレによって銭や厘は通貨としても取引の額としてもすでに無意味になっていたのである。同年には新たに板垣退助(たいすけ)像の100円券が発行された。1955年には戦後初の図案公募による若木の1円アルミニウム貨、横から見た菊花の50円ニッケル貨が発行された。

 インフレの進行とともに高額紙幣の発行が問題とされていたが、1957年には5000円券が、翌1958年には1万円券が発行され、ともに聖徳太子の肖像が取り入れられた。また、1957年には20年ぶりに銀貨が鋳造されることとなり、鳳凰の模様の100円銀貨がつくられた。しかし、この銀貨は先につくられた50円ニッケル貨と形や色が似ていて紛らわしかったため、図案を公募してつくりかえることとなり、1959年に稲穂の100円銀貨、大輪の菊花の穴あき50円ニッケル貨がつくられた。さらに1963年には伊藤博文(ひろぶみ)の1000円券、1967年には桜花の100円白銅貨、菊花三輪を配した穴あき50円白銅貨がつくられた。

 その後の日本の高度成長に伴い、円安傾向の交換レートは是正されることになり、1971年12月に1ドル=308円の新為替レートが実施されたが、さらに1973年2月からは変動為替相場制へと移行することになった。

 1982年4月には、15年ぶりに新しい貨幣として桐(きり)の模様の500円白銅貨がつくられた(1999年に韓国の500ウォン硬貨を変造した偽500円硬貨が出回ったため、2000年改鋳された新しい500円ニッケル黄銅貨が発行された)。1984年11月には、紙幣のデザインを一新することとなり、形を従来のものより一回り小さくするとともに、1万円券には福沢諭吉、5000円券には新渡戸稲造(にとべいなぞう)、1000円券には夏目漱石(そうせき)の肖像を採用したものが発行された。さらに、2000年(平成12)7月には九州・沖縄サミット(先進国首脳会議)と西暦2000年を記念して、新紙幣2000円券が発行された。表面に沖縄の首里城の守礼門(しゅれいもん)、裏面には国宝『源氏物語絵巻』の一部と紫式部(むらさきしきぶ)の肖像を採用した。2004年には偽造防止をおもな目的とした新紙幣が発行された。うち5000円券は樋口一葉(いちよう)、1000円券は野口英世(ひでよ)に肖像を変更した。

 なお、第二次世界大戦後にはこのほかに記念貨幣として、1964年に東京オリンピック記念貨幣(1000円銀貨、100円銀貨)、1970年に日本万国博覧会記念貨幣(100円白銅貨)、1972年に札幌オリンピック記念貨幣(100円白銅貨)、1975年に沖縄国際海洋博覧会記念貨幣(100円白銅貨)、1976年に天皇陛下御在位50年記念貨幣(100円白銅貨)、1985年に国際科学技術博覧会記念貨幣(500円白銅貨)、内閣制度創始100周年記念貨幣(500円白銅貨)、1986年に天皇陛下御在位60年記念貨幣(10万円金貨、1万円銀貨、500円白銅貨)が発行された。

 その後、1988年に新貨幣法の「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」が施行され、記念貨幣を政令で随時発行する体制がつくられた。以後、1988年に青函(せいかん)トンネル開通記念貨幣(500円白銅貨)、瀬戸大橋開通記念貨幣(500円白銅貨)、1990年に国際花と緑の博覧会記念貨幣(5000円銀貨)、天皇陛下御即位記念貨幣(10万円金貨、500円白銅貨)、裁判所制度100周年記念貨幣(5000円銀貨)、議会開設100周年記念貨幣(5000円銀貨)、1992年に沖縄復帰20周年記念貨幣(500円白銅貨)、1993年に皇太子殿下御成婚記念貨幣(5万円金貨、5000円銀貨、500円白銅貨)、1994年に関西国際空港開港記念貨幣(500円白銅貨)、第12回アジア競技大会記念貨幣3種(いずれも500円白銅貨)、1997年に長野オリンピック記念貨幣(第1~2次)(1万円金貨、5000円銀貨、500円白銅貨)、1998年に同じ記念貨幣(第3次)(第1~2次と同額の金貨、銀貨、白銅貨)、1999年に天皇陛下御在位10年記念貨幣(1万円金貨、500円白銅貨)、2002年FIFAワールドカップ記念貨幣(1万円金貨、1000円銀貨、500円ニッケル黄銅貨3種)が相次いで発行された。2003年発行の第5回アジア冬季競技大会記念貨幣(1000円銀貨)は日本で初めての彩色を施した硬貨(カラーコイン)であった。同年に奄美(あまみ)群島復帰50周年記念貨幣(1000円銀貨)が発行された。

 また、1998年4月には、戦時立法の日本銀行法(1942年2月公布)が改正・施行となり、日本銀行は開かれた独立性と政策決定の透明性を確保し、アカウンタビリティ(説明責任)を果たしていくことが重要となった。

[作道洋太郎]

『カール・マルクス著、長谷部文雄訳『資本論』第1巻第1篇第3章(1954・青木書店)』『J・G・ガーレイ、E・S・ショウ著、桜井欣一郎訳『貨幣と金融』(1967・至誠堂)』『D・パティンキン著、貞木展生訳『貨幣・利子および価格』(1971・勁草書房)』『久留間鮫造著『貨幣論』(1979・大月書店)』『J・M・ケインズ著、長沢惟恭訳『貨幣論』(1980・東洋経済新報社)』『J・ニーハンス著、石川経夫訳『貨幣の理論』(1982・東京大学出版会)』『前田拓生著『銀行システムの仕組みと理論――地域を支える中小企業金融の理解のために』(2008・大学教育出版)』『カール・マルクス著、武田隆夫他訳『経済学批判』(岩波文庫)』『三島四郎・作道洋太郎著『貨幣』(1963・創元社)』『造幣局泉友会編『原色日本のコイン』(1967・朝日新聞社)』『平木啓一著『コイン』(1968・文芸春秋)』『日本銀行調査局編『図録日本の貨幣』全11巻(1972~76・東洋経済新報社)』『郡司勇夫編『日本貨幣図鑑』(1981・東洋経済新報社)』『小川浩著『日本古貨幣変遷史』(1983・日本古銭研究会)』『山口和雄著『日本の紙幣』(1984・保育社)』『E・ビクター・モーガン著、小竹豊治監訳『改訂増補 貨幣金融史』(1989・慶応通信)』『東野治之著『貨幣の日本史』(1997・朝日新聞社)』『山田喜志夫著『現代貨幣論――信用創造・ドル体制・為替相場』(1999・青木書店)』『山田勝芳著『貨幣の中国古代史』(2000・朝日新聞社)』『パルメーシュワリ・ラール・グプタ著、山崎元一・鬼生田顕英・古井龍介・吉田幹子訳『インド貨幣史――古代から現代まで』(2001・刀水書房)』『黒田明伸著『貨幣システムの世界史――「非対称性」をよむ』(2003・岩波書店)』『マーク・シェル著、小沢博訳『芸術と貨幣』(2004・みすず書房)』『ピエール・クロソウスキー著、ピエール・ズッカ写真、兼子正勝訳『生きた貨幣』新装版(2004・青土社)』『矢部倉吉著『古銭と紙幣――収集と鑑賞 無文銀銭から現行貨幣まで』改訂新版(2004・金園社)』『中村佐伝治著『日本のコイン』(保育社・カラーブックス)』『藤沢優著『世界のコイン』(保育社・カラーブックス)』『岩井克人著『貨幣論』(ちくま学芸文庫)』

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百科事典マイペディア 「貨幣」の意味・わかりやすい解説

貨幣【かへい】

商品の交換の際に価値の尺度,支払い手段の役割を果たすほか,生み出された価値を貯蔵する役割をもつもの。古くは貝殻や石,金銀の商品貨幣が使われたが,近代の経済発展に伴い,それまで補助貨幣として使用されていた紙幣が兌換制度(兌換券)のもとで管理され,ついには兌換の停止,不換紙幣が供給されるようになった。→通貨
→関連項目古銭学名目貨幣名目主義

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普及版 字通 「貨幣」の読み・字形・画数・意味

【貨幣】か(くわ)へい

ぜに。かね。〔後漢書、光武帝紀下〕武十六年~初め王の亂後、に布帛金粟を雜用す。是の、始めて五銖錢を行ふ。

字通「貨」の項目を見る

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世界大百科事典 第2版 「貨幣」の意味・わかりやすい解説

かへい【貨幣】


【貨幣の経済学】

[貨幣の定義・機能]
 貨幣とは,通常次の三つの機能を果たすものと定義される。すなわち,(1)決済手段(支払手段)としての機能,(2)価値尺度としての機能,(3)価値貯蔵手段としての機能である。貨幣の決済手段としての機能とは,広く社会で行われるさまざまの経済取引に際し,その取引の決済が貨幣の移転を通じてなされることを意味している。また,価値尺度としての貨幣の機能とは,取引される多様な財・サービスの価格を貨幣の単位,たとえば円やドルで表示することによって,それらの財・サービスの交換比率を統一的に表現することを可能としていることを示している。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「貨幣」の意味・わかりやすい解説

貨幣
かへい
money

一般的受領可能性をもった債務決済の手段。最も流動的な資産であり,計算単位でもって表示される。起源は原始社会にまでさかのぼるといわれ,分業が発達し,商品交換が進むにつれて貝類,牛,石,布などが商品貨幣として登場し,のちに金銀がこれらに代り,最終的には鋳造貨幣および紙幣の現金通貨と銀行に預金されている当座性預金通貨などが貨幣の実際上の内容となっている。貨幣の機能は次の3点である。 (1) 価値尺度および価値基準 (価格の基準として貨幣呼称をもち,計算貨幣となる) 。 (2) 交換手段あるいは流通手段。 (3) 価値貯蔵手段。

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世界大百科事典内の貨幣の言及

【貨幣数量説】より

…貨幣量と物価の関係についての古典派の学説で,〈ある国の物価水準は,その国に流通している貨幣の量に比例して決まる〉というものである。すなわち,貨幣の量が2倍になれば物価もほぼ2倍になると考える。…

【金融】より

…売手はその指図書を銀行に持参すれば,所定の金額を取引相手の預金口座から自分の口座へ振り替えることができる。だから,現金と当座預金とが一般的交換手段といえるのであって,これらをまとめて貨幣ということが多い。そして,お金とは貨幣のことであり,金融とは貨幣が経済取引において一方から他方へととどこおりなく通ずることにほかならない,ということもできる。…

【経済学】より

…これに対してマクロ経済学は,一つの国民経済ないしは市場経済全体に関する集計的な経済変量がどのようなメカニズムによって決まり,その間にどのような関係が存在するかということを考察する。すなわち労働雇用量,国民総生産,国民所得,物価水準,利子率,貨幣供給量,財政支出,輸出入,為替レートなどがどのようにして決まってくるか,これらの諸量がどのように変動するかという問題を分析の対象とするわけである。マクロ経済学は雇用理論,所得理論,景気変動論ないしは景気循環論,恐慌論などに分類されることもある。…

【古銭学(古泉学)】より

…古代から近代にいたるまでの貨幣とメダルを取り扱う学問。メダルとは記念牌(はい)や徽章(きしよう)の類で,ある事件や人物を記念して作られたもの。…

【紙幣】より

…貨幣ないし現金通貨について,その素材が金属か紙かによって鋳貨(硬貨)と紙幣に分類する見方がある。この分類によると,紙幣は広義に解されて,政府の発行する政府紙幣(狭義の紙幣)と銀行券(現在は中央銀行の発行する中央銀行券)が含まれる。…

【造幣局】より

…貨幣の製造をおもな業務とする大蔵省の付属機関。その歴史は古く,1869年(明治2)太政官に造幣局が設けられたが,同年,造幣寮と改称,77年にふたたび造幣局となった。…

【通貨】より

…通貨とは狭い意味の貨幣を意味するが,場合によっては貨幣とまったく同義に使用されることもあり,明確な定義は存在しない。第1次大戦前の金本位制度のもとでは,商品貨幣としての金が本来の貨幣であり,銀行券は金との交換性を保持している場合にのみ本来の貨幣と同じ機能をはたすものと考えられていた。…

【フェティシズム】より

…このように商品がこれを生産した〈人間の意志を超えて動き出し,人間を拘束する〉存在となる事態を,マルクスは宗教の神になぞらえて商品世界の〈物神崇拝〉と呼んだ。このフェティシズム成立の最大の原因と考えられるものが貨幣である。何となれば,関係態である商品体系の中に一つの中心として貨幣が登場すると,その中心化によってそれぞれの商品があたかも個としての実体として存在するかのごとき錯視が生まれるからである。…

【メダル】より

…材料は銅,鉛および金,銀が使用される。賞牌(しようはい),記念章や勲章および古代ギリシア・ローマの貨幣もこれに含まれる。 古代ギリシアの貨幣は芸術的にも価値高い工芸品であった。…

※「貨幣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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