「権利」が「義務」と対になる概念であるのに対して、「責任」は「義務」を含むことがあり、「損害賠償責任」と「損害賠償義務」のように「責任」と「義務」がほぼ同じ意味で使用されることもある。
責任ということばは,それが用いられる文脈に従って,多少とも相互に異なった内容を指す。哲学的概念としての責任は人間の自由と相関する概念であり,政治的概念としての責任は立憲主義と相関する概念(たとえば内閣の責任)である。しかしここでは,われわれの日常生活に最も関係の深い道徳責任について述べる。
〈法は道徳の最低限〉という表現があるとおり,法とくに刑法の規定する罪,たとえば殺人,窃盗,誘拐,詐欺などは,人が犯してはならない道徳的規則の最も基本的なものである。そこで,人々の主観によって恣意的な内容を与えられがちな道徳責任の概念を,刑事責任の事実をとおして,客観的に明らかにすることができる。刑事責任とは,刑罰を科せられるに値する能力ないし資格を指す。現代文明諸国においては,(1)成熟した障害のない精神をもつ者が,(2)故意または過失により,(3)他の適法の行為を期待しうる状況のもとで違法の事実を引き起こしたとき,その者が責任を問われて罰せられる。このように現代文明諸国においては,責任の担い手は正常な成人である個人であって,責任を問われるのは故意または過失という主観的事実である。しかし過去においては,責任者と同じ集団に属しているために巻添えになって罰せられたり,まったくの偶然の動作が引き起こした客観的事実が罰の理由となることが,珍しくなかった。また子どもや精神病者が責任者の範囲から除外されない場合も少なくなかった。すなわち,近代以前の多くの社会においては重大な犯罪に関して集団責任が制度化されていたり,また行為者の意図が何であろうと,行為(または不作為)の結果の重大さだけによって行為者を罰する客観責任が制度化されていたりしていた。近代へ向かうにつれて,集団責任から個人責任へ,客観責任から主観責任へと,責任の制度がしだいに移行してきたのである。
道徳責任の意識は刑事責任に通常随伴するが,しかしそれは刑事責任の適用される範囲をこえて広がっている。それゆえ集団責任と客観責任とが制度化されている社会において,このような責任の制度は無辜(むこ)の存在に制裁を加えることがあるから不合理であると,道徳的に判断を下す人々もいた。また個人責任と主観責任とが制度化されている今日の社会において,個人を犯行に追いやった社会的環境に罪を認める集団責任の意識が社会の側で起こることもあるし,一般的にみて予測不可能な行為の結果に対しても責任を負う客観責任の意識(M. ウェーバーのいう責任倫理)もある程度広がっている。しかしこれらの場合を古い集団責任や客観責任への後戻りとみることはできない。責任は本来的に集団性と客観性とに向かって拡散する傾向をもっており,これらの場合はその一つのあらわれである,とみるべきであろう。日本人は所属集団に深く巻き込まれる傾向があり,そのために個人責任の意識が西洋の人々ほど強くない。集団の雰囲気に同調して決定に参加した個人が,あとになってその決定に責任を感じない場合はその一例である。しかし責任意識の進化の観点からみた場合のこのような遅れは,別の側面においては,すぐれた共感能力や仲間への攻撃性の抑制という長所と結びつくこともある。
執筆者:作田 啓一
民事責任は,契約上の債務不履行に基づく契約責任と,そのような関係にない一般第三者との間で生じる不法行為責任とに大別される。刑事責任との対比においては,民事責任の主要な機能は損害の塡補(てんぽ)にある。そのため民事責任の根幹を成す基準として日本民法(709条)がとくに不法行為責任のために規定する過失責任主義は,民刑未分化の時代を経て,19世紀に至ってそれまでの原因主義にかわり,大陸法,英米法を問わず支配的潮流となった帰責原理である。それは,原則として故意犯のみを処罰の対象とする刑事責任に比べて加害者に対する責任追及の余地を大きくするが,他方で,過失がなければ損害賠償義務を負わされることはないというかぎりでは,本来,個人の自由活動領域を保証するという機能をもつものである。しかし,被害者保護という社会的要請のために,損害塡補的機能が前面に立たされることとなったが,それにあわせて,過失概念も主観的な道徳的非難というよりも損害負担を合理的に配分するための手段(客観的な行為態様=客観的行為義務違反)という側面に重点が置かれてきた。さらには危険責任のように,社会生活の一般的な危殆(きたい)化に対して損害惹起の責任を求めようとする帰責原理が比較法的にも発展しつつある。社会的接触の多様化にともなう矛盾はまず損害賠償請求訴訟を通じて顕在化されることが多いため,民事責任には過大ともいえる法政策的判断が必要とされる局面が増加していることは確かである。ただ損害塡補的機能は,人身損害を中心として社会保障や特別の損害保障制度によって置き代えられる可能性があり,そのかぎりで民事責任は,他の法分野との協働の下に新たな機能領域を探るべく重要な課題を担わされているのである。
執筆者:藤岡 康宏
広義の刑法上の責任(刑事責任)とは,犯罪を犯したという過去の事実に対し,国家ないし社会全体との関係において,刑罰という制裁ないし不利益を受忍すべきことをいう。昔は民事責任と未分化であったが,現在では両者は明確に別個のものとして区別され,相異なる原理に支配されている。すなわち,民事責任が被害者に対するその損害の塡補・金銭賠償を主眼とし,場合によっては無過失でも負わされうるものであるのに対し,刑事責任は,犯罪者がその有意的に,すなわち,故意または過失により国家刑罰規範に違反し一定の被害を生ぜしめたことについて,自己の属する国家ないし社会全体に対して負うべきものである。具体的にいえば,たとえば,他人所有の物をこわした者は,民事責任としては,故意・過失を問わず,生じた損害相当額の賠償を被害者になすことが要求され,それで足りるが,これと別個に問われる刑事責任としては,故意の場合で,かつ被害者の告訴があることを前提に,器物損壊罪として3年以下の懲役または30万円以下の罰金もしくは科料が予定され,その範囲内で裁判所が裁量により,被害額を含む諸般の事情にかんがみ,適当と思われる刑を科し,あるいは場合によっては,刑の執行を猶予したりするのである。このような性格をもった刑事責任がいかなる根拠・見地からとらえられるべきかということについては,犯罪を行ったこと自体に対する社会倫理的非難という意味で応報的見地から考えるべきであるとする道義的責任論と,犯罪を行ったことに示される犯罪者の社会的危険性に着目し,その再犯防止という予防・教育目的から考えるべきだとする社会的責任論との根本的な理論的対立がある。現在では,両者いずれの観点も否定しきれないとして,互いに接近する傾向がみられるが,基本的な立場の差の終局的解消の見込みはなお見いだしがたい。
刑法上,狭義に責任という場合,それは,犯罪成立要件の一つとしての,犯罪行為と犯罪者の意思との間の関連を意味する。ある行為が犯罪を構成するためには,それが刑罰法令の一般的に定める犯罪類型にあてはまること(構成要件該当性),実質的な被害を惹起していて正当化されないこと(違法性),そして当該行為が行為者の意思に基づくものとして行為者に帰属し,かつ,その意思形成をなしたことが非難可能であること(有責性)を要するが,この3番目の要件が責任である。換言すれば,責任とは違法な行為をなしたことに対して行為者に加えられる非難である。それは個々の違法行為を非難の対象とする責任という意味で,(個別)行為責任と呼ばれる。また,個々の違法行為を実行した主観的意思に対する責任という意味で,意思責任とも呼ばれる。行為責任の一種として,行為に現れた限度で行為者の人格ないし環境を考慮するという実質的行為責任と呼ばれる考え方がある。これは,責任を心理的意思に対する非難可能性として実質化していったとき,行為要素としての意思活動の背後にある行為者側の人格的ないし環境的事情を考慮せざるをえなくなることを正面から認めつつ,なお明確に行為と結びつける立場である。これらに対し,個々の行為と意思とは行為者の犯罪的性格の危険性の徴表にすぎず,責任とは性格の危険性のもつ社会的意味自体であって,非難の契機を有さないとする性格責任論,犯罪行為とは行為者の人格の現実化であり,責任非難も行為だけを切り離して論ずることはできず,行為の背後にある人格環境にまで及ばねばならないとし,主体的な人格形成についても行為者に非難を加えることができるとする人格(形成)責任論等も主張されているが,今日支持者は少ない。
さて,上では責任を非難可能性,すなわち規範的価値判断それ自体として述べたが,規範的責任論と呼ばれるこのような考え方が当初から存在したわけではない。犯罪を客観的要素と主観的要素とに分け,前者を違法性,後者を責任と考える古典的な刑法体系においては,行為者が自己の行った外部的な違法行為について,これを認識し,または認識しえたという心理的な関連自体,あるいは,故意・過失という心理的要素の存在自体が責任と考えられていたのである。これを心理的責任論という。心理的責任論から規範的責任論への移行は,すでに責任要素としての故意・過失の心理的分析においても,過失については,認識すべきであり可能であったのに認識しなかった不注意ということが単なる心理的事実を超えた義務違反の要素を含むのではないか,故意についても,単なる事実の認識を超えた違法性の認識等を含むのではないか,という形での規範的要素への注目という点において始まっていたが,20世紀初頭のドイツにおける期待可能性論の台頭とその急速な一般化によって決定的なものとなった。詳細は〈期待可能性〉の項に譲るが,そこでは,たとえ,故意・過失という心理的事実があっても,行為者に当該犯罪行為以外の行為をとるべきでありかつとりえたことを期待しうるような情況がない限り(〈付随事情の正常性〉がない限り),これを非難することはできず,責任はないとされ,逆に,適法行為の期待可能性が存在するにもかかわらず,みずからの意思に基づき違法行為を選択・実行したことに対する非難が責任ととらえられるに至ったのである。責任の要素(ないし前提)としての責任能力,故意,過失については,各該当項を参照されたい。
→刑法
執筆者:伊東 研祐
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人間の行為が自由な行為であり、その行為の原因が行為者にある場合に、その行為ならびに行為の結果に関して、法的または道徳的な責任が行為者に帰せられる。したがって、外部から強制された行為や、幼児や精神錯乱者の行為に関しては、その原因が行為者の自由な決定のうちにはないとして、責任が問われないのが普通である。そしてこの二極の間に、行為の責任をどこまで問いうるかに関して、さまざまな段階が考えられる。行為に関して、その意図よりも結果を重視するのが責任倫理であって、意図の善(よ)さに重きを置く心情倫理に対立する。サルトルも実存の自由な創造には責任が伴うことを強調した。また責任は英語ではリスポンシビリティresponsibility、ドイツ語ではフェルアントボルトゥングVerantwortungで、いずれも他人に応答する責めを負うことを原義とするが、人間の本来的関係を「我(われ)と汝(なんじ)」に置く見方からは、責任は本来、汝に対する我の応答であるとされる。
[宇都宮芳明]
なお、責任の語がつく用例としては、政治的責任、法律的責任(刑事責任・民事責任)があり、これについては各項目を参照されたい。
[編集部]
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…しかし,殺人罪の構成要件に該当する行為があっても,その行為が〈正当防衛〉としてなされたのであれば,その行為は違法でない。その場合には,後に述べる〈責任〉の有無の検討に入るまでもなく,犯罪は成立しない。たとえば,Aが殺意をもってBにピストルを発射してBを死亡させた場合は,殺人罪の構成要件に該当するから,通常,違法である。…
※「責任」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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