1890-1947年大日本帝国憲法下で衆議院とともに立法府を構成した機関。国民代表的性格をほとんどもたない点で,一般の〈上院〉や戦後の参議院とは根本的に異なる機関である。その構成は,成年に達した皇族男子と30歳以上の公・侯爵の全員,30歳以上の伯・子・男爵の各5分の1(互選),〈国家ニ勲労アリ又ハ学識アル者〉から天皇が任命する勅選議員(30歳以上),および各府県の多額納税者の上位15人から1人を互選する多額納税議員からなり,公・侯・伯・子・男の有爵議員が議員の半数以上を占める定めとなっていた。このうち,皇族と公・侯爵議員は世襲,伯・子・男爵と多額納税議員は7年ごとの互選,勅選議員は終身であった。第1議会に臨んだ各種議員の数は,皇族10,公爵10,侯爵21,伯爵14(定員15),子爵70,男爵20,勅選61,多額45,合計251であった。
帝国憲法はこのような特権階級だけからなる貴族院に衆議院と完全対等の権限を与えていたから,国民の参政権行使の場としての立法府の機能は著しく制限されることとなった。第1,第3,第4議会で衆議院を通過した地租軽減法案が貴族院の審議未了や否決により不成立に終わったことや,第27議会で衆議院を通過した普通選挙法案が貴族院で否決されて不成立に終わったことは,その一例にすぎない。予算審議権においても,衆議院は先議権以外の特権をもっていなかったから,準政党内閣や政党内閣の財政政策は,貴族院の強い掣肘(せいちゆう)を受けた。政友会に基礎を置く第4次伊藤博文内閣下での1901年度予算や第1次山本権兵衛内閣下での1914年度予算は,その典型的な例である。
貴族院議員のすべてが藩閥政府の忠実な支持者で政党内閣制の否定論者であったわけではない。公爵近衛篤麿らの三曜会や子爵谷干城の率いる懇話会などは,時には政党のほうを支持して藩閥内閣を批判した。また藩閥指導者のなかにも伊藤博文などのように政党=衆議院の意向を貴族院のそれよりも重視しようとしたものもあった。しかし,政党の勢力伸張を喜ばない山県有朋系官僚は,主として官僚の中から任命された勅選議員を茶話会(1893結成)や第1次無所属団(1898結成)に集め,さらに1899年末にはこの両会派(幸俱楽部派という)の共通クラブとして幸俱楽部を発足させ,自派の貴族院における足場を強化した。また山県系官僚は,貴族院最大の会派である研究会(1891結成)との関係を強めた。
もっとも,日露戦争後のいわゆる桂園時代に,政友会は山県閥の貴族院支配に挑戦を試みた。まず第1次西園寺公望内閣の末期に,研究会の指導者堀田正養(子爵)を逓信大臣として入閣させて同会の分裂をはかり,また研究会の勢力外であった男爵議員の掌握をめざして木曜会の千家尊福(男爵)を司法大臣として入閣させた。後者の背景には,日清・日露戦争の結果,軍功などによる男爵の数が増加し,勅選議員と子爵議員を中心とする山県閥の貴族院支配に若干の動揺が生じたという事情があった。しかし第1次西園寺内閣が退陣して山県閥の桂太郎が内閣を組織すると(1908,第2次),政府は伯・子・男三爵議員のおのおのに5分の1制限のほかに定員制限を加えて,男爵議員の増加を抑えた(伯爵17,子爵70,男爵63)。また研究会も政友会に接近した堀田正養を除名して統制を強化した。堀田除名に先だち政友会も,研究会の子爵議員選挙母体である尚友会に対抗するために,子爵談話会を結成したが,1911年の三爵議員総改選時までに談話会に参加した子爵は73人で,尚友会の229人にはまったく及ばなかった。このためこの総改選では研究会が子爵議員70人中の66人を当選させ,子爵議員を完全に独占した。有爵議員の互選は完全連記制であったから,尚友会を握る研究会は同派の候補者全員を当選させることも可能であったのである。
しかし,大正政変から第1次山本内閣にかけての山県系官僚閥の政治的後退の中で,勅選議員中心の幸俱楽部と子爵議員中心の研究会との間にしだいに亀裂が生じ,研究会は山県閥の支配から離脱する傾向をみせはじめた。研究会の内部では水野直,青木信光ら若手子爵が,この方向を推進した。この傾向は政友会の原敬内閣の下で顕在化し,政友会と研究会との提携が公然と論議されるにいたった。しかし1924年1月の研究会に基礎を置く清浦奎吾内閣の登場により,政友会と研究会の提携は一時断絶した。貴族院に基礎を置く特権内閣に対する世論の反発が高まり,政友会総裁高橋是清が爵位を辞して特権内閣反対の先頭に立ったからである。この結果,研究会との提携を支持するものは床次竹二郎を中心に政友会を脱会して政友本党を結成した。
1924年5月の第15回総選挙では,特権内閣に反対する憲政会,政友会,革新俱楽部の三派連合が勝利し,清浦に代わって憲政会の加藤高明が内閣を組織した。この内閣の下で,25年の第50議会で貴族院令の改正が行われた。その内容は,新たに4人の学識経験者を帝国学士院会員の互選によって勅任することと,各道府県1人の多額納税議員を1人ないし2人とし,その互選人を各道府県上位100人ないし200人の多額納税者に拡大することの2点であり,本格的な貴族院改革からはほど遠いものであった。しかしこれにより以後貴族院が政治の表面に出て活躍することは少なくなった。
もっとも,保守勢力の拠点のひとつとしての貴族院の役割は,その後も存続した。浜口雄幸内閣のもとで衆議院を通過した労働組合法案や小作法案を審議未了にしたり(1931),美濃部達吉の天皇機関説攻撃の中心となった(1935)のは,その一例である。しかし,二・二六事件(1936)以後,政党政治が軍部ファシズムによってとどめをさされるとともに,貴族院も帝国憲法下で課せられていた使命を終了し,存在意義を失っていった。制度としての貴族院は47年日本国憲法施行とともに消滅した。
執筆者:坂野 潤治
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二院制の国会で、世襲の貴族や高官などによって構成される議院。議会制の長い歴史をもつイギリスでは、古くウィリアム1世(在位1066~87)のころから国王の諮問機関として大貴族よりなる大会議magnum conciliumを有していたが、しだいに小貴族、市民代表が参加することになり、のちに分裂して、世襲制の貴族階級によって構成される貴族院House of Lordsと、市民代表からなる庶民院House of Commonsの二院制が成立した。民主政治の発展とともに、公選制の庶民院に政治の実権が移り、貴族院は名目的存在となった。貴族院の制度は、イギリスの影響を受けたヨーロッパ諸国、すなわち立憲君主制時代のフランス、第一次世界大戦以前のプロシア王国、バイエルンなどのドイツ諸国、オーストリアなどにみられたが、現代では、イギリスを除いて存在しない。
わが国では、明治憲法下の帝国議会が衆議院および貴族院から構成された。権限のうえでは衆議院と貴族院はほぼ同等とされたが、衆議院が公選議員によって構成されるのに対して、貴族院は貴族院令の定めるところにより、皇族議員、華族議員および勅任議員によって組織された(旧憲法34条)。
貴族院令によれば、皇族議員は、成年に達した皇族は当然議員となる。華族議員のうち公侯爵を有する者は、満30年(大正14年〈1925〉の改正前は満25年)に達すれば当然議員となり、伯子男爵を有する者は、総数150人(大正14年改正前は176人)で、同爵者中の選挙により選出され、その任期を7年とした。勅選議員は、(1)終身議員として、国家に勲労ある者または学識ある者のなかから勅選される満30年以上の男子125人、(2)帝国学士院会員より互選される任期7年の議員4名(大正14年の改正により追加)、(3)多額納税者議員として各府県から多額納税者100人に対して1名の割合で互選された任期7年の議員66名以内、の3種類があった。
以上の組織で明らかなように、貴族院は、大土地所有者、資本家、高級官僚など、旧憲法時代における特権支配層を代表し、また同時に天皇制の防塞(ぼうさい)たる役割を担うものであった。公選議員よりなる衆議院の政党化に伴い、政党と藩閥官僚との対立が表面化すると、貴族院がときにキャスティング・ボートを握り、あるときは政府と対立し、またあるときは政府と結んで野党を抑えた。第四次伊藤博文(ひろぶみ)内閣における予算案(1901)、第一次、第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣における郡制廃止案(1907)、選挙法改正案(1912)をめぐる政府との対立が前者の例であり、清浦奎吾(けいご)内閣の成立(1924)に対する支援が後者の例である。清浦内閣の成立に関しての貴族院の態度に反発する護憲三派の不満を直接の契機として、1925年、貴族院の一部改革が行われた。
昭和に入り、軍部が台頭し、二・二六事件による政党政治の終焉(しゅうえん)とともに議会政治は有名無実となり、貴族院もその存在意義を失った。1947年(昭和22)日本国憲法の施行により貴族院は廃止された。新憲法下でも二院制は維持されたが、衆議院、参議院とも公選議員により組織されることとなった。
[山野一美]
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大日本帝国憲法のもとで衆議院とともに帝国議会の1院を構成した立法機関。1890年(明治23)11月,帝国議会の開設により開会。(1)皇族(成年男子),(2)公・侯爵,(3)伯・子・男爵の互選,(4)国家の勲功者・学識者から勅任,(5)各府県の多額納税者の互選者から勅任,の人々が貴族院議員となった。のち帝国学士院会員の互選者を議員に加えた。衆議院の予算先議権のほかは,衆議院とほぼ同等の権限をもち,藩閥官僚派など特権的勢力の拠点として政党勢力と対抗した。大正期には貴族院の最大会派研究会が衆議院の多数党の立憲政友会と接近し,大きな影響力をもったが,1925年(大正14)加藤高明内閣のとき貴族院改革が行われ勢力は減退した。47年(昭和22)5月3日,日本国憲法の施行により廃止。
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…しかし16世紀に入り,司法体としてよりも立法機関としての議会に国家統治上の効用が見いだされたことや,王室財政の膨張に対する臣民の関心が強まったことなどの事情から,財政負担承認に優越的権能をもつ下院(庶民院House of Commons)の重要性と人気が高まった。 〈名誉革命〉後,王権による議会権能侵犯の危険が法的に抑制されたのに加え,ウィリアム3世の始めた長期にわたる大陸戦争の戦費調達を承認するため,定期的な議会開催が慣例となった結果,下院は上院(貴族院House of Lords)を凌ぐ有力な統治機関として確立された。予算承認と引換えに,内閣の人員構成を通して国王の統制を図る制度的基礎が固まり,内閣は事実上政府そのものとして認知されていく。…
…子爵議員を中心とする貴族院内最大の院内団体で,1891年11月に結成され,1947年3月の帝国議会の終幕まで存続した。結成当時の幹部は,伯爵大原重朝,子爵京極高典,同加納久宜,同山内豊誠,同鍋島直虎,同堀田正養で,1892年11月の第4議会開会当時には70名の議員を擁していた(侯爵1,伯爵6,子爵26,男爵10,勅選12,多額納税者15)。…
…ただし,これらは違憲立法審査権をもたず,その権限を行使するのは,別に設置される連邦憲法裁判所Bundesverfassungsgerichtである。ほかにイギリスの貴族院House of Lords,フランスの破毀院Cour de cassationが司法の最高機関として,日本の最高裁判所に相当するといえるが,その性格や機能の面で異なる点も多くみられる。
[最高裁判所裁判官]
最高裁判所は,15名の裁判官により構成され,その長たる裁判官を最高裁判所長官,他の14名の裁判官を最高裁判所判事という。…
…なお,その名称については,当時,〈第一院〉〈上院〉〈公議院〉〈特議院〉〈審議院〉といった案も検討されたが,結局,〈参議院〉という名称に落ち着いた。 そもそも,両院制(二院制)とは,国民を直接代表する議院とともに,第二院たる議院をもって構成する議会制度であるが,後者は,その設置の目的に従って,(1)特権的少数者の利益保護を目的とする貴族院型,(2)社会の職能的集団を代表させようとする職能代表型,(3)高い知性・専門知識の会議体として構成しようとするブレーン・トラスト型,(4)他院のコントロールを目的とする機関内統制型,(5)連邦を構成する各邦を代表する連邦型に類型化することができる。もとより,こうした類型化は,あくまで理念型にすぎず,実際には,それらの複合的な性格を示すことは,明治憲法時代の貴族院が,(1)のみならず,(3)(4)の役割をも果たすことが期待されたこと,そして,現行の参議院が,(2)のみならず,(3)(4)の役割をも果たすことが期待されていることからも明らかである。…
…その正式な名称は,国によって異なる。たとえば,アメリカ合衆国では元老院Senate,イギリスでは貴族院House of Lords,ドイツでは連邦参議院Bundesrat,旧ソ連では民族ソビエト(民族会議)Sovet Natsional’nostei(ソ連崩壊後のロシア連邦では連邦会議),日本では明治憲法下にあっては貴族院,現在は参議院である。その構成や機能も多様であるが,大別すれば,(1)世襲貴族や資産階級などの特権的階層を代表し,保守勢力の利益を擁護するもの(イギリス,明治憲法下の日本),(2)連邦国家において,州を代表し州の利益を代弁するもの(アメリカ合衆国,ドイツ,旧ソ連など),(3)職能代表あるいは良識の府としての役割を期待されているもの(アイルランド,旧ユーゴスラビアなど)などに分けられる。…
…1890年から1947年まで存続し,天皇主権下における立法機関として機能した。
[機構と権限]
帝国議会は皇族・華族・勅任議員によって構成される貴族院と,公選議員で組織される衆議院との2院からなり,その権能はほぼ対等になっていた。また,議会の開会,閉会,停会などは天皇大権に属し,さらに特定案件の下では緊急勅令を制定し,大権事項にもとづく歳出項目について政府の同意なしに議会が廃除・削減することはできず,議会が予算案を否決した場合に,政府は前年度予算を施行できることなどが憲法に規定されており,議会独自の権能である立法権,予算審議権を大きく制約するものであった。…
※「貴族院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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