西洋の歴史において貴族とは,一般に大規模な世襲的土地所有を経済基盤として,生活のための手の労働から解放され,その卓越した軍事的役割と,高貴な血統による排他的門閥形成を通じ,国家の政治的指導の面で大きな特権をもつ身分を指す。英語ではnobility,フランス語ではnoblesse,ドイツ語ではAdel。
ギリシアのポリスでは,前8~前6世紀,王政から民主政への過渡期に,貴族政(アリストクラティアaristokratia)が実現された。アリストイaristoi(貴族)とは〈最もすぐれた者〉の意味であり,その基本的美徳は勇気である。しかし鉄製兵器の導入にともなう重装歩兵戦術の普及や貨幣形態の富の比重増大などの社会的変化によって,貴族支配はしだいに崩壊していった。ローマでも,王政に続く共和政期に,諸氏族を基盤とする出生貴族(パトリキ)の支配が見られ,その政治的拠点は元老院であった。前3世紀における貴族と平民との身分闘争ののち,新しい型の官職貴族(ノビリス)が形成されて旧貴族に取って代わり,この新貴族がコンスルなど国家の最高官職を占めた。元老院を中核とする貴族勢力は帝政のもとでも存続し,皇帝によるパトリキの新設もときに行われたが,2世紀以降,大土地所有制の変質による社会の構造変化にともない,伝統的な貴族支配の原理は力を失っていった。すでに共和政のもとで,国家から給付を受ける騎士(エクイテス)身分が形成され,これがやがて元老院貴族に次ぐ有力な階層として国営事業や徴税請負を独占し,その財力により帝政後期の政界で大きな力を振るった。
古ゲルマンの社会では,初期の自由人たる農民・戦士の共同体が,土地所有関係の変動を通じてしだいに解体し,農民と区別される軍事的な貴族身分が諸部族の指導層となった。その権力基盤は土地と農民に対する支配で,これがやがて領主制へと発展する。フランク王国の発展にともない,古来の血統貴族とは別に,従士制度という軍事組織に媒介されつつ,国王への勤務にもとづく新たな貴族身分が形成され,衰退する旧貴族を同化吸収していった。この従士制と恩貸地制(ベネフィキウム)の結合により,国王を頂点とする貴族相互の人格的誠実関係に支えられた封建制度ができあがり,これが中世ヨーロッパの政治的秩序の骨格となる。貴族の叙任は国王の権利に属するという観念も,この時期に確立した。
12世紀には,かかる封建領主としての貴族,すなわち広義の騎士身分が俗人文化の担い手となり,いわゆる騎士道の黄金時代が現出した。またカトリック教会の聖職者階層制は封建社会の一構成要素をなしていたから,司教をはじめとする教会統治の指導部は,事実上,貴族によって占められるにいたる。他方,国王や諸侯が直轄領の管理のために創設した家士(ミニステリアーレ)という本来は不自由身分の役人層も,その〈名誉〉ある勤務を通じて社会的に上昇し,騎士身分に合流していった。その結果,13世紀以降,多くの地域で貴族の内部に階層分化が進行し,大きな所領をもつ高級貴族とこれに奉仕する下級貴族としての狭義の騎士身分の区別ができあがった。イギリスのナイトknights,フランスのシュバリエchevaliers,ドイツのリッターシャフトRitterschaft,スペインのイダルゴhidalgosなどがこの新しい騎士身分である。また,12,13世紀以来,自治都市が発展すると,市民共同体の内部でも富裕な上層市民の諸門閥が閉鎖的な〈都市貴族〉層を形成した。この支配層は,同職組合の手工業市民を市政から排除し,イタリアの都市共和国などでは,古典古代のそれに類似した貴族政的統治(シニョリーア制)の担い手となった。
中世末期以来,農民の自立化が領主経済を脅かすなかで,国王や領邦君主による官僚制的な集権国家の建設が進み,他方で火砲の導入による戦術の変化がおこると,貴族とりわけ下級貴族層の勢力は目だって衰えてくる。イギリスのように,騎士身分が早くから地主化し,新たな経済事情に順応する地方名望家としてのジェントリー(ジェントルマン)を形成したところを別とすれば,ルネサンスから絶対主義時代にいたる宮廷政治の発展は,一般に貴族の都市集住を促した。また君主国家の常備軍や官僚機構の指導部に生活の道を求める貴族も増えてゆく。しかし,プロイセンやポーランド,ハンガリー,さらにロシアなど東欧諸国では,近世に入ると貴族領主による農民支配がかえって強化され,社会構造に後進性を刻印した。
→シュラフタ →ボヤーレ →ユンカー
西欧諸国では,これに反し,貴族の領主権はしだいに単なる地代徴収権へと縮小し,フランス,ドイツなど,領主裁判権や免税権がなお特権として存続したところでも,その政治的な自立性は奪われた。もっとも,公侯伯子男といった貴族身分の爵位序列は,王権への依存が強まるなかでむしろ厳格化し,ブルジョアが財力で貴族に成り上がるなど,社会の貴族主義的な性格は旧制度のエリート層の大きな特徴をなしている。そしてこの貴族的エリート概念は,後進的な国々では,19世紀になっても,近代市民社会の発展を多かれ少なかれ制約した。
封建社会の盛期における〈騎士道〉は,聖職者に担われた中世前期の文化に代わる俗人(俗語)文化の登場を意味し,そこでは戦士の美徳とキリスト教信仰とが,礼節・自己規律,また理想化された愛の情念のなかに融合していた。ルネサンスと人文主義はそれ自体,新しい市民階層の生活意識を表現するものであったが,イタリア,フランス,イギリスなどで宮廷が文芸の中心となるにともない,B.カスティリオーネの《廷臣論》に描かれたような,優雅な文人貴族の理想が一般化する。それと同時に,貴族ないし騎士身分の軍事的機能の低下に対応しつつ,貴族の資質における精神的な要素が従来以上に強調されることとなった。
絶対主義時代の宮廷文化のもとでは,人格の陶冶を目ざす古典的教養の尊重とならんで,ステータス・シンボルとしての美術や音楽の保護・助成が有力貴族の間でさかんに行われた。また,一般に当時の身分制社会では,市民や聖職者も価値意識において貴族に同化する傾向があり,他方では,政治から疎外された〈私的〉な生活領域のなかで,貴族の〈市民化〉が進行する。こうして,17~18世紀のフランスの〈サロン〉に見られるように,身分の垣根を越えた知的ないし美的な社交生活のなかから,新しい自由思想の芽がはぐくまれていった。
地方自治や議会制の発展したイギリスでは,貴族ないしジェントリーが引き続き政治生活を指導したが,フランスをはじめ君主政が強化された国々においては,貴族は,モンテスキューのいわゆる〈中間権力〉として,思想的にしばしば〈自由〉の擁護者の役割を引き受け,市民的な啓蒙主義運動の一翼を担うこともあった。フランス革命における自由主義貴族の活躍もその表れであり,19世紀に入ってからも,ロマン主義の潮流のなかに,この伝統は受け継がれた。しかし,文芸における市民的な写実主義さらに自然主義の登場は,貴族が長らく果たしてきた文化史的役割の決定的喪失を物語るものである。伝統的エリートとしての貴族の歴史的意義は,概して,君主政治の衰退,また工業化の進展,技術文明の発達とともに過去のものとなってゆくのである。
→貴族制 →爵位
執筆者:成瀬 治
日本の近代華族制度は,直接的には平安時代の宮廷貴族に由来する。その平安貴族の形成には,四つの要素が考えられる。第1は律令官位制で,三位以上を〈貴〉,四位・五位を〈通貴〉といい,朝廷の上層部を占めて各種の優遇をうけた。しかも元来個人を対象とした貴・通貴身分は,父祖の庇蔭をもって叙位する蔭位(おんい)制によって再生産され,その世襲化を促し,貴族化へ道を開いた。第2は公卿の成立で,平安中葉までに参議を含む公卿の範囲が定まり,宮廷貴族の中核となった。しかも平安中・末期に入ると,公卿が特定の氏族・家系に固定する傾向を急速に強め,〈貴種〉とか〈華族〉などの用語も生まれた。第3は昇殿制の成立である。平安時代も中・末期になると,有位者の増大などによって位階の社会的評価も相対的に低下し,昇殿の制が新しい身分制として重んぜられるようになった。昇殿を許された四位・五位の廷臣は,殿上人とか雲客と呼ばれ,昇殿を許されない地下(じげ)の官人との較差を広げる一方,公卿の見習的な存在となり,近世では公卿も含めて堂上(とうしよう)と呼ばれ,公家貴族の総称となった。第4は皇親貴族の出現である。平安初頭,嵯峨天皇の皇子女の臣籍降下を契機として,歴代賜姓源氏が相ついで宮廷社会に進出し,宮廷貴族の貴種志向を高めた。はじめて武力をもって政権を握った平氏も,鎌倉に本格的な武家政権を樹立した源氏も,皇親の末流として貴種性を誇り,貴族化の道を歩んだ。さらに公家勢力を抱え込む公武一統の政権を目ざした足利氏は,進んで公家貴族の首班を占めた。ついで戦国乱世のなかで,足利氏はじめ名族・雄族は多く没落し,新興の武将が国内統一を果たしたが,江戸幕藩体制のもとでは社会全般に身分・家格が固定し,将軍・諸大名等の世襲によって,新しい武家貴族が誕生した。1869年(明治2)新たに公定された〈華族〉の称は,上記の公家貴族と武家貴族に与えられた呼称である。
執筆者:橋本 義彦 華族には華族令によって一定の世襲財産・特権・貴族院議員たりうる資格が与えられたが,この華族制度は1946年新憲法により廃止された。日本では貴族制度が根づかず,近代以後は貴族文化といったものの発展もなく,イギリスのパブリック・スクールやオックスフォード,ケンブリッジ両大学のような貴族の子弟のための学校もほとんど発達しなかったことは,ヨーロッパ社会とくらべて特徴的である。
→華族 →公卿 →公家
執筆者:編集部
中国においては,六朝から隋・唐の時代に名家,高門,衣冠の族などと呼ばれ,高い官職を世襲的に占めて政治を占有するとともに,社会や文化の局面でも指導的役割を果たして中国の中世社会を特色づけた上級の文人官僚層をいう。
貴族は,後漢末の混乱期に郷里社会の救済や秩序維持に尽力した地方の名望家が発展したもので,国政の運営にこれら名望家の協力が不可欠であったこと,地域社会も権力機構とのパイプ役を特定の家にもとめたこと,さらに九品官人法が出自重視の官吏選用を行ったことなどから,官僚となる家の特定化と〈門地〉(家格,家柄)の層序的固定化が進んで,門地に応じて就官の範囲に差別がある門閥貴族制が成立することになった。このように貴族は,社会的身分としての門地,教養と道徳性のゆえに広く輿論によって国政に従事するようもとめられた士大夫であることが本来の資格とされ,土地や財産の有無は必須の条件ではなく,まして武人領主などではなかった。彼らが享受した特権にはそれに見合う義務がともなうとする規範意識は強く,大荘園や高利貸をいとなむものがつねに見られたにしても,営利事業などには手を出さず,公務に専念して清廉の生活態度を守った貴族は少なくなかった。王朝の交替にも禅譲の方式をとらせて,新王朝下での諸権利を確保するとともに,王朝の興亡をこえて社会秩序を維持し,分裂と混乱のこの時代に連続性と統一性を与えた。
しかし,門閥制の進展につれて,門地を誇る傲慢の態度や既得権を守ろうとする保身保家の意識はいっそう強まった。門地にそぐわない任官の拒否や同一家格内での通婚はその一例であるが,さらに,政務を俗事といやしんで文学・清談,また仏教や道教の信仰に没頭したり,現に官職におりながら自分ひとりの精神的充足をもとめる〈朝隠〉を理想としたりした。化粧にこるなど文弱化や堕落もはなはだしく,馬からずり落ちなかったり,手紙の挨拶句がまともに書けさえしたら立派な官僚だなどと陰口をたたかれた。
このような実務忌避や退廃は,一方で庶民出身の側近を寵用する皇帝専制政治,他方で貴族体制のもとで抑えられていた不満階層の反発を呼びおこすことになった。とくに後者は地方の名望家を中心としていただけに貴族が受けた衝撃は大きく,それまでの門地依存の姿勢から学問と道徳性にもとづいた士大夫本来のあり方へ自己革新する必要を痛感した。梁の学校・試験制度の整備も,国家体制の強化を目ざす皇帝,自己革新をはかる貴族,新興の名望家,これら三者の共通の意向にもとづいていた。門閥貴族制の展開が著しかった南朝でも,北朝と同様に門地偏重を克服する動きが見いだされ,このような潮流をふまえて隋・唐の科挙官僚制が成立する。貴族的教養と個人的才能の兼備を求められたこの新貴族体制のもとで,貴族の社会的勢力はなお強く,政治上の優位を保ちつづけた。しかし,安史の乱の大激動期をむかえると,系譜を編纂して伝統を誇示しつつ,新興勢力の権力と財力を目あてに婚姻(財婚)を重ねるなど存命をはかったが,没落をまぬがれることはできなかった。
執筆者:安田 二郎
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一つの社会において、格段に高い政治的ないし法的な特権と栄誉をもつことを社会的かつ伝統的に承認された集団。一面において血統の観念と強く結び付く傾向があり、いわゆる「貴種」として自他ともに認められるのが本来的なあり方で、その地位は世襲されるのが普通である。新たに貴族の地位を与えられた者が「成り上がり貴族」として、「生まれながらの貴族」に比して、ややもすれば民衆からも軽んぜられるのはそのためである。他面において貴族は、政治的あるいは宗教的権威の存在を前提とすることが多い。とくに王権によって新貴族が創出されるため、歴史的には貴族層内部に絶えず交代が生じた。近代市民社会では、貴族は消滅したわけではないにしても、影響力を失うのが普通である。
[渡辺昌美]
ギリシアの貴族(エウパトリダイeupatridai)は、伝説の時代の王やその側近の子孫と信じられた血統貴族で、アテナイ(アテネ)の例のように執政官職や元老院の議席を独占し、騎兵ないし戦車兵として軍事の主力を形成したが、民主政治の展開につれて地位を失った。ローマの貴族(パトリキ)は、なかば伝説の時代に支配的な氏族や部族を構成した者たちの子孫で、族籍をもたない平民(プレブス)と区別された。共和政期のなかばまで貴族は実質的にローマの支配者で、身分闘争が高揚する紀元前445年までは平民との通婚も禁止されていた。しかし伝統貴族の損耗はかなり激しく、前5世紀におよそ50氏族いたものが、前4世紀なかばには22氏族81家門、共和政末には14氏族30家門となり、帝政期の貴族はほとんどが皇帝によって元老院議員に登用された新興の大土地所有者である。なお騎士(エクィテスequites)はこれに次ぐ身分であるが、普通、貴族とはいわない。
民族移動後のガリアには2系列の貴族が存在した。一つはローマ系のセナトリアル貴族で、第一級の大土地所有者であるばかりでなく、多くは教会行政に影響力を有し古典的教養を最後まで持ち伝えた、甚だ特徴的な集団である。ラテン文学史の最終ページを飾るシドニウス・アポリナリスSidonius Apollinaris(430ころ―486ころ)にその典型をみる。いま一つはゲルマン系の血統貴族で、たとえば『バイエルン部族法典』は、大公の一族のほかに5氏族の名をあげ、自由人の「2倍の栄誉」「2倍の人命金」を定めている。両系列ともやがて中世的貴族のなかに解消する。
カロリング帝国は大陸の主要部分を統一して地方官を配置した。デュクduc、ヘルツォークHerzog(公)、マルキmarquis、マルクグラーフMarkgraf(辺境伯)、コントcomte、グラーフGraf(伯)などの官職と管区が知行(ちぎょう)化、世襲化するとともに、これら知行地を領有し、かつての官職を称号として用いる家系が中世貴族の最上層を形成した。
イギリスについては、9世紀『聖アレクサンダー移葬記』の著者ルドルフが「貴族、自由人、解放奴隷、奴隷」の4種類の人間が住み、貴族は劣位の者との婚姻を慎重に避ける、と記している。この段階の貴族は、他のゲルマン系諸族と同じく血統貴族であったと考えられる。ノルマン・コンクェスト以後、大陸の慣行が導入されたが、ここで貴族序列を決定したのは、王との関係、直臣か陪臣かの関係であった。
中世において、一般に土地領主は貴族であったと考えられたが、その下限、境界、身分資格はかならずしも明確でない。それが問題化するのは、王権が貴族身分の認定権を独占した中世末期、絶対王政期である。こうして証書による貴族が登場する。旧制度(アンシャン・レジーム)下の「法服(ローブ)の貴族」はブルジョアのなかから成長した新貴族で、これに対し伝統貴族を「剣(エペ)の貴族」とよんだ。
[渡辺昌美]
中国の魏晋(ぎしん)南北朝および隋(ずい)・唐の時代には、貴族が政治、社会、文化のあらゆる面にわたって主導的役割を果たし、貴族制社会とよばれる体制をつくりあげた。これら貴族は、後漢(ごかん)末の宦官(かんがん)を中心とするいわゆる濁流勢力に対抗して形成されたいわゆる清流勢力に起源をもち、社会の与望を担った家柄がしだいに門閥貴族として固定化した。門閥貴族には天下の全体に名の知られた琅邪(ろうや)の王氏や陳郡の謝氏などを第一流とするさまざまの家格が存在し、家格のつりあった家どうしで通婚が繰り返されたほか、魏晋南北朝時代を通じて、個人の能力ではなしに家格に応じてしかるべき官職が与えられる官吏任用法、すなわち「九品官人法(きゅうひんかんじんほう)」が行われたのである。当時の政治はまさしく天子と貴族の合議制とよぶべきものであった。晋代に行われた「王と馬と天下を共にす」ということばは、貴族の代表である王氏と晋の王室の司馬氏との共同政権との意味であり、唐代においても、中央政府を構成する中書、門下、尚書の三省のうち、門下省は天子の意志をチェックする権限を与えられ、貴族勢力の牙城(がじょう)となった。貴族たちの間には、家格の決定をはじめとして、天子たりとていかんともしがたい独自のルールが存在し、しかも興亡を繰り返す王朝とは無関係に門閥は延命を続けた。こうした安定のうえに、貴族は高度に洗練された生活と文化を追求し享受しえたのである。
しかし、6世紀、北朝においては六鎮(りくちん)の乱が、南朝においては侯景(こうけい)の乱が貴族社会の安定にかつてない動揺をもたらし、さらに隋・唐時代に至って九品官人法にかわる科挙制度が開始されると、しかるべき対応に失敗した貴族は没落を免れなかった。そして8世紀中葉の安史(あんし)の乱、9世紀末葉の黄巣(こうそう)の乱によって門閥貴族は完全に消滅し、科挙官僚を中心とする宋(そう)代の士大夫(したいふ)社会が準備されるに至った。
[吉川忠夫]
律令(りつりょう)官人の上層部をいう。律令の規定では三位(さんみ)以上を貴、四、五位者を通貴(つうき)といい、あわせて貴族とされた。このうち大臣、納言(なごん)、参議および三位以上を公卿(くぎょう)とか上達部(かんだちめ)といい、昇殿を許された四、五位者を殿上人(てんじょうびと)とよんだ。蔭子(おんし)・蔭孫の制をはじめ諸種の特権を与えられ、六位以下の官人との間には明確な格差があった。古代豪族が本籍地を離れて京師に集住する都市民となり、宮城にある官司へ出仕する官人になることが、貴族成立の指標で、そのためには官司=官人制度や給与制度の整備が要件であった。歴史的には7世紀の末から8世紀の初め、藤原京から平城京の時代にかけて出現したといえる。官人の数は8000~9000人に上ったが、そのうち貴族は100人以下で、増加した平安時代でも150人を超えることはなかった。その中核は大化前代以来の旧族の子孫であったが、平安初期に至り、他氏排斥や皇室との血縁関係を通じて政権を掌握した藤原氏(とくに北家(ほっけ))が卓越し、藤原氏が貴族の同義語とさえなった。それに伴い、貴族間に格差の増大と固定が進み、権門と寒門に分化した。地方官を歴任する中下級貴族=受領(ずりょう)層が形成されたのも平安中期である。
貴族は、給与が「代耕の禄(ろく)」といわれたように、土地所有と無縁であることをたてまえとし、事実、上層貴族の間には田舎(いなか)(地方)に所領をもち産業にかかわることを忌避する風潮があったが、国家財政の弛緩(しかん)に伴い、中下級貴族や地方豪族から所領の寄進を受けることが多くなった(いわゆる寄進地系荘園(しょうえん))。その結果、平安後期には摂関(せっかん)家が皇室と並ぶ二大荘園領主(本所(ほんじょ))となり、中小貴族・官人はその傘下に組み込まれた。貴族政治の盛期には、日本的な美意識に基づく文学や芸術が発展したが、ことに政治の構造にかかわって女房(にょうぼう)文学が展開、これは貴族と消長をともにした。
貴族は、武家勢力が台頭し政権を樹立するに及び、中世には政治権力を喪失する。そこで中世以降は武家に対比する意味もあって公家(くげ)(公家は天皇あるいは朝廷の意)の称が一般化した。この時期には仕えるべき官司も事実上消滅し、江戸時代には京都御所の周辺に集住して公家町を形成した。公家は明治以後華族(かぞく)に吸収されたが、第二次世界大戦後、華族制度が廃止され、消滅した。
[村井康彦]
『倉本一宏著『摂関政治と王朝貴族』(2000・吉川弘文館)』▽『増田繁夫著『源氏物語と貴族社会』(2002・吉川弘文館)』▽『マイケル・L・ブッシュ著、指昭博・指珠恵訳『ヨーロッパの貴族――歴史に見るその特権』(2002・刀水書房)』▽『芝川治著『ギリシア「貴族政」論』(2003・晃洋書房)』
①〔ヨーロッパ〕Peerage[英],Adel[ドイツ],noblesse[フランス]出生,財産,功績などにより,一般人とは異なる特別な社会的地位と政治的特権を与えられ,独自の身分意識で結ばれた特定の家族とその所属者。すでにギリシアのポリスにおいて貴族政治が行われ,ローマの共和政においても血統貴族パトリキが特権的地位を占めた。古代ゲルマンには部族の首長がおり,フランク王国時代には伯や辺境伯がつくられ,その後身を含めて中世封建制の時代には支配階層を形成した。王を頂点とし,「公」「伯」など爵位を持つ上級貴族から無爵位の騎士まで上下の別はあったが,元来みな「戦う人」(帯剣貴族)であり,自分の領地を支配する領主である。近世に入り火器の発達による戦術の変化や,絶対主義国家による権力集中が始まるとともに,騎士・支配者としての貴族の役割は有名無実化し,貴族は国王権力に寄生して政治的・社会的特権層を形づくることになる。貴族の地位は本来血統によって伝えられるものとされたが,「法服貴族」など司法・行政上の功績,あるいは武勲により,世襲的に,あるいは一代限りで貴族に叙せられるものも出,栄誉称号的なものに変わっていった。現在制度的にはイギリスなど僅少の国に残っているにすぎない。
②〔中国〕地方豪族の家格が門閥と寒門(かんもん)に分かれ,中央高官の特権を世襲的に独占した豪族を貴族という。特に六朝(りくちょう)時代は門閥貴族の勢力が強かった。皇帝権力への寄生によって貴族が生まれたのか,地方社会が貴族を生み出したのかで見解が分かれる。後者の立場では,九品中正(きゅうひんちゅうせい)によって地方の郷品(きょうひん)が中央の官品を決定したとし,魏晋南北朝時代から唐代までを中世貴族制の時代と位置づける。前者の立場では秦漢から隋唐までを皇帝と小農民の時代として古代とみる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
「パトリキ」のページをご覧ください。
「ドボリャニン」のページをご覧ください。
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
古代では三位以上を貴,五位以上を通貴といい,国家の支配階級である彼らがほぼ貴族にあたる。大和朝廷下の豪族の首長は,それぞれが宗教的権威者・政治的権力者として人民を支配する王権であり,その支配組織が氏(うじ)であった。こうした豪族が貴族となるのは,人民支配を放棄し,王権の主権者であることを放棄したときで,大化の改新から大宝律令成立にかけて氏族的要素をある程度残しながらも,制度上は土地・人民から離れた律令官僚貴族として位置づけられた。中世以後は,新たに支配階級となった武家に対する公家の上層部(摂家・清華(せいが)家など)をさしたが,伝統的権威をもつ存在にすぎなかった。明治期以後おかれた旧大名を含む華族は特権階級にとどまり,これも第2次大戦後廃止された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…これらの社団を大きく包み込むものとして,中世以来の伝統的な身分制秩序が受け継がれていた。第一身分としての聖職者clergé,第二身分としての貴族noblesse,そしてブルジョアジー以下の第三身分le tiers étatがそれである。革命前夜の総人口2600万のうち,聖職者は約12万,貴族は約35万にすぎないが,彼らは,王税を免除された特権階層を形成していた。…
…また,海外へ洋行する者も多く,同年の岩倉使節団に同行した留学生には多数の華族が含まれていた。この使節団はヨーロッパの貴族制にも関心を払い,これは帰国後の岩倉具視や木戸孝允らの対華族策となった。74年創立の華族会館(当初は当時の全華族427家中の約4分の1が参加。…
…この爪先には,干し草,羊毛などを詰めこみ鯨骨で整形したという。このような,歩くためのものという機能からはずれてデザインに走りすぎた靴を取り締まる法令は,イギリスでは1463年,フランスでは1470年に施行され,貴族を除いて一般の人びとの靴は爪先の長さ15cm以内に規制された。しかし次には逆に,横幅の広い靴が流行するようになり,16世紀半ばには横幅を規制する法令が施行されることになった。…
…
[身分秩序]
律令政府は,統一した全国支配を行うために,全面的な身分制を作りあげた。政治権力を掌握したのは,身分制の上にたって,氏・姓(かばね)をもたない天皇と,その下にあって通貴と称される五位以上の貴族である。この貴族は身分的にも経済的にも国家によって保護されており,前代から畿内を拠点に大和政権を構成していた大豪族の後継者が占めていた。…
…本来のジェントルマンとは,地代収入によって特有の奢侈(しやし)的な消費生活や教養,政治活動を中心とする行動様式などを維持しえた有閑階級のことである。基本的には,公侯伯子男という爵位をもつ貴族と,身分的には庶民であるが,貴族と同様に〈家紋つきコートcoat of arms〉の使用を認められていた〈ジェントリーgentry〉とがその構成員であった。家紋は盾の形をした枠組みのなかに特定の図案が収められているもので,その家門がかつて武器をもつことを許された階層に属していたことを象徴する。…
…1098年(承徳2)播磨大掾秦為辰が同国赤穂郡久富保公文職ならびに重次名地主職を子息為包に譲与した際の譲状(案)に,〈件所帯名田畠桑原等者開発之私領也〉と記しているのはまさにそれである(東寺百合文書)。 地主職は,この例にも見られるようにその土地は相伝・譲与され,また開発領主あるいはその所領の相伝者が,地主としての立場において所領を貴族・大社寺など有勢のものに寄進する場合もあった。1184年(元暦1)5月の後白河院庁下文(案)によれば,越前国河和田荘はもと藤原周子の先祖相伝の私領であったが,待賢門院のはからいで法金剛院に寄進し,その際〈地頭預所職〉は周子が留保して子孫相伝することになったという由来が述べられている。…
…この言葉は,〈生れ,素姓〉を意味するドイツ語〈ゲシュレヒトGeschlecht〉から作られたチェコ語〈シュレヒタšlechta〉に由来する。チェコ語と同様,ポーランドでも〈貴族〉一般の意味でも使われるが,ここでは〈ポーランド貴族〉の意味に限定して説明する。 ポーランド建国の功労者とされているミエシュコ1世やボレスワフ1世の騎兵であった〈従者たち〉は,侯や王の個人的な隷属民であった。…
…
[法制上の諸身分]
この社会の構造的な特徴の一つは,それぞれの個人がなんらかの身分集団に属するものとされ,いろいろな身分が一種の階層秩序(ヒエラルヒー)をなしているところにある。大きく分ければ,聖職者(僧侶),貴族,市民,農民という諸身分が一般的であるが,聖職者身分や貴族身分は,さらにその内部でいくつかの階層に編成されているのがふつうである。そして,おのおのの身分は独自の権利や名誉と結びつけられていたから,身分制社会は〈特権のシステム〉としての特徴をも示す。…
※「貴族」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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