当国は大和政権からは「越」「越度嶋」とよばれ、蝦夷地と接する地域と認識されていた。越国成立以前、崇神朝には「道君同祖、素都乃奈美留命」が「高志深江国造」に、「大和直同祖御戈命」が「久比岐国造」になったことが「国造本紀」にみえる。大化改新後
越後国の成立は、越前・越中・越後三国の分立が同時とすると持統天皇三年(六八九)七月から同六年九月の間と推定される。この時の国の南限は信濃川・阿賀野川の河口付近であろう。国名の初見は「続日本紀」文武天皇元年一二月一八日条で、「賜越後蝦夷狄物
、各有
差」とみえる。大宝二年(七〇二)三月一七日越中国の四郡を分ち越後国に属することとした(同書)。この時当国に入ったのは
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
現在の新潟県の旧国名。北陸道に属する。上国。佐渡は743年(天平15)越後国に併合されたが、752年(天平勝宝4)ふたたび一国に復した。北陸から出羽(でわ)地方以南は古くは越国(こしのくに)とよばれていた。これが越前(えちぜん)、越中(えっちゅう)、越後と3地区に分かれたのは7世紀末ころであった。このころの越後は阿賀野(あがの)川、信濃(しなの)川合流河口以北で、その北東部は蝦夷(えみし)の勢力に接し、境は不明確であった。大化改新後の大和(やまと)朝廷は、この国に647年(大化3)渟足柵(ぬたりのき)、648年に磐舟柵(いわふねのき)を設置し、蝦夷征圧の前進基地とした。702年(大宝2)には親不知(おやしらず)から阿賀野川までの越中4郡(頸城(くびき)、魚沼(いおぬ)、古志(こし)、蒲原(かんばら))を越後国に入れ、712年(和銅5)出羽国として成立した北部を除いて、越後の領域が形成された。
706年(慶雲3)に威奈大村(いなのおおむら)が初代の越後国守に任ぜられ、ついで安部真君(あべのまきみ)が国守に任ぜられ、辺境越後の経営にあたった。越後での統治の中心、国府は、当初今府(いまぶ)(現妙高(みょうこう)市)に置かれ、その後国賀(こくが)の地に移り、さらに府中(ふちゅう)(現上越市)へと、関川を下って移動してきたと考えられている。
東北地方から南下してきた武士の城(じょう)氏は、平安末期には越後一国を支配する棟梁(とうりょう)として成長した。源平争乱期には平氏一族の城氏は信濃の木曽義仲(きそよしなか)と対立、敗れて義仲が越後守(えちごのかみ)となった。その後源頼朝(よりとも)は越後を知行(ちぎょう)国として治め、佐々木盛綱(もりつな)が越後守護に任ぜられた。建武(けんむ)新政後は新田義貞(にったよしさだ)が越後守護として国内を領したが、南北朝争乱期、足利(あしかが)氏の任命した上杉憲顕(のりあき)は、越後新田氏などの南朝軍を破り北朝支配を強めた。
奈良時代から越後の特産物であった越後布も室町時代には公式礼服に用いられた。原料の青苧(あおそ)も越後が特産地で、その売買を独占する青苧座の手により、柏崎(かしわざき)や府中から遠く京坂に運ばれた。1207年(承元1)親鸞(しんらん)が専修念仏(せんじゅねんぶつ)禁制によって越後国府に流罪になった。初期真宗教団は親鸞の越後での布教活動により成立した。1343年(興国4・康永2)上杉憲顕が越後守護になってから、越後国内は上杉氏の勢力が強まった。しかし、やがて家臣の長尾氏にとってかわられた。長尾為景(ためかげ)の二男、上杉謙信(けんしん)は、越後国内の抗争を押さえ、全盛時には佐渡、越中、能登(のと)の3か国や、加賀、越前、信濃、奥羽など12か国の一部にまで支配を広めた。謙信の殖産興業策・文化奨励策により産業、交通が発展し、京文化が流入した。
1598年(慶長3)豊臣(とよとみ)秀吉の命により、上杉景勝(かげかつ)が会津に移封され、そのあとに堀氏とその与力(よりき)大名が越後に入封した。江戸時代に入ると、大名の交代が激しく、幕末期には11の小藩に分立し、統一ある発展が阻害された。越後平野に残っていた多くの潟湖(せきこ)を含む低湿地は、近世期以降に各藩の干拓事業が地主、町人などの出資で行われ、急速に開発が進んだ。それに伴い村数も増加し、天保(てんぽう)期(1830~44)までに881村が成立、越後全体で4051村になった。こうした越後には、所有地1000町歩を超える巨大地主市島家、斎藤家、白勢(しろせ)家、田巻家などが輩出した。多くの耕地が藩領域を越えて地主経営下に置かれ、経済、社会、文化の各方面に地主の影響が強く及んだ。
1672年(寛文12)以降、西廻(にしまわり)航路の発展とともに、新潟港(当時長岡藩領)は越後米の集散地として発展した。幕府は天保の改革(1841)の一環として新潟港を上知(あげち)し財政補強を図った。出雲崎(いずもざき)町出身の良寛(りょうかん)、『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』を著した塩沢(しおざわ)(南魚沼(みなみうおぬま)市)の鈴木牧之(ぼくし)などの文人や、尊王論を公家(くげ)に説いた竹内式部(たけのうちしきぶ)、重商主義的な経済政策を説いた本多利明(としあき)などが輩出した。
1868年(慶応4)の北越戊辰(ぼしん)戦争は越後諸藩をも渦中に巻き込んだ。河井継之助(つぎのすけ)の率いる長岡藩は官軍に強く抵抗したが、ついに敗れ、旧藩府勢力は排除された。明治政府確立後、廃藩置県によって、新潟、柏崎などの県が設置された。現在の新潟県は、1871年(明治4)に新潟、柏崎両県および相川県が合併、さらに86年に福島県の一部、東蒲原(ひがしかんばら)郡との合併によって今日に及んでいる。
[中村義隆]
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北陸道の国。現在の新潟県(佐渡島を除く)。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では頸城(くびき)・古志(こし)・三島(みしま)・魚沼(いおの)・蒲原(かんばら)・沼垂(ぬたり)・石船(岩船)(いわふね)の7郡からなる。古くは越(こし)(高志・古志)国の一部をなし,7世紀後半に越後国として分立。当初の国域はのちの岩船・沼垂郡域のみであったが,702年(大宝2)越中国の頸城・古志・魚沼・蒲原4郡を編入。708年(和銅元)出羽郡を新設,712年これを割いて出羽国とした。743年(天平15)佐渡国を併合,752年(天平勝宝4)再び分離。9世紀に古志郡から三島郡が分立。国府・国分寺は頸城郡におかれたが,越後国成立当初の国府とともに所在地は未詳。伊夜比古(いやひこ)神社(現,弥彦村)・居多(こた)神社(現,上越市)が一宮とされる。「和名抄」所載田数は,1万4997町余。「延喜式」では調庸として絹・布などのほかに鮭を貢進する。平安後期から城氏が勢力をもち,守護は鎌倉時代には佐々木・名越(なごえ)氏ら,室町時代は上杉氏。戦国期には上杉謙信が越中・能登とあわせ領有したが,1598年(慶長3)上杉景勝が会津に転封され,以後小藩が分立した。1871年(明治4)の廃藩置県の後,新潟県・柏崎県が設置され,73年柏崎県は新潟県に合併。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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