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①〔戦国〕前403~前222 戦国の七雄の一つ。領域は山西省北半,河北省南東にわたる。晋の有力家臣であった趙氏が,韓氏,魏氏とともに晋を3分して諸侯となった。都は前386年以降邯鄲(かんたん)。武霊(ぶれい)王(在位前325~前299)のとき遊牧民族の戦闘方式を取り入れて軍事改革を断行し,領域を拡大した。その後も藺相如(りんしょうじょ),廉頗(れんぱ),趙奢(ちょうしゃ)らの名将によって国力は維持されたが,前262年長平の戦いに大敗後は秦に侵蝕され,前228年邯鄲は陥落,前222年滅亡した。
②〔五胡十六国〕前趙と後趙がある。(1)前趙(304~329)前身は漢といい,山西の南匈奴(きょうど)劉淵(りゅうえん)が自立して建てた王朝で,平陽を都とし,弟劉聰(りゅうそう)のとき洛陽,長安を陥れ西晋を滅ぼした。319年一族の劉曜(りゅうよう)が国を奪って趙(前趙)と称し,長安を都とした。(2)後趙(319~351)羯(けつ)族の将石勒(せきろく)が襄国(じょうこく)(河北)を都として建てた王朝。前趙を併合したが,のち従子石虎(せきこ)が国を奪って鄴(ぎょう)(河北)を都とした。その死後の内紛のなかで漢族の将軍冉閔(ぜんびん)に滅ぼされた。
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中国、戦国時代の国名。晋(しん)に仕えていた大夫(たいふ)の趙氏が、紀元前403年、韓(かん)氏、魏(ぎ)氏とともに晋を三分して独立した諸侯となり、晋陽(太原(たいげん)市)に都を置いたときから始まる。現在の山西省北部、河北省南東部を領有し、戦国七雄の一つに数えられる。前4世紀末に初めて王を称した武霊(ぶれい)王(在位前325~前299)は遊牧民特有の騎馬戦法を採用して諸国に威力を示し、次の恵文(けいぶん)王(在位前298~前266)は都を邯鄲(かんたん)に移し、中山(ちゅうざん)王国を滅ぼし、代(だい)(河北省蔚(うつ)県)から陰山(いんざん)山脈に沿って内モンゴルに至る長城を築いて勢力を誇った。しかし、同時にこのころから秦(しん)の攻撃をしばしば受け、平原君の活躍などにより以後、4代にわたって国を維持したが、前228年に秦に邯鄲を落とされ、前221年に亡命中の王子嘉(か)が殺されて滅亡した。
[太田幸男]
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…在位1162‐89年。姓名は趙(ちようしん)。宋太祖7世の孫。…
…元の侵攻で,1276年(景炎1)国都臨安を明け渡した宋王朝の一部は,張世傑や文天祥らに支持され,福建,広東と逃げまわって再起をはかった。78年(祥興1)8歳の衛王趙(ちようへい)を擁立した張世傑らは崖山で元将張弘範の大軍を迎え撃ったが敗れ,陸秀夫(1236‐79)が,平家壇ノ浦の戦そのままに趙を背負って海中にとびこみ,300年の宋王朝は幕を閉じた。【梅原 郁】。…
…前半の大半の期間のことが魯国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国晋の家臣であった韓・魏・趙の3代が主家を三分独立し,晋は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれる韓・魏・趙・楚・斉・燕・秦の対立抗争の時代となるからである。
[歴史]
《史記》によれば,春秋初めには140余の小国が分立していたが,勢力のあったのは,魯(山東省曲阜),斉(山東省臨淄(りんし)),曹(山東省定陶),衛(河南省淇県,のち滑県),鄭(河南省新鄭),宋(河南省商丘),陳(河南省淮陽(わいよう)),蔡(河南省上蔡,のち新蔡,さらに安徽省鳳台),晋(山西省曲沃),秦(陝西省鳳翔,のち咸陽),楚(湖北省江陵,のち河南省淮陽,安徽省寿県),燕(北京市)の十二諸侯であり,洛陽には周王室があった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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